――第三十一章 木場の奥――
深川の木場は、昼と夜とでまるで別の顔を持つ。
昼は材木の山が陽を受けて白く乾き、木挽きの声や水路を行く舟の音が絶えぬ。だが夜になると、その材木の山はことごとく黒い壁に変わり、水は音だけになり、人の気配は木の匂いの中へ吸い込まれてしまう。火に弱い町であるがゆえに、人は皆、火を恐れている。だからこそ、火を操る者には都合がよかった。材木も、舟も、倉も、抜け道も、すべて揃っている。
伊織は、木場の外れの橋のたもとで足を止めた。
夜はまだ浅い。空の底にうすく藍が残り、水路の面だけがわずかに明るい。だが材木置き場の奥はもう闇だった。闇の濃いところほど、人は安心する。隠れられると思うからだ。だが伊織には、その闇がむしろ目立って見えた。黒いものは、周囲より黒ければそこにあると分かる。
佐々木主馬は、今回は自らは来なかった。老中方として動くには、あまりに露骨だからだ。代わりに岡野を寄越し、町方と鳶の者を点々と配置した。表は動かさず、裏だけで締める。木場は騒ぎになれば火が出る。火が出れば何もかも灰になる。だから今夜は、火を起こさず、口だけを押さえねばならぬ。
半十郎は藩邸に残った。藩主の側を離れぬためだ。母と志乃、お澪は老僧の寺にいる。新兵衛は傷を負いながらも「這ってでも行く」と言い張ったが、半十郎に一喝され、寺の守りへ回された。伊織はそれでよかったと思った。今夜は、誰か一人でも寺に“戻る者”が要る。すべてが前へ出れば、後ろが空く。
「伊織さん」
岡野が、橋の影から現れた。
「志摩屋別蔵は、あの材木問屋の裏です。表の看板は『升屋』。だが荷の出入りは、帳面の数に比べて多すぎる」
伊織は頷いた。
升屋。
志摩屋の別蔵を、別の名で包む。
表の顔をいくつも持つのは、ここまで来るともう一種の病だった。
「見張りは」
「表に二人、裏に二人。だが“見える見張り”です。本当の目は、材木の陰か、水路の舟か」
「狐火か」
「でしょうな」
岡野は短く言った。
伊織は水路の方を見た。暗い水面に、舟影が二つ、三つ揺れている。荷舟に見える。だが夜に荷舟が静かすぎるのは怪しい。漕ぎ手が休んでいるのではない。息を潜めているのだ。
「弓はあるか」
伊織が問う。
「鳶に弓はありません。町方に二張り。だが、使うなら最後です」
「最後でいい」
伊織は言った。
「できれば使わぬ」
岡野は一瞬だけ伊織の横顔を見た。伊織がまだ、できるだけ血を少なくしたいと思っているのを見抜いたのだろう。だが今夜の相手は、火も毒も使う。血を避けてばかりでは、こちらが焼かれるかもしれぬ。それでも伊織は、最後まで“人を殺さずに終える道”を捨てたくなかった。
それは甘さかもしれぬ。
だが、そこを捨てれば、自分が何者なのか分からなくなる。
「行く」
伊織は言った。
升屋の表は静かだった。
昼なら木遣りの声が響くのだろうが、今はもう店も閉じ、格子戸の向こうにぼんやりと灯が一つ見えるだけだ。だが裏へ回ると、違った。材木の山の影に、小さな灯が二つ、三つ動いている。荷の改めをする者の灯だ。あるいは、火を仕込む者の灯。
伊織は身を低くし、材木の間を縫った。木場の匂い――新しい木の匂い、古い木の湿った匂い、川泥の匂い――それらが混じり合って、妙に落ち着くようで落ち着かない。ここで火が出れば、一帯が終わる。そのことを、敵も味方も知っている。知っているから、互いに火をちらつかせ合う。
材木置き場の奥に、土蔵があった。白壁は夜の中でうっすら浮いている。蔵の戸は閉まっているが、その前に立つ男の足元に、角の欠けた札が置いてあった。三つ巴の印。間違いない。ここが口だ。
見張りは二人。
一人は町人風。
もう一人は武士の腰をしている。
おそらく狐火と、藩か勘定所の手が一人ずつ。
伊織は、後ろに控える岡野へ小さく合図した。
岡野が右。
伊織が左。
呼吸を合わせて、二人は同時に動いた。
見張りの一人が何か言う前に、伊織の手が口を塞いだ。もう一人は岡野が足を払って倒す。悲鳴は出ない。木場では悲鳴がいちばん危ない。悲鳴は火より人を呼ぶ。
縄で縛り、蔵の戸へ耳を当てる。中に人がいる。二人か三人。紙をめくる音。帳面の音だ。
「中に入る」
伊織が囁くと、岡野が頷いた。
「戸を開ければ、灯が漏れます」
「それでいい。気づかせて、焦らせる」
伊織は蔵の戸を押した。重い戸が、ぎ、と鳴る。内側の音が止まった。
伊織はそのまま一歩、中へ踏み込んだ。
蔵の中は思ったより広かった。材木ではなく、箱が積まれている。米俵もある。薬箱もある。帳面が積まれた棚もある。つまり、木場の蔵を借りて、あらゆる“流れ”を一度ここへ寄せていたのだ。金、薬、船、米。黒い桐の帳合という言葉が、ようやく匂いを持った。
そして蔵の中央に、一人の男が座っていた。
年の頃は六十近い。
黒い羽織。
髪は白い。
だが与吉郎のような湿った白ではない。乾いた白。
目が、恐ろしく静かだった。
「ようやく来たか」
男はそう言った。
声に驚きはない。待っていた声だ。
伊織は、すぐには名を言わなかった。
「お前が、黒い桐か」
男は少しだけ笑った。
「そう呼ぶ者もいる」
「名は」
「名は捨てた」
岡野が後ろで低く言った。
「帳合、ということか」
「そうだ」
男は平然と頷いた。
「人が死ねば名は途切れる。だが役は途切れぬ。ゆえに名は邪魔だ」
伊織の背筋に、冷たいものが走った。
土井も、内膳も、志摩屋も、皆どこかで“人”だった。
だがこいつは違う。
最初から“役”として話している。
役としてしか生きていない。
「お前が土井を動かし、内膳を使い、与吉郎に薬を運ばせたのか」
「“動かした”という言い方は好かぬな」
帳合の男は静かに言った。
「それぞれ、自分の都合で動いた。私は流れを整えただけだ」
「整えるために、藩主を黙らせ、人を売り、火をつけた」
「藩は潰れずに済むはずだった」
男は言った。
「土井は少々焦りが過ぎた。神谷内膳も、情が残っていた。あれでは長く持たぬ」
伊織は、その言葉に怒りよりも、ある種の寒さを覚えた。
人の失敗を、“品定め”のように言う。
人を人として見ていない。
帳面の数字と同じだ。合うか、外れるか。それだけ。
「長く持たせるために、何をする」
伊織が問う。
「藩を一つ、二つ、静かに骨抜きにする。領地の利を切り分ける。薬方と舟筋と米筋を繋ぐ。……それで誰が困る?」
男は穏やかに言った。
「民は今日も飯を食う。武士も禄を食む。表向きは何も変わらぬ」
「魂が腐る」
伊織が言うと、男はほんの少しだけ目を細めた。
「魂は飯にならぬ」
またそれだ。
土井も、内膳も、皆そこへ戻る。
飯。腹。生き延びる。
そのために、何かを切る。
切るものが、人の心でも構わぬという理屈。
だが伊織は、ここまで来てようやく分かっていた。
この理屈に、正面から“正しさ”だけをぶつけても勝てぬ。
勝つには、相手が最も嫌うものを突きつけねばならぬ。
「お前は、名を捨てたと言ったな」
伊織が静かに言った。
「名がない方が、生き残るからだろう」
「そうだ」
「だが、役には終わりがある」
男の目が、ほんのわずかに動く。
「老中方はもう動いている。土井は死に、内膳は捕まり、与吉郎も口を割った。志摩屋の帳面も押さえた。お前の蔵も今こうして見つかった」
伊織は一歩進んだ。
「役が破れた」
蔵の中の空気が、少しだけ変わった。
帳合の男の静かな目の奥で、何かが揺れた。
それは怒りではない。
もっと実務的なもの――損勘定だ。
「……それで?」
男は言った。
「役が破れたなら、また別の役を立てるだけだ」
「立てられぬ」
伊織は言い切った。
「ここにある帳面も、印も、箱も、全部押さえる。お前も生きて主馬殿の前へ出る」
「それはできぬ」
男の声が少しだけ冷えた。
次の瞬間、蔵の奥で何かが鳴った。
岡野が振り向く。
小さな火打ち石の音。
「火だ!」
岡野が叫んだ。
やはり来た。最後は火。
この男もまた、火を使う。
蔵の奥の油紙と乾いた箱に火が走り始める。木場の蔵に火が移れば、周りの材木も終わる。町ごと燃える。
「外へ!」
岡野が叫ぶ。
だが伊織は動かなかった。
動けば帳合が逃げる。
帳合が逃げれば、また別の土井が生まれる。
帳合の男は、ゆっくり立ち上がった。逃げるのではない。逃げ道へ向かうために立ったのだ。蔵の裏、水路側の抜け戸。
「榊原伊織」
男が言う。
「お前は、最後まで正しい方を選ぶだろう。火を止める。蔵を守る。町を守る。……だから私には届かぬ」
その言葉は、挑発ではなく、観察だった。
伊織がどう動くか、本当に分かっている声。
伊織の胸で、何かが静かに定まった。
ここでまた火を優先すれば、相手は逃げる。
そして別の蔵、別の町、別の藩で、また同じことが起こる。
ならば今夜、正しさの順番を変えるしかない。
「岡野殿」
伊織が言った。
「火を頼む」
岡野が目を見開いた。
「お前は!」
「逃がさぬ」
伊織は帳合の男へ踏み込んだ。
男が初めて、ほんの僅かに顔を歪めた。
予想と違ったのだ。
伊織が火ではなく、自分を選んだことが。
「そうか」
男は低く言った。
「ようやく、こちらへ来たな」
袖から短い刃が二本出る。
刀ではない。
帳面の男に似合う、静かな刃だ。
伊織は抜いた刀を低く構えた。
蔵の奥では火が伸びる。
岡野と外の者たちが桶を運ぶ声。
木の匂いが一気に熱を帯びる。
帳合の男は速かった。
土井よりも。
内膳よりも。
速いというより、無駄がない。
役として何十年も人を裁いてきた動きだ。
刃が交わる。
狭い蔵の中で、箱を蹴り、帳面を踏み、火の熱を背に受けながらの斬り合い。
これまでのすべてが、この一瞬へ集まってくる気がした。
母の涙。
志乃の赤い紐。
お澪の矢傷。
新兵衛の血。
半十郎の剣。
藩主のかすれた声。
それら全部が、伊織の腕に乗る。
帳合の男の刃が肩を掠めた。熱い。だが浅い。
伊織は退かず、踏み込んだ。
相手は火を背にしている。
逃げ道は裏戸だけ。
だが裏戸へ行かせれば終わる。
伊織は、刀で斬るのではなく、柄で打った。
相手の右手首。
鈍い音。
短い刃が一本、床へ落ちる。
男の目が、初めてはっきりと揺れた。
「……見事だ」
まだ笑う。
その笑いが、伊織には腹立たしかった。
最後まで、“人”としてではなく、“役”として敗れようとしている。
「名を言え」
伊織が低く唸る。
男は左手の刃を構えたまま、静かに言った。
「言えば、お前はもっと疲れる」
「言え」
「役に名は要らぬ」
火がさらに大きくなり、梁が鳴る。
岡野の声。
外で水の音。
時間がない。
伊織は、最後の一歩を詰めた。
刀の切っ先を、男の喉ではなく、胸の衣へ当てる。
さらに踏み込めば刺さる位置。
だが刺さぬ。
「お前が名を捨てたなら、私はお前を役ごと潰す」
伊織は言った。
「お前の蔵も、帳面も、印も、もう終わりだ」
男の目が細くなる。
「終わり、か」
「そうだ」
「……では」
男は、ふっと力を抜いた。
刃が床へ落ちる。
「私の役は、ここまでだ」
その言葉は、敗北の言葉ではなかった。
引き継ぎの言葉だった。
それが、伊織には何より気味が悪かった。
岡野が飛び込み、縄をかける。
同時に、外の者たちが火を押さえ込み始める。
蔵は焼け切らずに済みそうだった。
帳合の男は、縛られたまま、最後に一言だけ言った。
「榊原伊織。……お前は、自分が守ったと思うだろう」
伊織は答えなかった。
「だが守ったものは、また誰かが使う。藩も、帳面も、人の正しさも」
男はそう言って、口を閉じた。
外へ出ると、木場の空はもうすっかり明るくなっていた。
材木の山が朝日に白く照らされている。
火は止まった。
蔵は残った。
口も生きている。
だが伊織には、その明るさが、妙に頼りなく見えた。
夜の敵は捕らえた。
けれど昼の世が、それをどう使うのか。
そこまで見届けねば、終わったとは言えぬ。
波瀾万丈の嵐は、ようやく中心へ達した。
だが中心に立ってみると、そこには“勝ち”ではなく、ただ次の責め苦だけが待っているようにも思えた。
それでも、伊織は目を逸らさなかった。
逸らせば、また火がつく。
それだけは、もう嫌というほど知っていた。
(第三十二章につづく)

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