――第三十四章 城内の白紙――
江戸城の内へ足を踏み入れると、音の質が変わる。
町の音は、言ってみれば人の腹の音だ。売り買い、怒声、笑い、泣き声――生きるための音が混じり合っている。だが城の音は違う。ここでは音すら、役目を帯びている。足音は軽くても、軽さに意味がある。襖の開閉ひとつにまで、誰がどこまで近づいてよいかが染みついている。
伊織は佐々木主馬の半歩後ろを歩きながら、そのことを思った。
土井主計が死に、神谷内膳が捕らえられ、藩主の口が戻り、帳合の蔵は押さえられた。そこまで来てもなお、ここでは何も終わっていない顔が並んでいる。終わっていないどころか、むしろこれから何かが始まる前の静けさがある。帳面は火より静かに燃える。城の中とは、そういう場所なのだろう。
通されたのは、主馬の控えの間よりさらに奥にある小座敷だった。広くはない。だが畳は新しく、障子は厚く、余計な物が一つもない。何も置かぬことで、ここでは人の言葉だけが重くなるように作られている。
「待て」
主馬が言った。
伊織は畳の縁へ膝をついた。城の中では、立っているより座っている方が緊張する。立っていればまだ動けるが、座ると動きが制される。言葉だけで立たねばならぬ。
やがて、襖が開いた。
入ってきたのは、老中その人ではなかった。年のころは五十に近い旗本で、痩せて色白、目元が鋭い。だがその鋭さは人を切る鋭さではなく、紙を切る鋭さだ。伊織は、こういう顔をこの数日で覚えた。帳面の向こうにいる男の顔である。
主馬が低く頭を下げた。
「御側取次の酒井主水様にございます」
伊織も頭を下げた。
酒井主水は、伊織をしばらく見た。じっと見るのではない。値をつけるように見る。人の命にではなく、人の使い道に値をつける目であった。
「榊原伊織」
声は静かだった。
「面を上げよ」
伊織が顔を上げると、主水はすぐに言った。
「松代藩の内紛に留まらぬ話を、よくぞここまで繋いだ」
褒めているようで、少しも褒めてはいない言い方だった。事実だけを述べている。だからこそ、嘘がない。
「主馬から一通りは聞いておる。だが、私はおぬしの口から聞きたい」
「何をお聞きになりたいので」
伊織が問うと、主水は少しだけ口元を動かした。
「おぬしは、何を守ろうとしてここまで来た」
意外な問いだった。
帳面のことでも、土井のことでも、黒い桐のことでもない。だが、たしかにそれが根なのかもしれぬ。何を守ろうとしたのか。その答えで、これまでの行いすべての意味が変わる。
伊織は少し黙った。黙ってから答えた。
「最初は、藩でございました」
「今は」
「……人です」
主水の目が、ほんの僅かに動く。
「藩ではないのか」
「藩も人がいてこそです。藩主様も、家中も、町人も、母も妹も、傷ついた者も……それらを守ろうとして、ここまで来ました」
主水は、しばらく何も言わなかった。沈黙が長い。だがこの沈黙は、内膳や土井の沈黙とは違う。相手の言葉を秤にかけている沈黙だ。
「では問う」
主水が言った。
「人を守るために、どこまで汚れる」
伊織の胸が、静かに鳴った。
その問いは、これまで誰にも真正面から問われたことがなかった。土井は“心を売れ”と言い、内膳は“藩を守れ”と言い、半十郎は“剣を守れ”と言い、母は“生きろ”と言った。だが“どこまで汚れる”かを、まっすぐ問うた者はいなかった。
「分かりません」
伊織は正直に言った。
「だが、汚れることを恐れて何もしないよりは、手を汚してでも止める方を選びます」
主水は即座に返した。
「その果てに、おぬし自身が土井主計のようになったらどうする」
伊織は目を伏せなかった。
「その時は、別の誰かに止められるべきでしょう」
主水の口元が、初めて僅かに笑った。
「よい答えではない」
伊織は何も言わない。
「だが、悪い答えでもない」
主水はそう言って、主馬に目をやった。
「帳面は」
主馬がすぐに箱を差し出す。木場から押さえた帳面の一部、志摩屋の裏帳、土井主計の出納、与吉郎の薬筋、そして藩邸の裏木戸への出入りを示す紙。主水はそれらを一枚ずつ確かめ、途中で一度だけ、細く息を吐いた。
「黒い桐、か」
主水が呟く。
「桐の印は公の気配を帯びすぎている。だからこそ、逆に裏に回せば強い」
伊織は黙って聞いていた。
主水は帳面を閉じると、静かに言った。
「老中方としては、ここで二つの道がある。一つは、土井主計と神谷内膳、志摩屋、与吉郎までを“個々の不正”として処理し、ここで蓋をする道。もう一つは、黒い桐――すなわち帳合の仕組みそのものへ手を入れる道だ」
伊織は問うた。
「どちらを選ばれるのですか」
主水は、すぐには答えなかった。
「どちらが“正しい”と思う」
また問いが返ってくる。
「仕組みごと断たねば、また次が生まれます」
伊織は言った。
「それが正しいと思います」
「だがそれをやれば、藩も、商いも、薬筋も、一時に乱れる。乱れれば多くの者が困る。食が止まり、薬が遅れ、船が止まる。今日救った者が、明日飢えるかもしれぬ」
主水は淡々と言った。
「それでも、仕組みを断てと言うか」
伊織は胸の奥で迷いが動くのを感じた。
正しさは単純ではない。
断てば良いというものではない。
土井も内膳も、その“乱れ”を怖れ、そこから始まったと言っていた。
だが伊織は、だからこそ思った。
乱れを恐れるあまり、見えぬところで人を売り、口を封じ、火をつけ、毒を盛る仕組みを残すなら、その静けさは腐りだ。
「断つべきです」
伊織はゆっくり言った。
「ただし、一度にではなく、逃げ道を塞ぎながら」
主水の眉がほんの僅かに上がった。
「逃げ道?」
「人は追い詰めすぎると、火をつけます」
伊織は言った。
「土井も、内膳も、帳合もそうでした。だから仕組みを断つなら、火をつける者を先に押さえ、金の流れを止め、代わりの道を用意してからでなければ、また別の黒い桐が生まれます」
言いながら、伊織は自分の言葉に少し驚いていた。
これはもう、剣の言葉ではない。
帳面の相手に、帳面の理で返す言葉だった。
いつの間に、自分はこういう考え方をするようになったのだろう。
江戸がそうさせたのか。
それとも、この騒ぎが人を変えるのか。
主水は、長く黙ってから言った。
「主馬」
「はっ」
「この者は、浪人にしておくには厄介だな」
主馬がごく僅かに笑う。
「同感にございます」
伊織は目を伏せた。
褒められているのか、警戒されているのか分からぬ。
だがどちらでも、ここで気を緩めるわけにはいかなかった。
主水は改めて伊織を見た。
「榊原伊織。おぬしは松代藩の者として動いた。だがここから先は、藩だけの話ではなくなる」
伊織は黙って聞く。
「黒い桐の仕組みは、ひとまず我らが預かる」
「はい」
「だが帳面は、紙だけで勝手に動かぬ。読む者、疑う者、次を早く嗅ぐ者が要る」
主水は静かに言った。
「おぬしに、その役を負わせたい」
伊織の胸がわずかに揺れた。
「……私に」
「役目の名はどうでもよい。正式な役職ではない。主馬の手に近いところで、藩と町と商いの境を見張る“目”だ」
主水は続けた。
「受ければ、もう以前の榊原伊織には戻れぬ。剣だけを頼りに生きる武士には戻れぬ。藩へも、家へも、ただの一人の息子や兄としては戻れぬ」
その言葉は、脅しではなく事実だった。
伊織は、母の顔を思い浮かべた。
志乃の赤い紐。
お澪の静かな目。
半十郎の剣。
新兵衛の笑い。
藩主のかすれた声。
ここで受ければ、それらとの距離は変わる。
もう戻れぬ。
だが本当の意味で“戻る”道は、いつからかもう消えていたのかもしれなかった。
「受けます」
伊織は言った。
主水は頷いた。
「よろしい」
それだけだった。
だがその短い言葉が、伊織のこれからを決めた。
城を出たとき、夕方の光が石垣を赤く染めていた。
朝にくぐった同じ門なのに、もう別の門のように見える。人は、一日で変わることがある。あるいは、一つの帳面を開いたり閉じたりするだけで、もう以前とは違う場所へ立ってしまうのだろう。
主馬が隣を歩きながら言った。
「後悔しているか」
「まだ分かりません」
伊織が答えると、主馬は少しだけ笑った。
「分からぬうちは、まだまともだ」
二人はしばらく黙って歩いた。
江戸の夕方は、昼より人が多い。
皆が家へ帰る顔をしている。
だが伊織には、もう“帰る”という言葉の意味が少し変わってしまったように思えた。
「寺へ戻る」
伊織が言うと、主馬は頷いた。
「今夜くらいは戻れ」
「今夜くらいは、ですか」
「明日からは、また別の帳面が来る」
主馬はさらりと言った。
伊織は、思わず苦く笑った。
「凪は短いのですね」
「凪だからこそ、帆を整える」
主馬の言葉は、思いのほか柔らかかった。
寺へ着くと、門の前に新兵衛が立っていた。傷のせいで顔色はまだ悪いが、腕を組んで偉そうに立っている。
「遅ぇぞ」
伊織を見るなりそう言った。
「城は長い」
「帳面はもっと長ぇ」
新兵衛が鼻で笑う。
母は夕餉の支度をしていた。志乃は井戸端で水を汲み、お澪はまだ本調子ではないが、縁側で糸を撚っていた。老僧は庭を掃いている。
静かな夕方だった。
火の気配も、矢の気配も、狐火の影もない。
ただ人がいるだけの夕方。
伊織は、その景色を見て、しばらく立ち尽くした。
「どうしたの、兄さま」
志乃が笑って言う。
伊織はようやく、小さく笑った。
「いや……ただ、戻れたと思ってな」
母が振り向き、いつものように言った。
「なら手を洗ってきなさい。ご飯にします」
その声が、やけに沁みた。
波瀾万丈の嵐は、まだ完全には去っていない。
黒い桐の残り火も、きっとどこかにある。
だが少なくとも、この夕方だけは、守れたのだ。
伊織は井戸で手を洗い、冷たい水の感触を確かめた。
帳面の上の戦いがどれだけ続こうとも、
この水の冷たさを忘れぬ限り、
まだ自分は人の側にいられる――
そんな気がした。
(第三十五章につづく)

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