――第三十八章 藩の底、米の底――
夜が更けるにつれ、深川の湿り気は骨へ沁みるようになった。
俵の中から出てきた帳面束は、思った以上に重かった。米の代わりに紙が詰まっているだけなら、もっと軽いはずである。だが紙に混じって、小さな木札や印形の控えまで入っていた。つまりこれは、ただの控え帳ではない。空俵の流れを“誰がどこで許したか”まで記した、口裏合わせのための束だった。
伊織はそれを抱えたまま、蔵の壁に背を預けて一度だけ目を閉じた。
藩主は目を覚ました。
神谷内膳は捕らえた。
土井主計は死に、帳合の蔵も押さえた。
そこまで来てもなお、藩の下の方では、もう次の手が動いていた。しかも今度は土井のような“上”ではない。もっと下。もっと地味なところで、米俵の数を一つ抜き、日付を一つずらし、印を一つ借りて、誰にも気づかれぬように藩へ流し込む。内膳ほどの大きな悪ではない。だからこそ厄介だ。大きな悪は討てる。だが小さな都合は、どこにでも生える。
「伊織さん」
残っていた町方の男が、目をしばたたかせながら言った。
「この帳面……どうします」
「主馬殿へ出す」
伊織は答えた。
「だがその前に、藩の名がどこまで出ているか見なければならぬ」
帳面を開く。
薄い紙に、細かな文字。
蔵名、俵数、受け渡し、印。
そして見慣れぬ仮名がいくつか。
“佐三”
“治兵”
“深口”
“北蔵”
仮名だ。
仮名は名を隠すために使う。
つまり、ここにはまだ“生きた口”がある。
伊織がその中の一つを指で押さえた。
「北蔵……」
町方の男が覗き込む。
「何です」
「藩の北蔵役かもしれぬ」
松代藩江戸屋敷には、表の勘定方のほかに、蔵米を預かる役がいる。名は大きくない。だが、その役が一つ動くだけで、俵の数は自由になる。内膳のように藩を丸ごと売る気はなくとも、“今だけ藩を回す”つもりで手を染める者が出るには、ちょうどよい場所だ。
(次の内膳ではない。だが、次の種だ)
そこへ、蔵の裏口から新兵衛が戻ってきた。
肩で息をしている。顔に藁がつき、唇の端が切れていた。だが目は冴えている。
「逃がした」
開口一番、それだけ言った。
「川沿いの抜け道を使いやがった。岡野殿が追ってるが、夜の水路はあいつらの方が詳しい」
伊織は責めなかった。責めても意味がない。逃げる口が残るのは、むしろ自然だ。全部を一度に塞げるほど、世は単純ではない。
「顔は見たか」
「ああ」
新兵衛が頷く。
「狐火の小僧にしちゃ若い。二十代の後半ってとこだ。だが手慣れてやがった。……たぶん、内膳や帳合の“後”じゃなく、“下”で育った奴だ」
伊織は静かに頷いた。
“後”ではなく“下”。
それが最も嫌な言い方だった。
新しい頭が生まれるより先に、下支えする小さな手が育っている。
つまり、仕組みはまだ土の中に根を張っている。
「俵から帳面が出た」
伊織が言うと、新兵衛は眉を上げた。
「米じゃなく帳面か。そりゃひでぇ」
「藩の印もある」
「……どこまで食い込んでる」
「まだ分からぬ。だが“北蔵”という仮名がある」
新兵衛は舌打ちした。
「藩邸の中か」
「おそらく」
新兵衛は、しばらく黙って帳面を見下ろしていたが、やがて苦く笑った。
「終わらねぇな」
「終わらぬ」
「だが少しは、見えやすくなった」
その言葉に、伊織は少しだけ目を上げた。
たしかにそうだ。
最初は、誰が敵かも分からなかった。
今は少なくとも、流れの筋が見える。
大きな口は潰れた。
残るのは、小さな口だ。
小さいが、それだけに数がある。
「主馬殿へ持っていく」
伊織が言うと、新兵衛は首を振った。
「その前に寺だ」
「寺?」
「お前、自分で言ったろ。戻る場所を忘れるなって」
半十郎の言葉を、新兵衛が勝手に盗んだような言い方だった。だがその軽口の裏に、妙に真っ当なものがあった。
「帳面は逃げねぇ。だが人は待たせすぎると、黙って笑わなくなる」
伊織は苦笑した。
「誰がそんなことを言う」
「俺だよ」
新兵衛は肩をすくめる。
「傷も痛ぇし、寺の飯も恋しい。お前一人が役目に縛られると、見てるこっちが息苦しい」
その言葉が、胸に沁みた。
自分では平気な顔をしていたつもりだった。
だが周りには見えているのだろう。
帳面を抱えたまま、自分まで紙みたいな顔になっていることが。
伊織は帳面束を紐でまとめ直した。
「……一度だけ戻る」
「一度でいい」
新兵衛が笑う。
「飯食って、顔見て、それからまた藩の底を掘れ」
寺へ戻ると、夜はもう深かった。
門のところに吊られた小さな灯が、風に揺れている。その灯を見ると、不思議に胸がゆるむ。守らねばならぬものは、こういう弱い灯なのだと伊織は思った。大きなものではない。だが消えれば、暗闇が広がる。
志乃が最初に気づいて駆けてきた。
「兄さま!」
その声に、母も、お澪も、老僧も、奥から顔を出す。
誰も大声では問わぬ。
ただ、無事かどうかを目で確かめる。
その目の中に、自分がまだ“人”として戻ってこられる場所がある。
「遅かったですね」
お澪が縁側から言った。
「帳面が重かった」
伊織がそう答えると、お澪は少しだけ笑った。
「なら、ここで少し下ろしてください」
新兵衛が後ろで「うまいこと言いやがる」と笑った。
母が囲炉裏へ招く。
湯が沸いている。
味噌の匂いがする。
遅い夜なのに、食べるものがある。
ただそれだけのことが、これほど人を救うとは思わなかった。
帳面束は、老僧の前にいったん置かれた。老僧はそれを見ても、すぐには触れなかった。代わりに伊織の顔を見て言った。
「今夜は、人の顔に戻っているな」
伊織は思わず苦笑した。
「昨夜は違いましたか」
「紙の顔だった」
老僧は平然と言う。
志乃が、味噌汁をよそいながら首を傾げた。
「紙の顔って、どんな顔ですか」
「折ればすぐ筋がつく顔だ」
老僧が言うと、新兵衛が吹き出した。
「それ、俺のことじゃねぇのか」
囲炉裏の周りに、少し笑いが広がった。
その笑いが、伊織にはありがたかった。
笑いは、人を役から戻す。
役の顔では笑えない。
笑う時だけ、人は自分になる。
夜更け、皆が寝静まったあと、伊織は一人で帳面束を開いた。
囲炉裏の炭火が赤く残り、行灯の灯が紙を薄く照らしている。外では風が竹を鳴らし、時折どこかで犬が吠える。火も矢もない静かな夜だ。だが紙の上では、まだ多くの人間が動いていた。
“北蔵”の印のついた帳面を、改めて丹念に追う。
俵の数。
払い出しの印。
受け取りの仮名。
その中に、ひとつだけ見慣れた筆癖があった。
伊織の指が止まる。
「……まさか」
思わず声が漏れた。
その筆癖は、松代藩江戸屋敷で何度か見たことがある。
勘定方の細かな控えを書いていた男。
目立たず、声も小さく、いつも帳場の隅にいた。
名は――
「榎本……」
伊織は帳面の端に記された小さな仮名を見つめた。
“榎”。
たった一字。
だがそれで十分だった。
榎本清十郎。
藩の勘定方にいる、地味な男。
内膳のような大物ではない。
だが俵の数を動かし、印を借り、空俵を混ぜるには、まさにそういう男が要る。
内膳が倒れても、こういう男は残る。
そして“藩を回すため”と自分に言い聞かせて、次の土井の小さな根になる。
伊織は帳面を閉じた。
凪は短い。
主水の言う通りだ。
だが短い凪のあいだに、帆を整えねばならぬ。
次は榎本清十郎。
大きな悪の後に残る、小さな悪。
小さいからこそ見逃されるもの。
だが見逃せば、また別の黒い桐へ育つもの。
伊織は、囲炉裏の火を見つめながら、静かに息を吐いた。
波瀾万丈の嵐は、もう大きな波だけではない。
小さなさざ波の一つひとつまで、見張らねばならぬ。
それが、これから自分の歩く道なのだろうと、伊織はようやく腹の底で受け入れ始めていた。
(第三十九章につづく)

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