上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第十九章

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第十九章 石段の攻防

 石段を踏みしめる足音が、地下室へ重く響いた。

 一段、また一段。

 湿った石壁に反響するその音は、人数の多さを物語っている。

 新之介は石段の下に立ち、静かに刀を構えた。

 背後には木箱に納められた書物と帳面。

 鷹見静山が命を懸けて残した記録である。

 これを失えば、酒井丹波守を越えて幕府中枢へ続く糸も断たれる。

「先生」

「分かっておる」

 玄斎は石段の脇へ立った。

 木刀を肩に乗せ、まるで稽古の始まりを待つような静けさである。

 源太郎は地下室の入口近くに身を低くした。

 狭い通路では人数は生かせない。

 敵は一度に二人ほどしか降りて来られぬ。

 そこが唯一の利だった。

 忠左衛門は壁際へ下がり、風呂敷に包まれた巻物を抱えている。

 傷はまだ癒えていない。

 それでも目には力があった。

「新之介」

「はい」

「ここで勝っても終わりではない」

「承知しております」

「負ければ終わる」

 短い言葉だった。

 だが、その重みは刀よりも重かった。

 ◇

 最初の男が石段を下りてきた。

 黒装束ではない。

 寺男の着物を着ている。

 しかし足運びは武士だった。

 刃が閃く。

 新之介は受けず、半歩だけ身を開く。

 狭い石段では、勢い余った者ほど隙を生む。

 男の体が前へ流れた。

 その手首を打つ。

 刀が石段へ転がった。

 続く二人目が飛び込む。

 玄斎の木刀が鳴った。

 鈍い音。

 男は声もなく崩れ落ちる。

「若い頃より手応えが軽いな」

 玄斎はぼそりと言った。

「先生、感想は後で」

「そうであった」

 石段は再び静かになる。

 敵は一度退いた。

「様子を見ております」

 源太郎が囁いた。

「数に頼る者ほど慎重になる」

 新之介は石段の上を見上げた。

 暗くて姿は見えぬ。

 だが気配は消えていない。

 ◇

 やがて一つの声が響いた。

「榊原新之介!」

 村垣ではない。

 聞き覚えのない男の声である。

「証を渡せば命は助ける」

 新之介は答えなかった。

「返事くらいせぬか」

「助けると言う者ほど信用できぬ」

 石段の上で小さな笑いが起きた。

「若いな」

「その言葉は聞き飽きた」

「ならば教えてやろう」

 男の声は落ち着いていた。

「酒井丹波守はもう終わった。次は老中首座が動く」

 忠左衛門の目が鋭くなる。

「やはり上がいる」

「帳面一冊で幕府は変わらぬ。お前たちは誰と戦っているか分かっておらぬ」

 新之介は静かに言った。

「名を名乗れ」

 少しの間があった。

 やがて男は答えた。

「牧野主税」

 玄斎が小さく息を呑んだ。

「知っておられるのですか」

「知っておる」

 玄斎は低く言った。

「鷹見塾で二年だけ学び、その後、老中家へ召し抱えられた男だ」

 新之介は目を細めた。

 また鷹見塾である。

 あの塾から、志を抱いた者も、道を誤った者も生まれた。

 ◇

「牧野殿」

 新之介は石段へ向かって声を返した。

「なぜここまで来た」

「証を焼くためだ」

「理由は」

「天下のため」

「その言葉も聞き飽きた」

 新之介の声は静かだった。

「天下とは誰のことだ」

 沈黙。

「老中か」

「違う」

「将軍家か」

「違う」

「ならば江戸の町人か」

 また沈黙。

「答えられぬのなら、天下を口にするな」

 その瞬間、石段の上から火のついた松明が投げ込まれた。

 源太郎が叫ぶ。

「火!」

 松明は木箱の近くへ転がる。

 新之介はすぐさま踏み消した。

 だが次々と投げ込まれる。

「先生!」

「任せよ」

 玄斎は木刀で松明を打ち返した。

 燃えながら石段を転がり、敵の方で悲鳴が上がる。

「自分の火で焼かれよ」

 老剣士の声に迷いはなかった。

 ◇

 その時、真崎半九郎が地下室の奥を見つめて言った。

「風が吹いております」

 新之介も気づいた。

 地下室なのに風が流れている。

「抜け道か」

 住職が頷く。

「ございます」

「なぜ今まで」

「先生は最後まで使うな、と」

 忠左衛門が静かに言った。

「逃げ道ではない」

「え?」

「守るための道だ」

 住職は石壁の一部を押した。

 音もなく壁が開く。

 狭い通路が現れる。

 その先は山の裏手へ続いていた。

「巻物だけでも」

 源太郎が言う。

 だが新之介は首を振った。

「全員で出る」

「追いつかれます」

「誰も置いていかぬ」

 忠左衛門は息子を見た。

 何も言わなかった。

 その代わり、小さく頷いた。

 ◇

 玄斎が最後尾を引き受けた。

「先生!」

「若い者は前を見よ」

「ですが」

「わしはもう十分生きた」

 新之介は首を振る。

「そんなことは聞きたくありません」

「ならば聞くな」

 玄斎は笑った。

「弟子が師を追い越す日は来るものだ」

 その笑みは穏やかだった。

 だが新之介には、それが別れの笑みに見えてならなかった。

 敵が再び石段を下り始める。

 玄斎は木刀を構えた。

「行け!」

 新之介は迷った。

 だが忠左衛門が背中を押す。

「役目を忘れるな」

 新之介は歯を食いしばり、通路へ入った。

 源太郎、真崎、住職、忠左衛門も続く。

 最後に石壁が閉じる。

 その直前、木刀と刀がぶつかる音だけが聞こえた。

 ◇

 通路は狭く、湿っていた。

 一人ずつしか進めない。

 やがて外の光が見える。

 山の裏である。

 風が木々を揺らしていた。

 新之介は振り返る。

 玄斎の姿はない。

 忠左衛門も振り返った。

「先生は」

「……」

 その時、地下から鈍い音が響いた。

 何かが崩れたような音。

 続いて静寂。

 誰も言葉を発しなかった。

 源太郎が拳を握る。

「戻ります」

「ならぬ」

 忠左衛門が制した。

「だが!」

「玄斎殿は、お前を戻すために残ったのではない」

 新之介は目を閉じた。

 木刀を握る玄斎の姿が浮かぶ。

 稽古で何度も言われた。

 ――武士は怒りで刀を振るうな。

 その教えだけが、今の自分を支えていた。

 ◇

 一行が山を下り始めた頃、向こうから一頭の早馬が駆けてきた。

 馬上の侍は息を切らしている。

「榊原新之介殿!」

「何事だ」

「江戸より急使!」

 侍は文を差し出した。

 戸田備前守の側近からである。

 新之介は封を切った。

 短い文だった。

 ――老中首座が明朝、臨時評定を開く。酒井丹波守の処分が決まる。その前に証を届けねば、すべては闇へ戻る。

 新之介は文を握り締めた。

 時間は残されていない。

 玄斎の残した時間を、無駄にはできない。

 忠左衛門は静かに言った。

「江戸へ戻るぞ」

 山道の向こうには、夕日に染まる江戸の空が見えていた。

 その空の下で、武士の世の行く末を決める評定が待っている。

 新之介は背中の風呂敷を抱え直した。

 そこには帳面だけではない。

 師の想いも、父の覚悟も、矢代の悔いも、すべてが詰まっている。

 それを届けることこそ、今の自分の役目だった。

(第二十章へ続く)

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