上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第二十三章

目次

第二十三章 密命の書

 江戸城へ戻る道は、白く照り返していた。

 朝の涼しさは消え、町には人の熱が満ち始めている。

 新之介は馬を急がせた。

 懐には、稲葉備中守から酒井丹波守へ宛てられた密命の書。

 それは一通の紙でありながら、老中首座の首をも揺るがす刃であった。

 隣では源太郎が馬を並べ、少し後ろに酒井丹波守が続く。

 酒井の顔色は悪い。

 傷の出血も止まりきっていない。

 それでも馬上の姿勢だけは崩していなかった。

「酒井様」

 新之介は前を向いたまま声をかけた。

「城まで保ちますか」

「侮るな」

 酒井は苦く笑った。

「わしはまだ、己の罪を他人に預けるほど弱ってはおらぬ」

「罪を認められるのですか」

「認めるものと、認めぬものがある」

「どういう意味です」

「評定で聞け」

 酒井はそれ以上語らなかった。

 ◇

 江戸城の門前は、異様な緊張に包まれていた。

 登城する武士の列はいつもより少ない。

 その代わり、門の内外には警固の者が増えている。

 新之介たちが近づくと、門番が槍を交差させた。

「止まれ」

「戸田備前守様へ急ぎの用」

 源太郎が言う。

 門番は首を振った。

「評定中につき、通すことはならぬ」

 新之介は懐の書状に手を当てた。

 ここで押し問答をしている暇はない。

 その時、酒井が馬を進めた。

「わしを誰と心得る」

 門番の顔色が変わる。

「酒井様……」

「通せ」

「しかし、酒井様は」

「捕らわれの身だと言いたいか」

 酒井の声は低かった。

「ならばなおさら、評定の場へ引き渡すが役目であろう」

 門番は迷った。

 そこへ奥から声が飛んだ。

「通せ!」

 忠左衛門だった。

 傷を負いながら、門内まで出てきている。

「父上」

「遅い」

「申し訳ございません」

「謝るのは後だ。戸田様が限界だ」

 新之介は馬を下り、走った。

 酒井もよろめきながら続く。

 ◇

 評定の間では、空気が重く淀んでいた。

 戸田備前守は座しているが、顔色はさらに悪い。

 額には汗が滲み、唇は青い。

 それでも目だけは鋭かった。

 稲葉備中守は上座に座り、落ち着いた様子で一同を見回している。

「戸田殿」

 稲葉の声が静かに響く。

「証は示された。酒井丹波守の罪は明らかであろう」

「まだ終わっておりませぬ」

「終わらせねばならぬ」

 稲葉は言った。

「公儀の威信を守るためだ」

 その時、襖が開いた。

 新之介が入る。

 続いて酒井丹波守。

 評定の間にどよめきが起こった。

「酒井……」

 稲葉の目がわずかに揺れた。

 だがすぐに表情を整える。

「逃亡した罪人が、よく戻った」

 酒井は座した。

「戻らねば、すべてを背負わされるのでな」

「すべてとは」

「あなたの分まで」

 部屋が静まり返った。

 新之介は密命の書を畳の上へ置いた。

「寛永寺にて酒井様よりお預かりしました」

 稲葉はそれを見た。

 顔色は変わらない。

「偽であろう」

 新之介は静かに答えた。

「まだ中身もご覧になっておられません」

 以前、酒井が使った言葉だった。

 酒井は薄く笑った。

 稲葉の目が鋭くなる。

 戸田が言った。

「読め、榊原」

「はっ」

 新之介は書状を開いた。

 声を整える。

 評定の間にいる全員へ届くよう、一字ずつ読んだ。

 借財整理を急ぐ戸田備前守を押さえること。

 浪人騒ぎを利用すること。

 酒井家の名を表に出さぬこと。

 事が漏れた際は、酒井丹波守一身の不始末として処すこと。

 最後に、稲葉備中守の花押。

 読み終えた時、誰も言葉を発しなかった。

 ◇

 稲葉は長く沈黙した。

 やがて、静かに口を開いた。

「花押など、いくらでも似せられる」

 戸田が言う。

「それも予想しておりました」

 忠左衛門が進み出た。

 手には古い書付がある。

「二十年前、鷹見静山殿へ宛てた備中守様の書付。筆跡、花押、ともに照らし合わせました」

 稲葉の目が初めて忠左衛門へ向いた。

「榊原忠左衛門」

「はい」

「そなたまで、わしを討つ側に立つか」

「討つのではございませぬ」

 忠左衛門は頭を下げた。

「逃げていただきたくないのです」

 その言葉は、稲葉を鋭く刺したようだった。

 稲葉はしばらく忠左衛門を見つめていた。

「逃げる、か」

 戸田が咳き込んだ。

 血が畳に落ちる。

 それでも戸田は言った。

「備中守。あなたは幕府を守ろうとした。それは分かる」

「ならば」

「だが守るために、武士の役目を売った」

 稲葉の顔に怒りが浮かんだ。

「理想で政はできぬ」

「理想なき政もまた続かぬ」

 二人の老臣が向かい合う。

 若い者には届かぬ長い年月の重みが、そこにはあった。

 酒井が口を開いた。

「備中守様」

「何だ」

「私はあなたに従った。だが、従ったのは私の罪です」

 稲葉は沈黙する。

「ただし」

 酒井の声が強くなる。

「私一人に背負わせるなら、それは許せませぬ」

「見苦しいぞ、酒井」

「見苦しくて結構」

 酒井は笑った。

「最後くらい、見苦しく生きて話す」

 その言葉に、新之介は矢代を思い出した。

 死んで逃げる者。

 生きて恥を受ける者。

 酒井はようやく後者を選んだのかもしれない。

 ◇

 評定の間に、重臣たちの声が低く交わされ始めた。

 稲葉をこの場で裁くことは容易ではない。

 老中首座である。

 その失脚は幕府全体を揺らす。

 だが証は揃った。

 酒井の証言もある。

 水野、大黒屋、佐吉、村垣の書状、鷹見の記録。

 これ以上、個人の不始末として収めることはできない。

 稲葉は静かに立ち上がった。

「分かった」

 戸田が目を細める。

「何が」

「わしは退く」

 部屋にざわめきが広がる。

「病を理由に役を辞する。それでよかろう」

 戸田は首を振った。

「足りませぬ」

「何だと」

「罪を罪として残さねば、また同じことが起こる」

 稲葉の顔が険しくなる。

「幕府の恥を晒せと申すか」

「恥を隠してきた結果が、これです」

 戸田の声は弱い。

 だが、その弱さの中に刃がある。

 「処分は上へ仰ぐ。だが、記録からは消さぬ」

 稲葉は長く戸田を見ていた。

 やがて小さく笑った。

「お前は強いな」

「強くはありませぬ」

「では何だ」

「怖いのです」

 戸田は答えた。

「ここで逃げれば、死んだ者の声が消える。それが怖い」

 新之介は胸を打たれた。

 それは、自分の中にあった恐れと同じだった。

 稲葉はゆっくり腰を下ろした。

 その姿は、急に老いたように見えた。

「好きにせよ」

 それが、老中首座・稲葉備中守の敗北の言葉だった。

 ◇

 評定は長く続いた。

 酒井丹波守は正式に拘束された。

 稲葉備中守は役儀差し控えとなり、後日、上意を仰ぐこととなった。

 大黒屋宗兵衛、水野監物、大久保主膳、関係した勘定方役人たちも改めて詮議される。

 ただし戸田は、一つの方針を示した。

 借財に苦しむ小身旗本まで一律に潰してはならぬ。

 罪ある者を裁き、弱さにつけ込まれた者には立て直しの道を与える。

 それは容易なことではない。

 むしろ、斬るより難しい。

 だが、それこそが政であった。

 評定が終わった時、戸田は倒れた。

 新之介が駆け寄る。

「戸田様!」

 戸田は目を開けた。

「騒ぐな」

「医師を」

「呼べ。まだ死ぬつもりはない」

 かすかな笑み。

 新之介は安堵した。

 戸田は新之介の手を掴んだ。

「榊原」

「はい」

「帳面を続けよ」

「はい」

「剣より重いぞ」

「承知しております」

「ならばよい」

 その手から力が抜けた。

 戸田は意識を失ったが、息はあった。

 ◇

 城を出ると、夕陽が江戸の町を赤く染めていた。

 長い一日だった。

 新之介は門前で立ち止まる。

 玄斎が待っていた。

「終わったか」

「一つは」

「まだあるか」

「はい」

 玄斎は満足げに頷いた。

「それでよい。すべて終わったと思う者ほど危うい」

 忠左衛門がゆっくり歩いてくる。

 父子はしばらく黙って並んだ。

「父上」

「何だ」

「武士とは、難しいものですね」

「今ごろ気づいたか」

 忠左衛門は少し笑った。

「はい」

「ならば少しは成長した」

 新之介は江戸の町を見た。

 魚を売る声。

 子どもの笑い声。

 遠くの寺の鐘。

 町は今日も生きている。

 その暮らしを守るために、武士は何をすべきか。

 答えはまだ出ない。

 しかし、問いから逃げぬことはできる。

 新之介はそう思った。

 懐には、矢代の文がある。

 ――武士を嫌うな。だが、武士を信じすぎるな。

 その言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。

 武士も人である。

 弱く、迷い、腐ることもある。

 だが、正そうとすることもできる。

 そのために刀があり、筆があり、役目がある。

 新之介は静かに一礼し、江戸の夕暮れへ歩き出した。

(第二十四章へ続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次