――第三十章 黒い桐の影――
海から戻るころには、江戸の朝はすっかり目を覚ましていた。
魚河岸の声が立ち、荷車が軋み、橋の上には商人も侍も混じり始める。人は昨日と同じ朝を迎えたつもりでいる。だが伊織にとっては、昨日までの朝とはもう別のものだった。土井主計は死んだ。神谷内膳は捕らえた。与吉郎も、志摩屋の主人も、蔵番も手の内にある。藩主はかろうじて口を開いた。ここまでくれば、もう終わりに近いはずだった。
だが、そうではない。
“黒い桐”。
その印が、すべての上にまだ浮かんでいる。
伊織は海風に湿った袖のまま、品川から城下へ戻る道すがら、そのことだけを考えていた。名がある敵は追える。刀も届く。帳面も繋げられる。だが印だけの敵は厄介だ。印は人の顔を持たぬ。顔を持たぬものは、消してもまた別の顔に宿る。
岡野が横で言った。
「主馬殿には、もう使いを飛ばしました。藩邸へも、寺へも」
「寺は」
伊織が問う。
「今のところ静かだそうです。鳶の者が張っている。……だが静かな時ほど、裏で何か動きます」
伊織は頷いた。静けさを信用してはならぬ。内膳も、土井も、静かな声で人を殺した。黒い桐もまた、静かに動くのだろう。
神谷内膳は、縄をかけられたまま小舟の奥に座っていた。逃げる気配はない。逃げても無駄だと悟った者の顔である。だが、まだ折れてはいない。折れていれば、黒い桐についてもっと吐くはずだ。吐かぬということは、恐れているのだ。土井より、老中より、死よりも。
志摩屋の主人は、海から戻るころには完全に腰を抜かしていた。ひっきりなしに水を欲しがり、寒くもないのに震えている。与吉郎は逆に静かだった。静かな者は、まだどこかに逃げ道を持っていることが多い。
藩邸へ着くと、表門の空気が昨日までとは違っていた。槍は立っているが、その槍先が定まっている。迷っている家中の気配が薄れ、誰が敵で誰が味方か、少しずつ見え始めているのだろう。藩主の一言は、それほど重い。
戸沢半十郎が出迎えた。徹夜のせいで頬はこけていたが、目の芯はむしろ強くなっていた。
「戻ったか」
「内膳を」
伊織が言うと、半十郎は短く頷いた。
「見れば分かる」
半十郎の目が、内膳へ向けられる。その視線はもはや旧知の同僚に向けるものではない。藩の膿を見る目だった。
「藩主様は」
「まだ弱っておられる。だが意識は保っておられる」
それを聞いた瞬間、伊織の胸の重さがほんの僅かに軽くなった。死なれてはならぬ。ここまでの流れがすべて無駄になる。藩主が口を持つ限り、内膳の“御意”は消えたままだ。
半十郎は岡野へ目を向けた。
「主馬殿は?」
「老中方への二の報をまとめておられます。勘定所の火、土井の死、薬筋、志摩屋の裏帳、そして神谷内膳の拘束。――ただ、黒い桐については、まだ上げる文言に迷っておられる」
半十郎の眉がわずかに動いた。
「当然だ。印だけでは、公の場で人は動かせぬ」
「だが、印を放っておけば、また別の土井が出る」
伊織が言うと、半十郎は深く頷いた。
「そのために、口を割らせる」
内膳は藩邸の一室へ移された。志摩屋の主人と蔵番、与吉郎は別々に置く。ひとまとめにすると、口裏を合わせる。離せば、それぞれが恐れを別々に抱く。恐れは、別々に抱かせた方がいい。誰かと分け合えば耐えられるが、一人で抱けば重くなる。
伊織と半十郎、岡野、そして主馬が揃ったのは、昼を少し回ったころだった。主馬は寝ていない目をしていたが、顔はむしろ冴えていた。こういう時に冴える男は、権力の近くに向いている。だがその冴えが、人を遠ざけることもある。
「老中方は動く」
主馬は開口一番そう言った。
「だが、土井主計の死で一段ややこしくなった。死人は便利だ。何でも死人に被せられる」
「内膳もそれを狙うでしょう」
岡野が言う。
「“すべて土井の仕業だった”で済ませる」
主馬は頷いた。
「だから済ませぬために、内膳の口が要る。与吉郎の口もだ。志摩屋の裏主人の名も要る」
伊織は問うた。
「志摩屋の裏主人は、まだ吐いていないのか」
主馬は少し口元を歪めた。
「主人本人が“顔を知らぬ”と言い張っている。印と札だけで動いていた、と」
伊織は志摩屋の主人を思い出した。あの男は、嘘をつくとき目を泳がせる。つまり今は、全部が嘘ではない。顔を本当に知らぬのかもしれぬ。裏主人とは、そういうものだ。顔を持たぬことで、生き残る。
「まず内膳だ」
半十郎が言った。
「奴は顔も名も知っているはずだ。知っていて黙っている」
「私がやる」
伊織が言うと、主馬が首を振った。
「お前では駄目だ」
「なぜ」
「感情がある」
主馬は平然と言った。
「感情は口を割らせることもあるが、最後の一歩で口を塞ぐ。奴はお前の怒りを利用する」
半十郎も静かに言った。
「伊織、お前は正面の刃だ。だが今必要なのは、喉元に当てる刃ではない。背中に触れさせる刃だ」
伊織は、言い返さなかった。悔しさはあった。だがそれ以上に、自分が内膳に対して冷たくなりきれぬことも知っていた。藩主を倒した男でありながら、同時に、かつて同じ藩の空気を吸った男でもある。その記憶が、最後の刃を鈍らせるかもしれぬ。
「では誰が」
伊織が問う。
主馬は短く答えた。
「藩主様だ」
部屋の空気が少し変わった。
「藩主様ご自身が、ですか」
岡野が思わず言う。
「そうだ」
主馬は言った。
「内膳が恐れているのは、公でも、死でもない。自分が“藩主に見放された”と認めることだ。藩のためにやったと思い込んでいる者ほど、その言葉に弱い」
半十郎が長く息を吐いた。
「……それが一番効くかもしれぬな」
伊織は、藩主の病床を思い浮かべた。あの弱った声で、内膳の心を折れるのか。だが、人の心を最も折るのは、大声ではなく、かすれた一言だったりする。
内膳は夕刻、藩主の前に引き出された。
部屋には、藩主、半十郎、主馬、岡野、伊織、そして記録役が一人だけ。余計な人間は入れぬ。言葉は少ない方が重くなる。
藩主はまだ床に伏していた。だが昼よりも目が戻っている。苦しげではあるが、瞳の奥に人の意志があった。
内膳は、縄をかけられたまま、畳の上に座らされた。
そのとき初めて、内膳の顔に目に見える揺れが走った。
藩主と目が合ったからだ。
「神谷」
藩主が言った。
声は細い。
だが部屋の誰よりも強かった。
内膳は頭を下げた。
「……殿」
「なぜだ」
藩主は短く問うた。
それだけだった。
なぜだ。
責めでもなく、怒鳴りでもなく、ただ問うた。
内膳の肩が、はっきりと震えた。
「藩のためにございます」
内膳が絞るように言う。
「このままでは、藩は潰れました。土井主計の口を使い、志摩屋を使い、いっときでも息を継がせねば……」
「私を黙らせてか」
「……殿は、正しすぎた」
その言葉に、伊織の胸がざらついた。
またそれだ。
正しさが邪魔になるという理屈。
だが藩主は怒らなかった。
「神谷」
藩主は、じっと内膳を見た。
「私はお前に、藩を売れと言った覚えはない」
内膳の顔が歪んだ。
「売ってはおりませぬ! 守ろうと――」
「守るというのは」
藩主は、言葉を切りながらも続けた。
「私を生かして、私の口を奪うことではない」
内膳が俯く。
その俯きは、はじめて“負け”に近かった。
「お前は」
藩主の声がさらに細くなる。
「藩を守ったのではない。お前の恐れを守ったのだ」
その一言が、部屋を貫いた。
内膳の手が、畳の上でぎり、と鳴る。縄が食い込むほど握りしめていた。
主馬が、静かに問う。
「神谷内膳。黒い桐とは何だ」
内膳は答えない。
半十郎が言う。
「ここで黙れば、土井にすべてを被せて終わる。だがそれでは、また次が出る」
藩主が、最後の力を振り絞るように言った。
「言え」
長い沈黙のあと、内膳はようやく顔を上げた。
目は赤く、だが涙はなかった。
涙を流す段階は、もう過ぎている。
「……黒い桐は」
内膳の声はかすれていた。
「一人の名ではございませぬ」
主馬が低く言う。
「知っている。何だ」
「“帳合”です」
「帳合?」
「表の役所にも、藩にも、商いにも属さぬ……裏の取りまとめ役。名を持たず、代々“印”だけが継がれる。人が死んでも印が残る。だから、誰が束ねているのか、下の者には見えない」
伊織は、息を飲んだ。
名ではなく役。
黒い桐とは、人ではない。仕組みそのものだ。
「どこにいる」
岡野が問う。
内膳は首を振った。
「場所は定まらぬ。だが……江戸から離れはせぬ。城下に近すぎず、遠すぎぬ……薬と船と米が一度に動く場所です」
「品川か、日本橋か、深川か」
伊織が言う。
内膳は少しだけ目を閉じ、やがて言った。
「“木場の奥”」
深川の木場。
材木と水路の町。
船も、倉も、火も、隠れ道もある。
人が消えるにも、帳面が動くにも都合が良い場所だ。
「そこに何がある」
主馬が問う。
「表向きは……材木問屋の蔵」
「名は」
内膳は口をつぐむ。
伊織が一歩前へ出た。
「もうここまで言った。名も言え」
内膳は、ゆっくりと伊織を見た。
「榊原……お前は、本当にその蔵を開ける気か」
「開ける」
「開ければ、お前は“土井”を倒したのでは済まぬ。江戸の底に、別の穴が空く」
「空ける」
伊織は答えた。
「そのために、ここまで来た」
内膳は、諦めたように小さく笑った。
「……材木問屋《志摩屋別蔵》」
志摩屋。
やはり、そこへ戻る。
すべては、あの口から始まり、あの口へ戻るのだ。
主馬が記録役へ目配せする。名が記される。
名を記した時点で、それはもうただの噂ではない。
“公”へ近づく。
藩主は力尽きたように目を閉じた。半十郎が深く頭を下げる。
部屋を出たあと、主馬が低く言った。
「今夜だ」
伊織が頷く。
「木場へ」
「木場へだ。志摩屋別蔵を押さえる。黒い桐の“帳合”がそこにいるなら、これで終わる」
岡野が言う。
「終わらぬかもしれません」
「終わらぬとしても」
伊織は静かに言った。
「次の帳面を、少しでも薄くする」
半十郎が、その言葉に初めて微かに笑った。
「それでよい」
波瀾万丈の嵐は、ついに最後の蔵へ向かう。
火の匂いも、海の匂いも、薬の匂いも、すべてがそこへ集まっている。
そして伊織は知っていた。
最後の蔵を開けるとき、開くのは扉だけではない。
自分自身の“武士としての生き方”そのものも、そこで試されるのだと。
(第三十一章につづく)

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