第十七章 帳面改め
酒井丹波守の捕縛は、表沙汰にはされなかった。
江戸城の奥で、静かに処理されることとなった。
だが、静かであることと、事が軽いことは違う。
むしろ重すぎるからこそ、声高に触れられぬのである。
榊原新之介は、戸田備前守の命を受け、勘定方の帳面改めに加わることになった。
役目は一つ。
大黒屋宗兵衛の裏帳簿と、勘定方に残る公の帳面を照らし合わせること。
そこから、誰が金を受け、誰が名を貸し、誰が不正を見逃したのかを洗い出す。
刀で斬るより、よほど骨の折れる仕事であった。
勘定所の一室に、帳面が積み上げられた。
米の出入り。
貸付。
蔵米の処分。
札差との取次。
そこに並ぶ数字は、どれも静かである。
しかしその静かな数字の裏で、人が死に、家が傾き、江戸が焼かれかけた。
新之介は筆を取った。
隣には松井弥十郎が座っている。
松井は罪人として縄を打たれてはいない。
だが、監視はついていた。
「妙なものだな」
松井が呟いた。
「昨日までは同僚として帳面を見ていた。今日は疑われる者として帳面を見ている」
「逃げるか」
「逃げぬ」
松井は苦く笑った。
「逃げても、帳面は追ってくる」
その言葉に、新之介は筆を止めた。
「帳面は人より執念深いな」
「人が忘れたことも、数字は残す」
「ならば、残っているうちに正す」
松井は新之介を見た。
「榊原殿。正せば、多くの家が泣くぞ」
「分かっている」
「それでもやるか」
「やる」
新之介は静かに答えた。
「泣かぬように隠してきたから、斬られる者まで出た」
松井は何も言わなかった。
ただ、黙って帳面を開いた。
◇
最初に浮かび上がったのは、小身旗本の名であった。
家禄百俵。
家族四人。
家臣二人。
借財は年貢米の三年分を超えていた。
大黒屋からの借入は表向き少額である。
だが裏帳簿には、別名義でさらに大きな金が記されていた。
「これは罪ですか」
若い勘定方役人が問うた。
新之介はすぐに答えられなかった。
借りたことは罪ではない。
だが名義を偽ったことは罪である。
しかしその家は、借金をせねば病の妻を養えなかったらしい。
数字の向こうに、人の暮らしが見える。
これが難しい。
すべてを斬ればよいわけではない。
斬らねばならぬものと、救わねばならぬものがある。
戸田備前守の言葉が思い出された。
――汚れを見たうえで、なお民を飢えさせぬ道を探すことだ。
「記録せよ」
新之介は言った。
「裁きは戸田様へ上げる。ここで消してはならぬ」
若い役人は頷いた。
そうして一つずつ名を拾っていく。
やがて、勘定方内部の名が出た。
組頭配下の書役。
蔵改め役。
出納の添役。
役目の端にいる者ほど、わずかな金で動いていた。
それを誰が責められるのか。
俸禄は少なく、家は苦しい。
だが、それを理由に役目を売れば、幕府の米は腐る。
新之介は数字を見つめながら、武士の貧しさと弱さを思い知らされた。
◇
三日後。
榊原家では、忠左衛門がようやく床を離れた。
傷はまだ癒えていない。
だが書院に座る姿には、いつもの厳しさが戻っていた。
「頼母を弔った」
忠左衛門が言った。
「はい」
「最後に詫びたそうだな」
「はい」
父は目を伏せた。
「遅すぎた」
「それでも、言えました」
新之介は答えた。
忠左衛門は静かに頷いた。
「それでよい」
しばらく沈黙があった。
庭では風が松を鳴らしている。
「父上」
「何だ」
「榊原家も詮議を受けることになります」
「当然だ」
「家名に傷がつきます」
「傷なら、もうついている」
忠左衛門は新之介を見た。
「だが、膿を隠せば命に関わる。傷として晒せば、いつか塞がる」
その言葉は、父自身に向けたものでもあった。
新之介は頭を下げた。
「私は、父上を疑いました」
「疑え」
忠左衛門は即座に言った。
「役目のためなら、父でも疑え。だが、疑った後に必ず確かめよ」
「はい」
「疑うことと、決めつけることは違う」
新之介はその言葉を胸に刻んだ。
◇
その夜、志乃が榊原家を訪れた。
父・大久保主膳はすでに詮議を受けている。
大久保家の処分はまだ決まっていない。
志乃は以前より痩せたように見えた。
だが背筋は変わらず伸びている。
「榊原様」
「志乃殿」
「父は、すべてを話すと申しております」
「そうですか」
「家は、おそらくただでは済みませぬ」
新之介は答えに迷った。
慰めを言うのは簡単である。
だが、それは誠実ではない。
「私には、軽い言葉は申せません」
「その方がありがたいのです」
志乃は微かに笑った。
「この数日で、軽い慰めほど苦しいものはないと知りました」
二人は庭を眺めた。
月が薄く出ている。
「武家の娘とは、家とともに生きるものだと思っておりました」
志乃が言った。
「今は違うのですか」
「家を見捨てるつもりはありません」
志乃は静かに続けた。
「ですが、家を守ることと、家の過ちを隠すことは違うのですね」
新之介は頷いた。
「私も、ようやく分かりかけています」
「では、榊原様」
「はい」
「私も証言いたします」
新之介は志乃を見た。
「それは大久保家に不利になります」
「承知しています」
「よいのですか」
「よくはありません」
志乃の声は震えていた。
だが逃げなかった。
「けれど、父が過ちを犯したなら、娘である私もそれを見届けねばなりません」
新之介は深く頭を下げた。
志乃も静かに頭を下げた。
その礼は、縁談の相手としてではなく、同じ重荷を背負う者同士の礼であった。
◇
翌日。
帳面改めはさらに深みに入った。
大黒屋の裏帳簿には、もう一つ奇妙な記載があった。
金額は小さい。
だが回数が多い。
宛先は寺。
名は、西徳寺。
新之介はその名に覚えがあった。
矢代左馬之助が一時身を寄せていたという寺である。
「ここへ金が流れていたのか」
源太郎が帳面を覗き込む。
「浪人たちの隠れ家でしょうか」
「かもしれぬ」
松井が口を挟んだ。
「だが金額が小さすぎる」
「どういうことだ」
「兵を養う金ではない。むしろ、誰か一人へ渡す金だ」
「誰に」
松井は首を振った。
「それを調べる必要がある」
新之介はすぐに西徳寺へ向かうことを決めた。
同行したのは源太郎と玄斎。
寺は江戸の外れにあった。
大きくはない。
古びた山門。
苔むした石畳。
境内には梅の木が一本立っている。
住職は老僧であった。
新之介が名を告げると、老僧はすべてを悟ったように目を伏せた。
「矢代殿のことですな」
「ご存じでしたか」
「しばらく、ここにおりました」
「大黒屋から金が流れていました」
老僧は頷いた。
「受け取りました」
「何のために」
「薬代です」
「薬代?」
老僧は本堂の奥へ案内した。
そこには、小さな位牌があった。
名は、お千代。
「この者は」
「矢代殿の妹御です」
新之介は息を呑んだ。
「妹……」
「長く病に伏しておられました。矢代殿は、妹御の薬代を得るために大黒屋の金を受け取ったのです」
源太郎が呟いた。
「では、矢代もまた縛られていたのか」
老僧は続けた。
「矢代殿は、世を憎んでおられた。だが妹御の前では、ただの兄でした」
新之介は位牌を見つめた。
矢代左馬之助。
武士を憎み、刃を振るった男。
だがその背にも、人の痛みがあった。
それで罪が消えるわけではない。
しかし、罪を裁くなら、その痛みも見ねばならない。
新之介はそう思った。
老僧は一通の文を差し出した。
「矢代殿が亡くなった時、渡す相手が来るなら渡してほしいと預かっておりました」
「私に?」
「榊原の若侍、と」
新之介は文を受け取った。
そこには短く書かれていた。
――武士を嫌うな。だが、武士を信じすぎるな。
新之介は目を閉じた。
矢代の最期の声が蘇る。
お前は、私になるな。
◇
西徳寺を出る頃、日が暮れかけていた。
源太郎は静かに言った。
「敵も味方も、簡単には分けられませんね」
「そうだな」
「だから難しい」
「だから役目が要る」
新之介は答えた。
「感情だけでは、人を裁けぬ」
玄斎が後ろから言った。
「ようやく少し分かってきたか」
「少しだけです」
「少しでよい。全部分かったと思う者ほど危うい」
三人は山門を出た。
その時、門前に一人の武士が立っていた。
見覚えのない男である。
年は三十前後。
身なりは粗末だが、立ち姿に隙がない。
「榊原新之介殿」
「誰だ」
「鷹見塾の末席にいた者の倅です」
男は深く頭を下げた。
「名を、真崎半九郎」
「何用か」
真崎は顔を上げた。
「酒井丹波守は捕えられました。ですが、まだ終わっておりませぬ」
「何を知っている」
「酒井殿には、さらに上へ渡した文があります」
新之介は眉をひそめた。
「さらに上?」
「老中の一人が、借財整理そのものを葬るため、酒井殿を切り捨てるつもりです」
源太郎が声を低くした。
「証は」
「あります」
真崎は懐から小さな木札を出した。
鷹の印。
鷹見塾の印だった。
「父は死ぬ前に申しました。鷹の門で始まったことは、鷹の門を知る者が終わらせねばならぬ、と」
新之介は木札を受け取った。
また一つ、闇が深くなった。
酒井で終わりではない。
その背後に、さらに大きな影がある。
帳面改めは、ただの不正調べではなくなった。
幕府そのものの根に触れる戦いであった。
新之介は夕闇の中で、静かに刀の柄へ手を置いた。
斬るべき相手は、まだ奥にいる。
そしてそこへ進むほど、榊原家も、戸田備前守も、志乃も、松井も、すべてが巻き込まれていく。
それでも、もう退けなかった。
退けば、死んだ者たちの声が闇に消える。
新之介は真崎を見据えた。
「話を聞こう」
西徳寺の鐘が鳴った。
夕暮れの江戸に、その音は重く響いた。
(第十八章へ続く)

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