山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第四十章

目次

――第四十章 帳面の刃――

 榎本清十郎を引き渡したあと、江戸の空は妙に高く見えた。

 晴れているわけではない。薄く雲がかかり、光は柔らかく散っている。それでも高いと感じるのは、胸の中の何かが一つ片づいたからかもしれなかった。だが片づいたのは一つだけだ。帳面はまだ幾重にも重なり、その下で新しい流れが芽を出している。

 伊織は主馬の控えへ向かった。

 廊下を歩く足音が、以前とは違って聞こえる。城の中での歩き方が、知らぬうちに変わっていた。急がず、だが止まらず。余計な音を立てず、必要なところでだけ声を出す。剣の間合いではなく、言葉の間合いを測る歩き方だった。

 襖の前で声をかけると、すぐに「入れ」と返ってきた。

 主馬はすでに帳面を広げていた。榎本の帳面ではない。別の帳面だ。つまり、こちらが動く前から、別の流れも見ているということになる。

「戻ったか」

「はい」

 伊織は帳面束を差し出した。

「榎本清十郎、北蔵で捕らえました。空俵の流れ、藩への戻し、すべて認めております」

 主馬は帳面を受け取り、ざっと目を通した。読むのが早い。字を追うというより、流れを一息で掴むような読み方だ。

「……やはり藩の内に残っていたか」

 低く呟く。

「榎本はどうする」

「主馬殿の裁きに従います」

「裁き、か」

 主馬は少しだけ笑った。

「簡単に言うな。こやつは土井や内膳とは違う」

「はい」

「大きな罪ではない。だが小さな罪を積み上げている」

 主馬は帳面を閉じた。

「こういう者をどう扱うかで、藩の形が決まる」

 伊織は黙っていた。

 まさにそこが難しいところだ。

 榎本を斬れば、見せしめにはなる。

 だが同じような“榎本”は、どこにでもいる。

 一人斬っても、また次が出る。

 かといって見逃せば、帳面はまた歪む。

「お前はどう思う」

 主馬が問う。

 伊織は少しだけ考えた。

「……斬るべきではないと思います」

 主馬の目が細くなる。

「理由は」

「榎本は、悪として動いたわけではない」

「だから許すのか」

「許すのではありません」

 伊織は言葉を選んだ。

「表へ出すべきです」

「どう出す」

「帳面ごと出す」

 主馬は黙った。

 伊織は続けた。

「榎本一人の罪として処理すれば、また同じことが起きます。だが、どのように数が動き、どこで歪んだかを示せば、同じ手は使いにくくなる」

「恥を晒すことになるぞ」

「はい」

「藩の名も傷つく」

「それでも」

 伊織は静かに言った。

「隠したままでは、腐りが残ります」

 主馬はしばらく何も言わなかった。

 その沈黙は、これまでのどの沈黙よりも長かった。

 帳面を読む男の沈黙は、時に刀より鋭い。

「……お前は」

 やがて主馬が口を開いた。

「剣で斬るより、帳面で斬る方を選ぶようになったな」

 伊織は苦笑した。

「選んだ覚えはありません。ただ、そうするしかない場が増えただけです」

 主馬は小さく笑った。

「それを選んだと言うのだ」

 そして帳面を手に取った。

「榎本は生かす」

「はい」

「ただし、隠さぬ」

 伊織は頭を下げた。

「承知しました」

「その代わり」

 主馬の声が少しだけ低くなる。

「お前にも役目が増える」

「覚悟しております」

「覚悟などいらぬ」

 主馬は言った。

「ただやれ」

 その言葉は簡単だった。

 だが簡単だからこそ重い。

 覚悟を固める間もなく、次の帳面が来る。

 それがこの役目なのだろう。


 城を出ると、昼の光が町を満たしていた。

 人の声。

 荷の音。

 魚の匂い。

 米の匂い。

 すべてが昨日と同じようでいて、どこか違って見える。

 伊織の中の“見る目”が変わったのだ。

 それは便利であると同時に、少しだけ怖いものでもあった。

「どうだった」

 門の外で待っていた新兵衛が聞く。

「榎本は生きる」

「へぇ」

「だが隠さぬ」

 新兵衛は「なるほどな」と頷いた。

「一番面倒なやり方だ」

「そうだ」

「だが一番効く」

 新兵衛はにやりと笑った。

「帳面で斬るってやつか」

 伊織は少しだけ笑った。

「そういうことになる」

 二人は並んで歩き出した。

 寺へ戻る道だ。

 戻る場所があるというのは、不思議なものだ。

 どれだけ帳面の中で人が動いても、そこへ戻れば一度“人”に戻れる。

「お前さ」

 新兵衛がぽつりと言った。

「顔、少し戻ったな」

「そうか」

「昨日は、もっとこう……紙みてぇだった」

 伊織は苦笑した。

「老僧にも同じことを言われた」

「そりゃそうだ」

 新兵衛は笑う。

「紙は燃えるからな」

 その一言に、伊織は少しだけ立ち止まった。

 紙は燃える。

 帳面も燃える。

 火をつければ、すべて消える。

 だが消せば、何も残らぬ。

 何も残らぬところから、また同じことが始まる。

 だから燃やさず、読む。

 読むことで斬る。

 それが今の自分の役目だ。

「燃やさぬようにする」

 伊織が言うと、新兵衛は肩をすくめた。

「たまには燃やしてもいいがな」

「その時は、お前が止めろ」

「任せとけ」

 二人は笑った。


 寺へ戻ると、いつものように囲炉裏の煙が上がっていた。

 志乃が水を運び、母が飯をよそい、お澪が静かに糸を撚り、老僧が庭を掃いている。何も変わらぬ景色。だが伊織にとっては、何より変わらぬことがありがたい。

「おかえりなさい」

 志乃が言う。

「戻った」

 伊織はそう答えた。

 囲炉裏の前に座ると、ふっと息が抜けた。

 城の中で張っていたものが、ここでほどける。

 その繰り返しで、自分はまだ保たれているのだろう。

 母が言った。

「今日は、戻れたね」

 伊織は頷いた。

「戻れた」

「なら、いい」

 それだけだった。

 だがその一言が、今日一日のすべてを肯定してくれるように思えた。


 夜、再び一人で帳面を開く。

 榎本の帳面。

 主馬の帳面。

 そしてまだ見ぬ帳面。

 世の中には、数えきれぬほどの帳面がある。

 すべてを正すことはできぬ。

 だが一つずつ、歪みを見つけ、流れを正すことはできる。

 それがどれほど続くかは分からない。

 終わりがあるのかも分からない。

 それでも伊織は、筆の跡を追った。

 帳面の刃は、見えぬところで人を斬る。

 ならばその刃を、こちらの手で握るしかない。

 囲炉裏の火が小さく揺れた。

 その赤い光の中で、伊織は静かに目を細めた。

 波瀾万丈の物語は、なお続く。

(第41章につづく)

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