上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第五十三章

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第五十三章 砲声の向こう

 三発目の砲口から、白煙が上がった。

「伏せろ!」

 誰かの声と同時に、砲弾が海面を走った。

 異国船の左舷。

 船腹。

 二十三人の日本人がいるという場所。

 新之介は、何もできずに弾道を目で追った。

 砲弾は船腹へ届く直前、海面へ落ちた。

 巨大な水柱。

 異国船が大きく揺れる。

「外れた!」

 青山新六郎が叫ぶ。

「次は当たります!」

「信号旗を!」

 水野隼人正が朝風丸の船上から怒鳴った。

「砲撃中止! 上意偽り! 繰り返せ!」

 水主が旗を上げる。

 赤。

 白。

 黒。

 しかし浦賀砲台から返る旗は同じだった。

 ――榊原新之介の命により、撃沈せよ。

「なぜ私が砲台へ命を出せる!」

 新之介が叫ぶ。

 そもそも彼には、その権限がない。

「だからこそ、おかしい!」

 青山が答える。

「普通なら砲台の者も気づくはずです!」

「気づかぬ理由がある」

 水野が言った。

「何です」

「私の名でも、安西の名でもない」

「だからですか」

「榊原の名なら、役人の命ではない」

「それで信じるのですか」

「役人の命でないからこそ、別の何かが添えられている」

 水野の顔が変わった。

「印だ」

「何の」

「将軍家の黒印だけではない」

「では」

「井戸端見分の連署だ」

 新之介は息を呑んだ。

 四冊を扱うために作った取り決め。

 戸田。

 水野。

 坂崎。

 寺。

 町人。

 複数の立会人。

 一人で決めないための仕組み。

「連署そのものを使われたのか」

「名簿が奪われた」

 第四冊の保管記録とともに。

「誰が、どの印を持つかも」

 青山が言う。

「はい」

「複数の印が揃えば」

「一人の偽声より強い」

 新之介は歯を食いしばった。

 一人へ力を持たせないための仕組みが、そのまま偽りの証へ使われている。

「だから四冊だけでなく、名簿を奪った」

 半九郎が異国船の甲板から声を上げた。

 玄斎と兵庫の早舟へ乗り移り、すでに朝風丸と異国船の間を行き来している。

「印を持つ者の名を知るためです!」

「印そのものは」

「盗まれた物もあるでしょう!」

 新之介は続帳の主帳を思い出した。

 名。

 声。

 印。

 紙。

 一つずつなら疑える。

 だが複数が揃えば、人は真だと思う。

「青山殿」

「はい」

「浦賀砲台へ行けるか」

「海からでは間に合いません」

「では陸から」

「ここからでは、なおさら」

「信号を」

「朝風丸から出しています!」

「向こうが信じない」

「では、どうすれば」

 新之介は砲台を見た。

 遠い。

 顔は見えない。

 声も届かない。

 見えるのは旗だけ。

「砲弾で知らせる」

 安西主税が言った。

「何」

「朝風丸の砲を使う」

「撃ち返すのか!」

「違う」

 安西は船首砲へ走った。

「空砲三発。海防掛で、命令矛盾を知らせる合図だ」

「砲台も知っているか」

「古い合図だ。今はほとんど使わぬ」

「誰が知る」

「古参なら」

「撃て」

 水野が命じた。

 安西は水主たちを見た。

「火薬だけ入れろ! 弾は入れるな!」

 装薬。

 詰め物。

 火縄。

 一発目。

 轟音。

 二発目。

 轟音。

 三発目。

 朝風丸から三つの白煙が上がる。

 浦賀砲台。

 沈黙。

 しばらくして、砲台から一発。

「返事か」

「違います」

 安西が顔を曇らせる。

「何の合図だ」

「命令継続」

 砲台は止まらない。

 古い合図より、新しい連署を信じた。

「四発目が来る!」

 青山が叫ぶ。

 浦賀の砲口が異国船へ向く。

 今度は照準が低い。

 船腹。

 二十三人がいる場所。

「船を動かせ!」

 水野が異国船へ叫ぶ。

 だが帆柱は先ほどの砲弾で傷んでいる。

 白旗の男が異国人たちへ何か命じる。

 外国語。

 水主が綱を引く。

 だが船は大きい。

 すぐには動かない。

「朝風丸を間へ入れる」

 安西が言った。

「何」

 水野が振り返る。

「異国船と砲台の間へ」

「朝風丸が撃たれる」

「幕府の船へなら、砲台も撃てぬ」

「撃つかもしれぬ」

「ならば分かる」

「何が」

「砲台が誰の命で動いているか」

「四十人を試しに使うな」

 新之介が叫んだ。

 安西が彼を見る。

「では、どうする」

 新之介は答えられない。

 異国船の二十三人。

 朝風丸の四十人。

 どちらを前へ出しても、人を盾にすることになる。

「船ではなく、小舟を」

 甚八が言った。

「何」

「俺たちの舟を間へ出す」

「砲弾に耐えられぬ」

「耐えるためじゃねえ」

「では」

「旗を立てる」

 甚八は自分の着物を脱いだ。

 白い下着。

「これへ名を書く」

「誰の」

「乗ってる者、全員だ」

 新之介は甚八を見る。

「名を」

「ああ」

「砲台から読めない」

「近くまで行く」

「撃たれる」

「だから速く書け」

 甚八は平然としている。

「俺は千住の甚八」

「知っている」

「弥助」

「はい」

「平岡」

「はい」

「青山」

「はい」

 新之介は自分の名も書こうとする。

 青山が止めた。

「榊原殿の名は、偽命令に使われています」

「だから書く」

「逆に」

「本人がここにいると示す」

 弥助が墨を用意する。

 舟にあった荷札用の小筆。

 白布へ大きく書く。

 千住甚八。

 弥助。

 平岡作之丞。

 青山新六郎。

 榊原新之介。

「これで砲が止まるか」

 平岡が問う。

「分からぬ」

 新之介が答える。

「ならば」

「それでも声より姿を見せる」

「名も紙です」

「本人が持つ紙だ」

「違いが分かりますか」

「分からせる」

 甚八が竹竿へ白布を結ぶ。

「砲台へ行く」

「私も」

 新之介が言う。

「怪我人は重い」

「またそれか」

「舟の話だ」

「私の名で撃たれている」

「だから残れ」

「なぜ」

「お前が乗ってりゃ、砲台は『偽者を消せ』と余計に撃つかもしれねえ」

 新之介は言葉を失った。

「青山を乗せる」

 甚八が言った。

「海防掛の顔を知ってる奴がいるだろ」

「私も」

 平岡が進む。

「戸田家の紋があります」

「弥助は残れ」

「なぜ」

「お前は職人だ。死なれたら声筒の仕掛けを説明する奴が減る」

「船頭は死んでもよいのですか」

「俺の舟だ」

「答えになっていません」

「なら、死なねえように漕ぐ」

 甚八は舟を朝風丸から離した。

 青山と平岡。

 三人。

 白布。

 名前。

「待て!」

 新之介が叫んだ。

 甚八が振り返る。

「戻れ」

「できぬ約束は」

「今日はする日だ」

 甚八が笑う。

「戻るよ。舟代をまだもらってねえ」

 小舟は砲台へ向かった。

 ◇

 異国船では、玄斎と兵庫が白髪の男を挟むように立っていた。

「先生」

 玄斎が言う。

「さっきは決めるなと申しましたな」

「ああ」

「だが時間がない」

「それも分かる」

「ならば一つだけ」

「何だ」

「鷹見静山しか知らぬことを」

「人から聞けない問いか」

「ああ」

「難しいな」

 玄斎の顔が険しくなる。

「答えられぬのか」

「そうではない」

「では」

「私自身が、本当に私だけが知っていると思っていることも、誰かへ話したかもしれぬ」

「そんな」

「人は自分の秘密を過大に見る」

 兵庫が低く言った。

「相変わらず面倒な男だ」

「お前に言われたくない」

「ならば私が聞く」

「何だ」

「十五年前、無音寺へ向かう前夜」

 兵庫は男を見た。

「私は先生を斬ろうとした」

 玄斎が驚く。

「初耳だ」

「言っていない」

「なぜ」

「先生を止めるためだった」

 白髪の男の目が変わる。

「斬らなかった」

「ああ」

「私が刀を抜かなかったからだ」

「違う」

 兵庫が言った。

「先生は抜いた」

「……」

「だが刃を逆に持った」

 男は自分の右手を見る。

「そうだったか」

「覚えていないのか」

「覚えている」

「ならば何を申した」

 男は長く黙った。

 砲台の遠い音。

 海風。

 異国人のざわめき。

「兵庫」

 やがて男が言った。

「お前が私を斬れば、問いはお前へ移る、と言った」

 兵庫の顔から色が消えた。

「先生」

「その後、お前は泣いた」

「そこまで言うな」

 玄斎が兵庫を見る。

「泣いたのか」

「今それを申すな!」

 男が初めて笑った。

 玄斎も、わずかに笑いかけた。

 だがすぐに顔を戻す。

「それでも決めぬ」

「よい」

「なぜ」

「決める必要がない」

「本人なら腹が立たぬのか」

「立つ」

「では」

「だが、今は二十三人が先だ」

 白髪の男は船倉を指した。

「人を上へ出す」

「砲撃中だぞ」

「船底へ当たれば、下ほど危ない」

「甲板へ出れば砲弾が」

「一か所へ集めぬ」

「分けるか」

「ああ」

 玄斎は頷いた。

「役目を分ける」

「お前たちのやり方だな」

「先生のせいです」

「私のせいにするな」

 ◇

 船倉から、一人ずつ日本人が上がってきた。

 男。

 女。

 老人。

 中には歩けぬ者もいる。

 異国の服を着ている者。

 髪を短く切った者。

 日本語を忘れかけている者。

「名を」

 玄斎が最初の男へ問う。

「……佐吉」

「名字は」

「ない」

「出身は」

「浦安……だったと思う」

「思う?」

「十五年前だ」

 次の女。

「名は」

「春」

「出身は」

「佐倉」

「家族は」

 女は首を振る。

「もう、分からない」

 一人ずつ。

 荷ではなく。

 数字ではなく。

 名前を聞く。

 兵庫が紙へ記す。

「二十三人、全部書くのか」

「全部だ」

「時間が」

「砲が飛んでいても書く」

 白髪の男が言った。

「死ねば」

「死んでも名が残る」

 玄斎が睨む。

「死なせる前提で申すな」

「そうだな」

 男は素直に謝った。

「悪かった」

 玄斎がまた顔をしかめる。

「やはり先生に似ておる」

「なぜ」

「謝る時だけ早い」

 ◇

 砲台へ近づいた甚八の舟へ、警告の小銃弾が飛んだ。

 水面へ当たる。

「止まれ!」

 砲台側から声。

「逆賊榊原新之介の一味と認める!」

 青山が立ち上がった。

「海防掛・青山新六郎だ!」

「証は!」

「顔を見ろ!」

「遠くて見えぬ!」

「近づく!」

「近づけば撃つ!」

「では望遠鏡を使え!」

 砲台に動き。

 見張りの者が筒を向ける。

「青山殿」

 平岡が言う。

「名札を」

 青山は海防掛の身分札を白布へ結んだ。

「見えるか!」

 しばらくして、砲台から声。

「札は本物に見える!」

「なら砲を止めろ!」

「榊原新之介の連署は、さらに多い!」

「連署者本人を見たか!」

「印がある!」

「声は!」

「声筒で届いた!」

「本人は」

「……」

「誰も見ていないのか!」

 砲台側がざわめく。

 甚八が叫んだ。

「俺は千住の船頭、甚八だ!」

「何の関係だ!」

「関係ねえ!」

「なら黙れ!」

「関係ねえ奴まで撃つ命が本物か、考えろ!」

 砲台の声が止まる。

 甚八は続ける。

「異国船に二十三人の日本人がいる!」

「荷じゃねえ!」

「名前がある!」

「嘘だ!」

「なら見に来い!」

「砲で沈めた後じゃ見られねえぞ!」

 砲台の砲口は、まだ異国船を向いている。

 火縄を持つ者が迷っているのが、遠目にも分かる。

 その時、砲台の奥から別の声が響いた。

 新之介の声。

「撃て!」

「青山新六郎は偽物である!」

「舟ごと沈めよ!」

 青山の顔が変わる。

「また声筒です!」

 砲台の兵が再び火縄を上げる。

「待て!」

 砲台内で別の者が止める。

「青山の顔を知っている!」

「本物だ!」

「だが榊原の命が」

「榊原本人を見た者は」

 混乱が始まる。

 声筒の命令。

 目の前の青山。

 印。

 名札。

 どれを信じる。

「声筒を探せ!」

 青山が叫ぶ。

「どこから声が出ている!」

 砲台の者たちが周囲を見る。

 声は砲台奥の倉から。

「火薬庫だ!」

 誰かが叫んだ。

「中に人がいる!」

 兵たちが走る。

 ほどなくして、一人の男が引きずり出された。

 顔に黒布。

 腰には複数の声筒。

「捕えろ!」

 青山が叫ぶ。

 男は逃げない。

 代わりに火縄を取り出した。

 自分の腰へ巻いた火薬へ近づける。

「近づくな!」

 砲台の兵が止まる。

「撃て!」

 男が新之介の声で叫ぶ。

 だが直後、自分の声へ戻った。

「全部吹き飛ぶぞ!」

「名は!」

 青山が叫んだ。

 男が笑う。

「名などない!」

「ある!」

「捨てた!」

「昔の名でもよい!」

「ない!」

「誰に捨てさせられた!」

 男の顔が歪む。

「黙れ!」

「文吉か!」

「違う!」

「沢渡か!」

「違う!」

「三宅か!」

「黙れ!」

「では誰だ!」

 男は火縄を火薬へ近づけた。

 甚八が舟から叫ぶ。

「名前がねえなら、今つけろ!」

 全員が甚八を見る。

「何でもいい!」

「生きて答えるための名を、自分でつけろ!」

「ふざけるな!」

「死ぬのに名前はいらねえ!」

「生きるなら要る!」

 男の手が止まった。

 青山が一歩近づく。

「今の名を申せ」

「……」

「誰の手の者でもない名を」

 火縄が震える。

 やがて男は、かすれた声で言った。

「……新七」

「新七」

 青山が繰り返す。

「火を捨てろ」

「今さら」

「新七として話せ」

「何を」

「誰から命じられた」

 男――新七は目を閉じた。

 火縄が手から落ちた。

「水!」

 砲台兵が駆け寄り、火を消す。

「声筒を!」

 新七の腰から筒を外す。

 砲台の砲口が、ゆっくり下がった。

 ◇

「砲撃停止!」

 青山の旗が上がる。

 朝風丸から歓声が上がった。

 異国船でも、人々が息を吐く。

 水野が新之介たちの舟へ叫んだ。

「止まったぞ!」

 新之介は肩の力を抜いた。

 だが、すぐに甚八の舟を見る。

「戻れ!」

 遠くで甚八が手を上げる。

 戻る。

 約束どおり。

「異国船へ移る」

 新之介が言った。

「肩が」

 弥助が言う。

「今は」

「言わせません」

 弥助は先に布を出した。

「巻き直してからです」

「時間が」

「砲は止まりました」

「沢渡が」

 水面を見る。

 先ほど海へ落ちた沢渡の姿がない。

「いない」

 平岡が言う。

「沈んだのか」

「分からぬ」

 海面。

 燃え残った御用舟。

 火薬箱。

 音次。

 どこにも沢渡はいない。

「探せ!」

 水野が朝風丸から命じる。

 小舟を二艘出す。

 人を探す。

 帳面ではない。

 罪人であっても。

 生きて話させるために。

 ◇

 新之介が異国船へ上がると、二十三人の日本人が甲板へ分かれて座っていた。

 全員が一か所ではない。

 前甲板。

 中央。

 船尾。

 砲弾が一か所へ当たっても、全員が失われないため。

 兵庫が名前を記している。

「何人まで」

「十九」

「残りは」

「今聞いている」

 玄斎は白髪の男の前に立っている。

「新之介」

「はい」

「会え」

 白髪の男が新之介を見る。

「榊原新之介」

「私の声をご存じで」

「筒で何度も聞いた」

「本人は初めてですね」

「ああ」

「私もです」

 二人は向かい合う。

「鷹見静山殿ですか」

「そう名乗っている」

「本当ですか」

「証明は続ける」

「なぜ十五年、戻らなかった」

 玄斎が止めようとする。

「いきなりそこからか」

「先生も聞きたいでしょう」

「聞きたい」

「ならば」

 白髪の男は海を見た。

「最初の三年は、戻れなかった」

「なぜ」

「二十三人を匿っていた」

「残りの十二年は」

「戻らなかった」

「なぜ」

「怖かった」

 新之介は黙った。

 玄斎も。

 兵庫の筆が止まる。

「何が」

「私の帳面が、私の意図と違う使われ方をしていると知った」

「ならば戻るべきだった」

「ああ」

「なぜ」

「私が戻れば、正しい答えを求められる」

「持っていなかった」

「そうだ」

「問いを残して逃げたのですか」

「そうだ」

 男は否定しなかった。

「玄十郎殿は死んだ」

「ああ」

「兵庫殿は佐平を使った」

「ああ」

「玄斎先生は十五年、無音寺へ行かなかったことを悔いた」

「ああ」

「そなたは」

「船の上で、全員を遠くから見ていた」

「それを逃げたと」

「逃げた」

 白髪の男は自分で言った。

「私は立派な死者ではない」

 玄斎の目に涙が浮かんだ。

「そんなことを……」

「死者にしておいた方がよかったか」

「違う!」

 玄斎が怒鳴った。

「生きているなら、なぜ早く戻らなかった!」

「すまぬ」

「謝るな!」

「では何を」

「言い訳をしろ!」

 男が驚く。

「十五年分だ!」

 玄斎の声が震える。

「もっと汚く、自分を守れ!」

「先生らしく問いに逃げるな!」

「なぜ戻れなかったか、全部申せ!」

 男は玄斎を見る。

 長い沈黙。

「玄斎」

「何だ」

「お前に会うのが怖かった」

 玄斎の顔が崩れた。

「なぜ」

「お前が私を許すかもしれなかったからだ」

「……」

「許されれば、私は自分を許してしまう」

「馬鹿者!」

 玄斎が白髪の男の胸を殴った。

 一発。

 男は避けない。

「馬鹿者!」

 二発目。

「私は十五年!」

 三発目を上げた腕を、兵庫が掴んだ。

「もうよい」

「よくない!」

「先生が倒れる」

「倒れればよい!」

 白髪の男が言う。

「そうだな」

「先生は黙っておれ!」

「はい」

 新之介は思った。

 もし偽物なら。

 ここまでの姿さえ演技かもしれない。

 それでも今、玄斎が殴った相手は、人の形をしていた。

 死者の像ではない。

 間違い、逃げ、謝る男。

「静山殿」

 新之介が言った。

「何だ」

「本人かどうかは、まだ決めません」

「よい」

「ですが、一つだけ」

「何だ」

「四冊は、何のために残した」

 男は答える。

「最初は、罪人を暴くためだった」

「最初は」

「ああ」

「途中で変わった」

「人を調べるほど、誰か一人だけを罪人にできなくなった」

「だから問いを」

「私は答えを書けなくなった」

「それで四冊に分けた」

「一冊なら、読んだ者が一つの答えへ走る」

「四冊を並べれば」

「矛盾する」

「わざと」

「ああ」

 新之介の顔が変わる。

「帳面同士が矛盾するように書いたのか」

「事実を変えたわけではない」

「では」

「同じ出来事を、別の側から書いた」

「第一冊は」

「米と借財から」

「第二冊は」

「役人と商人から」

「第三冊は」

「海と異国から」

「第四冊は」

「それらを利用しようとした者から」

「四冊を全部読まなければ」

「一人を正しく悪人にできるように見える」

「全部読めば」

「誰も簡単には裁けない」

 兵庫が呟く。

「だから玄十郎は、第四冊を隠した」

「私が一冊だけ世へ出そうとしたからだ」

「そなたが」

「ああ」

 白髪の男は兵庫を見る。

「お前ではない」

「何」

「最初に一冊を使おうとしたのは、私だ」

 玄斎が顔を上げる。

「何をした」

「第三冊を幕府へ渡そうとした」

「誰の名を罪人として」

 男は答える前に、海面から声がした。

「人がいる!」

 沢渡を探していた小舟。

「拾え!」

 水主たちが縄を投げる。

 一人の男が海面へ浮かんでいる。

 沢渡ではない。

 背中に刀傷。

 古い海防掛の羽織。

「誰だ!」

 朝風丸へ引き上げられる。

 安西が男の顔を見る。

「父上……?」

 安西主税の父。

 十五年前、人を運んだ船の警固役として第三冊へ名があるという安西主馬。

 とうに死んだとされていた男。

 主馬が薄く目を開けた。

「主税……」

 安西は膝をつく。

「生きていたのか」

「すまぬ」

「何を」

 主馬の手には、小さな油紙の包みが握られていた。

「沢渡が……持っていた」

「何だ」

「第三冊の……名の写し」

 安西が受け取る。

「沢渡は」

「船の下へ……潜った」

「どこへ」

 主馬は震える指で、白旗の異国船を指した。

「火薬を……仕掛けに」

 新之介は船足元を見た。

 異国船の船腹。

 水面下。

 小さな泡が、一列に上がっている。

 沢渡は逃げたのではない。

 船底へ潜った。

 二十三人。

 鷹見静山を名乗る男。

 第三冊の正本。

 すべてを船ごと沈めるために。

 新之介が叫んだ。

「全員、船から離れろ!」

 その直後。

 船底の下で、鈍い爆発音が響いた。

(第五十四章へ続く)

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