山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第二十五章

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――第二十五章 焼け跡の勘定――

 火は、消したと思っても消えてはいない。

 勘定所の裏棟から上がった炎は、役人たちが桶を抱えて走り回るうちにようやく勢いを削がれたが、それでも梁の黒い炭と、焼け焦げた帳面の臭いは、夜明け近い空気の中に長く残った。紙が燃える臭いというものは、人の家が燃える臭いよりも薄いくせに、妙に心へこびりつく。家が燃えれば人は泣く。だが帳面が燃えても、人はあまり泣かない。そのくせ燃えたあとで、もっと多くの人間が泣くことになる。

 伊織は、抱え出した帳面を前にして、しばらく黙っていた。

 主馬の配下が広げた畳の上に、半ば焦げた帳面が四冊、印形箱が一つ、紐でくくった紙束が三つ並んでいる。濡れた袖から滴る水が紙へ落ちぬよう、伊織は膝の上に手を置いて見つめていた。

 土井主計は別室へ移され、老中方の監視のもとで押さえられている。逃げることはもうできぬ。だが、だから終わったわけではない。土井自身が言った通り、腹は一つではない。土井を縛っても、その腹から伸びた腸のような流れはまだどこかで動いている。

 佐々木主馬は、煤で汚れた袖を払いつつ言った。

「救えたのは上出来だ。全部を欲張れば、全部灰だった」

 伊織はうなずかなかった。上出来かどうかは、まだ分からぬ。寺は燃えかけた。藩主は倒れた。新兵衛は傷を負った。母も志乃も、お澪も怯えている。上出来などという言葉は、まだ早い。

「開く」

 伊織が言うと、主馬は少しだけ眉を動かした。

「今すぐか」

「今すぐです。夜明けを待てば、別の誰かが別の火を起こす」

 主馬は、ふっと息を吐いた。

「……よかろう」

 灯を二つ近づけ、焦げた帳面を広げる。紙の端は黒く丸まり、指先で触れれば崩れそうであった。だが中ほどは生きている。数字は黒々と残り、印は半ば欠けながらも読める。伊織はそれを一行ずつ追った。新兵衛が命を賭けて掴んだ志摩屋の裏帳、土井の机から奪った出納帳、そして勘定所の印形――それらが少しずつ、一つの図柄を描いていく。

 最初に見えたのは、金の流れだった。

 志摩屋から勘定所へ。勘定所から「御用口」とだけ記された先へ。そこから再び松代藩へ“救済金”として流れ、さらに一部が藩邸の内膳名義へ落とされている。これはすでに知っていた流れだ。だがその横に、見慣れぬ記号が並んでいた。

 丸に斜め線。

 三つ巴。

 そして――梅鉢。

 伊織の指が止まった。

「梅鉢……」

 主馬が顔を寄せる。

「知っている印か」

「……天満宮ではありません」

 伊織は低く言った。

「これは、加賀守家に出入りする御用商の符牒に似ています」

 主馬の目が細くなる。

「似ている、だと」

「昔、父が国許で年貢米の中継を調べた折、別家の御用商の荷印を見たことがあります。完全には同じではない。だが近い」

 主馬は黙った。黙るということは、考えているということだ。そして考えるに値するということだ。

 土井主計一人の腹ではない。

 土井の背後に、別の家筋、別の御用商、別の権力がある。

 内膳はその一口。志摩屋もその一口。土井もまた、ただの一口。

 主馬が静かに言った。

「面倒が、また一段深くなったな」

「終わっていないということです」

 伊織は答えた。

 さらにページをめくる。そこには“人”の勘定があった。金ではない。名だ。名の横に、出入りした日付、札の印、通した場所。志摩屋の裏口。勘定所裏。日本橋の蔵。そして――松代藩江戸屋敷の裏木戸。

 主馬が低く唸った。

「藩邸の裏木戸まで帳面に載せていたか」

「載せなければ、誰がどれだけ使ったか分からなくなる」

 伊織は答えながら、寒気を覚えた。帳面というものは、結局、人の欲が自分を裏切らぬように残す手綱なのだ。だから悪事ほど、案外きちんと記される。

 その中に、ひとつだけ妙な記載があった。

 “辰の刻 白首 一人”

 金額はない。印だけが三つ巴と丸斜線。

「白首……?」

 主馬が問う。

「人の符牒だと思います」

 伊織は言った。

「白髪の者。あるいは白頭巾。……日時が、藩主急病の前夜です」

 主馬の顔から血の気が引いた。

「藩邸へ入った者がいる」

「毒を運んだ者か、医師に口を利いた者か」

「あるいは、その両方だな」

 主馬は低く言い、すぐに配下へ命じた。

「土井主計をもう一度立たせろ。――“白首”を聞く」

 配下が走る。

 その背を見送りながら、伊織は胸の中で別の不安が膨らむのを感じていた。帳面の中身は見えてきた。だが帳面の外にいる者――寺に残った母と志乃、お澪、老僧、新兵衛。内膳は逃げた。内膳は、逃げたまま火をつける男だ。土井が縛られたいま、内膳が最後の悪あがきをする可能性はむしろ高い。

「主馬殿」

 伊織が言った。

「私は一度、寺へ戻りたい」

「戻ればここが空く」

「戻らねば、寺が空きます」

 主馬は伊織を見た。その目は、値踏みではない。どちらの犠牲を選ぶかという目だ。やがて主馬は小さく首を振った。

「駄目だ。土井が今口を割るとすれば、お前の顔を見た時だ。お前は奴の計算を狂わせた。だから奴は、お前に一番腹を立てている」

 伊織は唇を噛んだ。分かっている。だが心は理を嫌う。

 そのとき、襖の向こうで足音が止まり、主馬の配下が顔を出した。

「土井主計が……」

「話したか」

「いえ、最初は黙しておりましたが――“白首”の記載を示したところ、ひどく顔色を変えまして」

 主馬と伊織が同時に立ち上がる。

 別室に入ると、土井主計は縄をかけられたまま座っていた。顔は煤で汚れ、髪も乱れている。昨夜までの、帳面の上で人を斬る役人の顔ではない。だが、それでも目だけはまだ死んでいなかった。

 主馬が帳面を目の前に置いた。

「白首とは誰だ」

 土井は黙る。

「藩邸の急病の前夜に、裏木戸から入った者は誰だ」

 土井の目が、わずかに伊織へ向く。

「……榊原伊織」

 土井が言った。

「お前は、どこまで掘るつもりだ」

「腹が尽きるまでだ」

 伊織は答えた。

 土井は、かすかに笑った。だがその笑いに余裕はない。

「白首は……医師ではない」

「知っている」

 主馬が冷たく言う。

「では誰だ」

 土井はしばらく黙っていたが、やがて絞るように言った。

「……将軍家の薬を扱う外様筋の御用人だ」

 主馬の目が凍る。

「名は」

「名は……与吉郎」

「姓は」

 土井は、そこで口を閉じた。閉じたというより、噛んだ。奥歯の裏に仕込んでいた毒が、ようやく役目を果たしたのだ。

「しまっ――」

 主馬が叫ぶ。

 だが遅かった。土井の喉がひゅうと鳴り、顔が紫に変わっていく。役人が口をこじ開けるが、すでに遅い。毒は飲み込まれていた。

 伊織は、息を止めて土井を見た。

 これで腹の一つは死ぬ。

 だが死ぬ前に、また少し先を指した。

 “将軍家の薬を扱う外様筋の御用人”

 “与吉郎”

 主馬が低く吐き捨てた。

「舌を切らぬようにと言ったのに、歯の裏に仕込んでいたか……」

 土井は、最後に伊織の方を見て、かすかに笑った。

「……腹は……一つでは……ない……」

 それだけ言って、ぐったりと項垂れた。

 部屋が静まり返る。

 主馬は目を閉じ、数息だけ黙っていたが、すぐに目を開いた。その目にはもう迷いがない。

「土井主計は、これで“死人の口”になった」

 主馬は言った。

「だが死人の口は、時に生きた口より重い。……榊原、お前はここから先、名だけでは戦えぬ。系図と薬と人の出入りだ。将軍家の薬筋に繋がるなら、老中も容易には手を出せぬ」

「なら、どうする」

「動くしかない」

 主馬はすぐに言った。

「与吉郎を押さえる。生きていればな。――そして内膳だ。奴は与吉郎に繋がるか、あるいは寺へ向かう」

 伊織の胸が跳ねた。

「寺へ……」

「土井が死んだ。主膳はすでに表に出られぬ。志摩屋も焦る。となれば内膳は、自分の背中を消すために、お前の背後を斬る」

 寺。

 母。志乃。お澪。老僧。新兵衛。

 伊織は、その場で踵を返しかけた。

 だが主馬が肩を掴んだ。

「待て。闇雲に走るな。お前一人で寺へ戻れば、そこでまた火だ。……策がいる」

 伊織は歯を食いしばる。

「どんな」

 主馬は帳面を見た。

「内膳は、もう藩のためには動かぬ。自分の逃げ道のために動く。逃げ道は二つ。寺を潰すか、与吉郎と合流するか」

「どちらを先に取る」

「両方だ」

 主馬は即答した。

「私は与吉郎を押さえに手を回す。お前は寺へ戻れ。ただし、戻る前に寄る場所がある」

「どこだ」

「志摩屋だ」

 伊織は眉をひそめた。

「また志摩屋へ?」

「志摩屋は腹の口だ。口が残っている限り、火も毒も回る。口を塞げ。帳面だけでは足りぬ。人も札も要る」

 主馬の理は分かった。分かるが、胸は寺へ向かっている。

 主馬はさらに言った。

「志摩屋の蔵番を押さえろ。あの男は金で動く。金で動く者は、死にたくなければ喋る。喋らせれば、内膳の逃げ道が見える」

 伊織は、ようやく頷いた。

 そのとき、部屋の外でまた足音がした。今度は主馬の配下ではない。鳶の若い衆が、血相を変えて駆け込んできた。

「伊織さん!」

 息を切らしながら、若い衆は叫んだ。

「寺に……寺に、文が投げ込まれた!」

 伊織の背筋が凍る。

「誰からだ」

 若い衆は、懐から折り畳まれた紙を出した。紙には、赤い汚れがついている。血か、印肉か分からぬ。だが胸騒ぎがする。

 伊織が開くと、短く一行だけ書かれていた。

 ――志摩屋の口を塞ぎたくば、夜明け前に深川の舟宿「千鳥屋」跡へ来い。来なければ、寺の次は墓になる。

 署名はない。

 だが、筆の癖に見覚えがあった。

 内膳の筆だ。

 伊織は、紙を握りしめた。

 志摩屋。

 寺。

 与吉郎。

 内膳。

 すべてが、夜明け前に一点へ集まり始めている。

 波瀾万丈の嵐は、いよいよ“最後の口”を閉じる場所へ向かっていた。

(第二十六章につづく)

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