山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第二十六章

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――第二十六章 千鳥屋の灰――

 千鳥屋の跡は、夜明け前の闇の中でなお黒かった。

 焼けた板壁の匂いは、月日が経っても土の底に残るものらしい。火は消えても、匂いだけが居座る。人の悪事も同じだと、伊織はふと思った。土井主計は死に、帳面は押さえ、老中の耳にも端緒は届いた。だが匂いは消えていない。匂いが残る限り、別の火が起きる。

 深川の川風は冷たく、焼け跡の灰をかすかに舞い上げていた。

 伊織は、主馬から預かった小型の提灯を消し、千鳥屋跡の裏手へ回った。同行は二人だけ――主馬の配下の一人と、鳶の若い衆の弥助である。人数を増やせば目立つ。目立てば内膳は逃げる。逃げれば寺が危うい。

 主馬は別に動いた。将軍家の薬筋へ繋がる“与吉郎”を押さえるためだ。役人の名に役人をぶつける。そこは主馬の場である。伊織の場は、血と火の残り香のするこちらだった。

「伊織さん……ほんとに来るんですかね」

 弥助が小声で言った。

「来る」

 伊織は短く答えた。

「来なければ、あの文を投げる意味がない」

 “寺の次は墓になる”――。

 あの一文は脅しであり、同時に呼び水でもあった。

 内膳は追い詰められている。追い詰められた者ほど、自分の手で相手の首を絞めたくなる。

 しかも千鳥屋は、すべてが始まった場所だ。

 ここで終わらせるという意地が、内膳にもあるはずだった。

 焼け跡の中央には、柱の根だけが何本か残っている。その陰に、人ひとり隠れられる程度の穴がある。伊織はそこを見た。誰かが最近、足を踏み入れた跡がある。灰が新しく崩れている。

(待ち伏せもある)

 伊織は弥助へ目配せした。

「左を見ろ。物音がしても飛び出すな」

「へ、へい」

 主馬の配下の男――名を岡野といった――は、短く言った。

「私は裏の舟着き場を見ます。逃げ道は川です」

「頼む」

 岡野は音もなく離れた。役人だが、ただの役人ではない。表で動けぬ場を心得ている足だ。

 伊織は一人、焼け跡の中央へ進んだ。

 灰を踏む音は思ったより軽い。人の家一軒が燃えれば、こんな軽い灰になるのかと、妙なことを考えた。千鳥屋を燃やした夜、ここで何人が逃げ、何人が嘘をつき、何人が殺されたのか。火は、いつも物だけではなく、人の順番まで変える。

「来たか」

 声は、焼け残った梁の陰からした。

 伊織は足を止めた。

 神谷内膳――ではない。

 先に現れたのは、志摩屋の蔵番だった。

 あの、金の目をした男。

 灰の中に立つ姿が、妙に板についている。

「お前か」

 伊織が言うと、蔵番は鼻で笑った。

「旦那、あっしも楽じゃねぇんで」

「内膳はどこだ」

「さぁ」

 蔵番は肩をすくめた。

「ただ、こういう時は“口”から先に出るもんでさ。腹は、あとから動く」

 口――志摩屋。

 腹――土井。

 背――内膳。

 伊織は、その言葉に僅かな真実を嗅いだ。

「お前は、どちらにつく」

「金を出す方につく」

「土井は死んだ」

「だから困ってるんで」

 蔵番は言った。

「困ってる奴ぁ、喋る。あっしも、あんたも、みんなそうでしょ」

 伊織は黙って見た。蔵番は本気で交渉に来ている。つまり内膳はまだ姿を見せない。まず口で様子を探り、危なければ火か矢かで殺すつもりだ。

「喋れ」

 伊織は低く言った。

「志摩屋の口を塞ぐには、何が要る」

 蔵番は、焼け跡の灰を靴先でいじりながら言った。

「帳面だけじゃ足りねぇ。帳面は燃える。印形も奪われる。だが“人”は燃やしにくい」

「誰だ」

「志摩屋の主人」

 伊織の目が細くなる。

「主人はあの太った男じゃないのか」

「表のな」

 蔵番が笑う。

「裏の主人は別だ。表の番頭でも太鼓持ちでもなく、もっと静かな奴だ」

「名を言え」

 蔵番は答えなかった。代わりに、闇の向こうを見た。

 伊織も同時に振り向く。

 灰の向こうから、下駄の音が一つ、ゆっくり近づいてくる。武士の足でも、町人の足でもない。わざと音をさせている。音をさせられるほど、余裕がある。

 やがて現れたのは、白い頭巾をかぶった男だった。

 白首。

 帳面に記された、あの“白首 一人”。

 男は細身で、年の頃は五十前後。顔は青白く、目が濡れたように光っている。手には薬箱があった。医師の箱だ。だが薬箱を持つ者が医師とは限らない。毒を運ぶ者もまた、箱を持つ。

「与吉郎……」

 伊織が呟くと、男はゆるく笑った。

「覚えのよいお侍だ」

「藩主へ毒を運んだな」

 白首の男――与吉郎は、肩をすくめた。

「毒、と呼ぶのは乱暴です。薬は量を違えれば毒になる。毒も量を違えれば薬になる」

 伊織の胸に、冷たい怒りが走る。こういう理屈を口にする者は、自分の手で人を殺した感触を持たぬ。持たぬように生きている。

「土井は死んだ」

 伊織は言った。

「お前の次はない」

 与吉郎は笑った。

「次? 次ならいくらでもありますよ。土井様は一人でしたが、薬箱を運ぶ手は一人ではない」

 蔵番が口を挟む。

「旦那、話が逸れてる」

 与吉郎は蔵番を一瞥し、すぐに伊織へ戻った。

「榊原伊織。あなたは、ここへ内膳殿を待って来たのでしょう」

「違う」

「違いますか?」

 与吉郎は柔らかく言った。

「本当は、自分がどこまで間に合ったのか確かめに来た。藩主は生きるか。寺は守れるか。母上と妹君は助かるか。お澪という娘も……」

 伊織の喉が鳴った。

 寺のことを知っている。お澪の名まで知っている。

 薬は毒になり、情報は縄になる。

 こいつは、土井と同じ種類の人間だ。

「黙れ」

 伊織が一歩踏み出す。

 与吉郎は後ろへ下がらない。代わりに薬箱を少し持ち上げた。

「中には薬が入っております」

「毒か」

「どちらでもよろしい」

 与吉郎の目が細くなった。

「内膳殿は、もうここへは来ません」

 伊織の胸が一瞬、空いた。

「……逃げたか」

「いいえ」

 与吉郎は言った。

「向かったのです。寺へ」

 灰の上で、時間が止まった。

 弥助が後ろで小さく息を呑む気配がする。岡野はまだ裏手だ。戻っても間に合うか分からぬ。だが動かねば、寺が燃える。いや、今度は火では済まぬ。内膳は、最後の首を取りに行ったのだ。

「なぜ、ここへ呼んだ」

 伊織の声が低くなる。

 与吉郎は静かに答えた。

「引き離すためです」

 その正直さが、かえって怒りを煽る。

「寺へ走れ」と言われるのを待っていたように、弥助が叫びかけたが、伊織は手で制した。

 与吉郎がここにいる。

 蔵番もいる。

 こいつらを逃がせば、また次の寺、次の藩、次の命へ薬と火が回る。

 だが寺へ戻らねば、母たちが危ない。

 選ばせる。

 まただ。

 火か、人か。

 今度は、寺か、根か。

 伊織は、胸の中で何かがすっと静まるのを感じた。

 今までなら、走っていた。

 寺へ。母へ。志乃へ。

 だが内膳は、その足を読んでいる。読まれて動けば、いつまでも追いつけぬ。

 追いつけぬなら、先に根を断つ。

「弥助」

 伊織は振り向かずに言った。

「寺へ行け。岡野殿にも伝えろ。主馬殿の名を使って、町方でも鳶でも何でもいい、火消しも人足も、ありったけ連れて行け」

「で、でも伊織さんは――」

「ここを終わらせる」

 弥助が迷う気配。だが次の瞬間、駆け出す足音。若い衆の足だ。守るために走る足。

 与吉郎が感心したように言った。

「なるほど。ようやく“同時に二つを切る”ことを覚えましたか」

 伊織は刀を抜いた。

 鋼の音が、焼け跡に響く。

 灰の匂いに、鉄の匂いが混じる。

「お前は、ここで終わる」

 与吉郎は薬箱を足元へ置いた。

「武士は、すぐ終わらせたがる」

「長引かせれば、人が死ぬ」

「死ぬのは、いつも人です」

 与吉郎の言葉は、息をするように冷たい。

 蔵番が一歩退く。金の目をした男は、刃と毒の間に立ちたくない。立てば金にならぬからだ。

 与吉郎の袖から、細い針が三本滑り落ちた。刀ではない。針。薬を塗った針だ。

(厄介だ)

 刀は見える。針は見えにくい。

 しかも焼け跡は足場が悪い。灰が滑る。

 与吉郎はそれを知っている。

 最初の針が飛んだ。伊織は身を沈めて避ける。針は後ろの柱根へ刺さる。二本目。袖を掠める。三本目。伊織は刀の峰で弾く。小さな音。こんなものでも、人は死ぬ。

 伊織は距離を詰めた。針の間合いは刀より遠いようでいて、実は近い。近づけば、相手は次の針を出す前に体勢を変えねばならぬ。

 与吉郎は後ろへ下がりながら、薬箱を蹴った。箱が開き、小瓶が転がる。一本が割れ、刺激臭が立つ。煙ではない。薬の匂い。目と喉を刺す。

 伊織は息を止め、踏み込む。与吉郎が袖から小刀を出す。小さく、細い。刺すための刃だ。斬るためではない。

 刃と刃が交わる。

 与吉郎の力は弱い。

 だが弱い者ほど、急所だけを狙う。

 喉、脇、手首。

 伊織は受け流し、峰打ちに徹する。殺せば口が閉じる。生かして、内膳の背を吐かせねばならぬ。

「内膳はどこへ向かった」

 伊織が低く問う。

「寺ですよ」

 与吉郎が笑う。

「本当に寺か」

 問いながら、伊織は小刀を払う。与吉郎の手首が跳ねる。小刀が落ちる。

「さあ」

 与吉郎は、その隙に腰の後ろから小瓶を取り出し、地面へ叩きつけた。白い粉が舞う。志摩屋で食らった目潰しに似ている。

 だが今度の伊織は、同じようにはやられぬ。

 袖で顔を覆い、低く沈んで前へ出る。

 相手は、粉の向こうから逃げると読んでいる。

 ならば逆だ。

 伊織の肩が与吉郎の腹へ入った。

 白首の体が浮き、灰の中へ倒れる。

 薬箱がひっくり返り、小瓶が散る。

 与吉郎の喉元へ、伊織の刀が止まる。

「終わりだ」

 伊織が言う。

 与吉郎は、地面に仰向けのまま、笑った。

 その笑いが、土井の最後の笑いに似ていて、伊織はぞっとした。

「終わりませんよ」

 与吉郎は囁いた。

「内膳殿は寺には行っていない」

 伊織の目が細くなる。

「どこだ」

「藩主様のもとです」

 灰の中で、世界が一瞬ずれた。

「藩主を――」

「殺すのではない」

 与吉郎の目が濡れるように光る。

「生かすのです。……“内膳殿にだけ都合よく”」

 伊織は息を呑んだ。

 藩主が死ねば、老中が強く介入する。

 だが藩主が生きていて、しかし口が利けぬ状態になれば――。

 藩主の名で、内膳がすべてをまとめられる。

 死より厄介だ。

「何を飲ませた」

「量を違えた薬ですよ」

 与吉郎は笑う。

「すぐには死なぬ。だが目も口も曇る。……便利でしょう?」

 伊織の刀が、わずかに震えた。

 怒りではない。

 こんな人間が、本当にいるのかという冷えだ。

「解毒は」

 与吉郎は、そこで初めて笑みを崩した。

 目に、ほんの少しだけ迷いが走る。

 そこを、伊織は見逃さなかった。

「あるな」

「……薬箱に」

 伊織は岡野へ目配せしようとして、まだ来ていないことに気づいた。

 仕方なく、自分で与吉郎の薬箱を引き寄せた。

 中には小瓶がいくつもある。

 札が付いたものも、付かぬものも。

 この中のどれかが、藩主の命をつなぐ。

 どれか一つでも間違えれば、逆に命を縮める。

「どれだ」

 伊織が問う。

 与吉郎は、薄く笑った。

「私が素直に言うと思いますか」

 伊織は刀の切っ先を、与吉郎の喉から胸へ移した。

「素直でなくてもいい。痛みで喋れ」

 その言葉に、蔵番がびくりと震えた。

 金の男は、痛みに弱い。

 与吉郎はどうか。

 薬を扱う者は、痛みにも慣れているかもしれぬ。

 だが死に慣れている者ほど、自分の死は嫌う。

 伊織は、わざと胸の上の衣を少しだけ裂いた。

 血が滲む程度に。

 与吉郎の目が、初めて剥き出しの恐れを見せた。

「青い札の小瓶だ」

 伊織はすぐには信じなかった。

「本当か」

「本当だ。……だが単独では効かぬ。白い粉の方も要る。混ぜて、湯で……」

 伊織は言葉を遮った。

「全部持っていく」

 その瞬間、焼け跡の奥で、笛が鳴った。

 狐火の合図。短く二度。

 まだいる。

 見ていたのだ。

 内膳は来ていない。だが目は来ている。

 伊織は振り返らず、低く言った。

「岡野殿!」

 声に応じて、舟着き場の方から岡野が走ってきた。

「押さえた。逃げる舟はない」

 岡野は息を切らしながら言い、与吉郎を見ると顔を険しくした。

「こいつが与吉郎か」

「そうだ。縛れ」

 岡野が縄をかける。

 与吉郎は抵抗しない。抵抗しないのは、どこかでまだ勝ち筋があると思っている者の顔だ。

「内膳は寺ではなく藩主のところだ」

 伊織が言うと、岡野の顔色が変わった。

「なら急がねば」

「急ぐ。だがこいつも必要だ」

 薬箱を抱え、与吉郎を縛り、蔵番も一緒に引き立てる。

 口を塞ぎ、腹を裂くには、人を生かして運ばねばならぬ。

 刀で片づけた方が楽なこともある。

 だが楽な方を選んで勝てる相手ではない。

 夜明けが近づいていた。

 東の空が、わずかに灰色へ変わる。

 千鳥屋の灰の色と同じだ、と伊織は思った。

 灰の中から、まだ火が起きる。

 ならば、灰ごと掬い取るしかない。

 波瀾万丈の嵐は、いよいよ藩主の床の間へ吹き込もうとしていた。

(第二十七章につづく)

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