山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第二十三章

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――第二十三章 土井の腹、内膳の背――

 老中方の使者が藩邸の庭へ足を踏み入れたとき、空気の温度が変わった。

 刀を抜いた者の熱が、急に冷える。

 冷えるのは恐れだ。

 恐れは刀を鈍らせ、言葉を鋭くする。

 佐々木主馬は庭石を踏み、血の飛沫を避けるように足を運んだ。避けるというより、血を“仕事”の一部として扱う歩き方だった。権力の近くにいる者は、血を驚かない。驚くのは、血が“公になる”ときだけだ。

「神谷内膳」

 主馬の声は低く、しかし通る。

「この場をおさめよ。藩主急病の件、ならびに勘定所御用金の流れについて、内々に取り調べる」

 内膳は裃の袖を整え、薄く笑った。さっきまで庭で「謀反人だ」と叫んでいた男の笑みとは思えぬほど穏やかだった。仮面を掛け直したのだ。仮面は、血の匂いより速い。

「主馬殿。取り調べとは大げさですな」

 内膳は静かに言った。

「藩主様が急に倒れられ、家中が騒いだ。そこへ浪人が侵入し、戸沢殿がそれに加担した。私は藩を守るために――」

「藩を守るために、庭で血を流したか」

 主馬は遮った。

 言葉は短い。短い言葉ほど、逃げ道を塞ぐ。

 内膳は笑みを消さず、視線を半十郎へ移した。

「戸沢殿が刀を振るったのも、藩を守るためでしょう」

 半十郎は刀を下ろしていない。だが構えは低く、いつでも止められる構えだ。剣の師は、斬るより止めることができる。

「藩を守るために、藩主を倒すのか」

 半十郎が言った。

 庭の武士がざわめいた。藩主を倒す――その言葉は火より強い。火は消せるが、噂は消えぬ。

 内膳は眉一つ動かさず言った。

「証があるなら出せ」

 伊織はここで一歩前へ出た。

 刀は抜いたまま、だが刃は向けぬ。刃を向ければ“謀反”になる。向けずに“言葉”で刺す。

「ある」

 伊織は懐から志摩屋の帳面の切れを取り出し、主馬の前へ差し出した。焦げた紙片ではない。墨の匂いが残る生の紙だ。数字が並び、印が押され、日付が書かれている。

「志摩屋の裏帳。御用金の流れ。受け取りは神谷内膳」

 主馬は紙を受け取り、目を細めた。読むのは速い。役人の目は数字に強い。数字は嘘をつきにくい。ついても痕が残る。

 内膳は、その紙を見た瞬間だけ、口角がほんの僅かに引きつった。引きつったのは怒りではない。計算の崩れだ。

「その帳面は偽物だ」

 内膳は即座に言った。

「志摩屋の裏帳など、誰でも書ける。浪人が金で買ったものだろう」

 新兵衛が庭の端で鼻を鳴らした。

 いつの間に藩邸へ――と思う間もなく、その声が響く。

「買えるなら買ってみろ。志摩屋の裏帳は“買う”じゃなく“命で盗る”んだよ」

 主馬の目が新兵衛へ向く。

「久世新兵衛……生きていたか」

「しぶといのが取り柄でね」

 新兵衛は肩をすくめたが、目は笑っていない。寺の火影をくぐり、伊織の背を追ってここまで来た男だ。しぶとさは、覚悟の裏返しだ。

 主馬は内膳へ戻り、紙を軽く振った。

「偽物かどうかは調べる。だがこれだけではないはずだ。戸沢殿が持つ文、そして榊原伊織が持つ勘定所の帳面写し――」

 内膳が一歩踏み出した。

「主馬殿。ここで“勘定所”の名を大きくするのは得策ではありません」

 主馬は冷たく言った。

「得策を選ぶのは老中だ。私は取次だ」

 内膳の笑みが、わずかに薄くなる。

「では――取り調べは内々に。庭で騒ぐのは、藩の面目にも関わる」

「面目より命だ」

 半十郎が言った。

「藩主様はどこだ」

 内膳は肩をすくめる。

「奥です。医師がついている」

「医師は誰だ」

 内膳の目が一瞬だけ動いた。

 伊織はその動きを見逃さなかった。医師の名を言いたくない。言えば繋がる。繋がれば毒が露わになる。

「藩医の佐久間だ」

 内膳は淡々と言った。

「いつもの者だ」

 半十郎は頷かず、主馬へ視線を投げた。主馬はすぐ理解したように、連れてきた役人に命じた。

「藩主の御座所へ。医師を確認し、薬を押さえよ。――舌を切られぬように、口を塞げ」

 役人が走る。内膳の目が細くなる。内々の取り調べが、内膳の手から離れ始めた。

 内膳は、ここで引く男ではない。引けない男だ。引けば土井の腹が裂ける。裂ければ自分の背が裂ける。

 内膳はゆっくりと言った。

「主馬殿。あなたは旗本だ。幕府の御為が第一だろう。ならば分かるはずだ。ここで土井主計殿の名を大きくすれば――」

「土井主計が動く」

 主馬が淡々と続けた。

「帳面を焼く。人を消す。火をつける」

 主馬の言葉は、まるで土井の手口を見てきた者の言葉だった。伊織は胸の奥が冷える。主馬もまた、土井の腹の匂いを知っている。知っているからこそ、今動く。

「だから――」

 主馬は言った。

「先に土井主計を押さえる」

 庭が静まり返った。

 内膳の眉が、初めて大きく動いた。

「押さえる、だと?」

「老中方は“改め”を恐れぬ」

 主馬は淡々と言った。

「恐れるのは、改めの前に帳面が燃えることだけだ」

 主馬は伊織を見た。

「榊原。勘定所の帳面写しと、焦げた切れ端はあるな」

「ある」

「出せ。内々に預かる」

 伊織の喉が鳴った。預ければ握られる。握られれば消される。だが主馬に預けねば、老中が動けぬ。動けなければ土井に勝てぬ。

 半十郎が低く言った。

「伊織。出せ。ここまで来た」

 伊織は、決めた。

 寺を守るために、藩を正すために、母と志乃とお澪を生かすために。

 伊織は懐から、帳面写しと焦げた紙片を取り出し、主馬の前へ置いた。

 主馬はそれを受け取り、すぐ袖の中へ入れた。袖の中に入れたものは、もう“公”に近づく。ここで奪えば謀反。内膳も奪えない。

 内膳の顔に、一瞬だけ焦りが走った。

 その焦りを消すように、内膳は穏やかに言った。

「主馬殿。よろしい。では内々に取り調べる。――ただし、藩邸の秩序は私が預かる。謀反人を放置するわけにはいかぬ」

 内膳の視線が伊織へ刺さる。

「榊原伊織は、この場で拘束する」

 それが内膳の最後の抵抗だった。帳面が取られるなら、帳面の持ち手を消す。持ち手を消せば、帳面の意味が薄くなる。証言者がいない証は弱い。だから伊織を消す。

 庭の武士がまた動いた。

 半十郎が一歩前へ出た。

「榊原は、私の預かりだ」

 内膳が笑った。

「戸沢殿。あなたはもう預かる立場ではない」

 主馬が低く言った。

「内膳殿。榊原は老中方へ同行させる。彼は証言者だ」

 内膳の目が細くなる。

「証言者?」

「そうだ」

 主馬は言った。

「そしてあなたも同行してもらう」

 内膳の顔から、笑みが消えた。

「……私を?」

「内々にだ」

 主馬の声は氷のように冷たい。

「逃げるな。逃げれば“公”になる」

 内膳は数息、動かなかった。動かないのは迷いではない。決めているのだ。逃げるか、ここで斬るか。斬れば公になる。逃げれば公になる。どちらも公になるなら、より自分が生き残る道を選ぶ。

 内膳は、ふっと笑った。

「主馬殿。あなたは賢い。だから――」

 内膳が袖を払った瞬間、庭の隅から何かが投げ込まれた。

 白い煙。

 目潰しの粉ではない。硫黄の匂い。火薬の匂い。

 狐火の“煙玉”だ。

「離れろ!」

 新兵衛が叫んだ。

 庭が一瞬で白くなる。視界が消える。咳が出る。鼻が焼ける。武士たちが咳き込み、槍が乱れる。

 内膳が逃げる。

 伊織は煙の中で足音を追った。逃がせば寺が燃える。逃がせば藩主が死ぬ。逃がせば土井が笑う。

 だがここで追えば、主馬が危うい。主馬が倒れれば、老中への道が折れる。折れれば帳面が死ぬ。

(追うな――だが逃がすな)

 伊織は、二つを同時にやらねばならぬ。

 伊織は懐に手を入れ、短い縄を取り出し、煙の中へ投げた。縄は内膳を縛る縄ではない。庭の武士の足を絡め、内膳の逃げ道を一瞬塞ぐ縄だ。縄は人を縛る。だが縛る相手を選べば、味方にもなる。

 内膳の足音が乱れた。

 その瞬間、新兵衛が煙の中から飛び出し、内膳の肩へ体当たりした。

「逃げんなよ、家老!」

 内膳が倒れる。だが内膳は素手ではない。袖の中から短刀が滑り出る。新兵衛の脇腹へ突き立てられる。

「ぐっ……!」

 新兵衛が呻く。血が滲む。伊織の目が赤くなる。

「新兵衛!」

 伊織が飛び込む。内膳は新兵衛を蹴り飛ばし、立ち上がって走る。煙の中、庭の裏口へ。そこには待っている影がある。狐火だ。内膳は狐火に守られて逃げるつもりだ。

 主馬の声が煙の向こうで響く。

「追うな! 榊原! 内膳は逃げても、土井は逃げぬ!」

 伊織は歯を食いしばった。

 理は分かる。

 だが感情が止まらぬ。寺を燃やした男を逃がしたくない。

 半十郎が伊織の腕を掴んだ。剣の師の手は強い。強いが震えている。怒りと堪えの震えだ。

「伊織。ここは耐えろ」

「……新兵衛が」

「生きている。生きていれば取り返せる。死ねば終わる。――お前が死ねば、もっと終わる」

 半十郎の言葉が、伊織の足を止めた。足を止めた瞬間、煙の向こうで内膳の足音が消えた。逃げた。狐火の闇へ溶けた。

 白い煙が薄れるころ、庭は荒れていた。倒れた武士。折れた槍。血。

 そして、新兵衛が土の上に膝をついていた。脇腹を押さえ、歯を食いしばっている。

「……へへ、まだ生きてる」

 新兵衛が笑う。笑いが苦い。

 伊織が駆け寄り、布を裂いて傷を押さえた。

「喋るな」

「喋らねぇと……死ぬ気がする」

「死ぬな」

「死なねぇよ。……伊織、お前――」

 新兵衛は息を吐き、主馬の方を見た。

「土井の腹を裂け。内膳は逃げた。だが逃げた背中は、土井の腹に繋がってる。背中を追うんじゃねぇ。腹を裂け」

 伊織は頷いた。涙が出そうになるのを堪え、頷く。

 主馬が近づき、低く言った。

「内膳は逃がした。だが帳面は押さえた。藩主の薬も押さえさせた。――次は土井主計だ」

 半十郎が言った。

「藩主様は」

 主馬が首を振った。

「生きておられる。だが危うい。医師は震えていた。薬に不審がある。……内膳は、もう戻れぬ」

 伊織は歯を食いしばった。戻れぬなら、追い詰めるしかない。追い詰めた先で、内膳は必ず火を起こす。寺へも、志摩屋へも。先に土井の腹を裂けば、火口は折れる。

「榊原」

 主馬が伊織を見た。

「今から、勘定所と土井の隠し蔵へ“改め”が入る。老中方の名でだ。――お前は同行する。証言者として」

 伊織は頷く。

 そして新兵衛を見る。

「お前は寺へ戻れ」

「戻れるかよ……」

「戻れ。お前が戻らねぇと、寺が燃える」

 新兵衛が苦く笑い、頷いた。

「分かったよ。……坊主に怒鳴られるのは嫌だがな」

 半十郎が言った。

「私が付き添おう。藩主の件もある。――伊織は主馬殿と行け」

 役割が割れた。

 盤の上の駒が、ようやく目的を同じくして動き始めた。

 伊織は立ち上がり、血と煙の匂いの残る庭を見渡した。

 内膳は逃げた。

 だが逃げた背中は、土井の腹へ続く。

 次の戦場は、勘定所。

 帳面の刃の本丸。

 波瀾万丈の嵐は、いよいよ“腹”そのものを裂きにいく。

(第二十四章につづく)

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