――第六十七章 水神下新田――
夜明けの前、三人は寺を出た。
空はまだ濃い藍色で、東の端だけがわずかに薄くなり始めている。人の気配は少ない。こういう刻は、紙もまだ動かぬように見える。だが伊織には分かっていた。動かぬのではない。動きが見えぬだけだ。とくに“点”のような手は、こういう時間にこそ仕込みを済ませる。
新兵衛があくびを噛み殺しながら言った。
「紙の生まれるとこ、か」
「ああ」
「なんか、急に原点って感じだな」
「原点、か」
伊織はその言葉を反芻した。
原点――紙が紙になる前の場所。
水と繊維と、手の仕事。
そこへ、いままで追ってきた流れのすべてが、どのように触れているのか。
秋庭は、無言で歩いている。
その横顔には、少しだけ緊張が戻っていた。
だが昨日までのような揺れではない。
何かを見に行く者の顔だ。
「怖いか」
伊織が声をかけると、秋庭は正直に頷いた。
「はい」
「それでいい」
「……はい」
新兵衛が横で笑う。
「お前ら、怖い怖いって言いながら突っ込んでいくの、だいぶ変だぞ」
「お前は怖くないのか」
「怖ぇよ」
新兵衛は即答した。
「でもまぁ、怖いって言ってる暇あったら殴る方が楽だ」
その単純さが、いまはありがたかった。
紙の理を追いすぎると、どうしても考えが深くなりすぎる。
そこに一つ、単純な手があるのは救いだ。
水神下新田は、城下から半日ほどの距離にあった。
川の上手。
水は澄んでいる。
流れも緩やかで、ところどころに浅瀬があり、白い石が透けて見える。
岸には細い葦が揺れ、ところどころに小さな作業場が並んでいた。
紙漉き場だ。
近づくと、水音が変わる。
町の水の音とは違う。
叩く音、すくう音、揺らす音。
人の手が水を扱う音が、絶え間なく重なっている。
「ここか……」
新兵衛が低く言った。
伊織は、ゆっくりと頷いた。
ここが、紙の生まれる場所。
まだ文でも、帳面でも、札でもない。
ただの紙になる前の、もっと曖昧な状態。
この曖昧さの中に、“点”があるのかどうか。
「まずは見ろ」
伊織が言うと、二人は頷いた。
作業場の一つへ近づく。
年配の職人が、水に浸した繊維を簀桁ですくい、揺らし、均し、薄く広げている。その手は速いが乱れていない。紙はまだ紙ではなく、水の膜のように揺れている。
「見事だな」
新兵衛が呟く。
「一枚一枚、手でやってんのか」
「ああ」
伊織は言った。
「だからこそ、紙に癖が出る」
職人は、三人の視線に気づいたのか、ふと顔を上げた。
「何か用かい」
穏やかな声だった。
疑いはない。
ここでは、紙はまだ疑われるものではないのだ。
「紙を見に来た」
伊織が答えると、職人は肩をすくめた。
「見て分かるもんでもないだろうに」
「分からぬから来た」
職人は少しだけ笑った。
「それもそうだな」
再び手元へ視線を落とす。
その動きには、嘘がない。
この男は、ただ紙を作っているだけだ。
点の気配はない。
伊織は、次の作業場へ向かった。
いくつかの場を見て回るうちに、秋庭がふと足を止めた。
「……あそこ」
指さした先には、他より少しだけ奥まった作業場があった。
規模は小さい。
人も少ない。
だが、紙を干している棚の並びが、他と違っていた。
「何が違う」
伊織が問う。
「束の分け方です」
秋庭が言う。
「普通は、乾き具合や厚さで分ける。ですが、あれは……」
「何だ」
「理由が見えない」
新兵衛が首を傾げる。
「理由が見えない?」
「はい」
秋庭は静かに言った。
「厚さも、乾きも、同じに見えるのに、わざわざ別の棚にしている」
伊織は、その棚をじっと見た。
確かにそうだ。
見た目に差はない。
だが分けている。
それはつまり、“見た目以外の理由”があるということだ。
「行くぞ」
三人はその作業場へ向かった。
そこにいたのは、若い男だった。
二十代半ばほど。
手は動いている。
だが動きが、どこかで止まる。
一瞬だけ、迷う。
そしてまた動く。
その“迷い”が、伊織には気になった。
「見せてくれ」
伊織が声をかけると、男は驚いたように顔を上げた。
「……何をですか」
「紙だ」
男は一瞬ためらったが、やがて一枚を差し出した。
伊織はそれを受け取り、光に透かす。
紙だ。
ただの紙。
だが――
「秋庭」
「はい」
「どう見る」
秋庭は紙を受け取り、しばらく見ていた。
そして、小さく息を呑む。
「……あります」
「何が」
「点が」
新兵衛が顔を近づける。
「どこだ」
「ここです」
秋庭が指で示した場所には、ほんのわずかな繊維の濃淡があった。
墨ではない。
だが、意図的に繊維を集めたような、微かな“点”。
「これが……」
新兵衛が呟く。
「点の元か」
「たぶん」
伊織は答えた。
「まだ印ではない。だが、このまま束になり、乾き、書かれれば……」
「点になる」
秋庭が言った。
若い男の顔色が変わる。
「何を……」
「誰の指示だ」
伊織が問う。
男は首を振る。
「私は……ただ言われた通りに……」
「誰に」
「……」
沈黙。
だがその沈黙の質は、兵部のものとは違った。
この男は、本当に“知らぬ”のだ。
ただ、手の動きとして覚え込まされている。
「その束は、どこへ行く」
伊織が問うと、男はかすれた声で答えた。
「……内庫へ」
「北裏か」
男がびくりとした。
それで十分だった。
外へ出ると、風が少し強くなっていた。
川面が揺れる。
紙を干す棚がきしむ。
その音の中で、伊織は深く息を吐いた。
「ここだ」
静かに言う。
「点は、ここで生まれている」
秋庭が頷く。
「はい」
「杉戸は、ここに来ているかもしれぬ」
新兵衛が腕を組む。
「けど、いまはいねぇな」
「ああ」
「どうする」
伊織は、川の上手を見た。
水は静かだ。
だがその静けさの下で、すでに多くの紙が流れを持ち始めている。
「待つ」
「待つ?」
「点は、いつも同じところに出るとは限らぬ」
伊織は言った。
「だが束になる以上、必ず誰かが見に来る」
「杉戸か」
「あるいは、その手の者」
新兵衛がニヤリとした。
「なるほどな。ここで網張るってわけか」
「そうだ」
秋庭が、小さく息を整えた。
「……ここが、一番怖い場所かもしれません」
「なぜだ」
伊織が問う。
「まだ何も決まっていないからです」
秋庭は言った。
「紙でもなく、文でもなく、ただの繊維と水。その段階で、すでに行き先が仕込まれている」
伊織は、その言葉に頷いた。
点のまわりの闇。
それは、火でも、紙でも、箱でも、水でもなかった。
それよりもっと前。
まだ形のないところに、静かに置かれる一つの意志。
波瀾万丈の物語は、ついにそこへ辿り着いた。
だが同時に、それは最も見えにくく、最も切りにくい場所でもあった。
切れば、何が残るのか。
それすら、まだ分からないままに。
(第六十八章につづく)

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