山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第二十二章

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――第二十二章 崩れゆく藩邸――

 松代藩江戸屋敷は、夜にもかかわらず灯が多かった。

 表門の前には番士が二重に立ち、いつもより槍の数が多い。槍は威嚇ではない。恐れの数だ。恐れているから、槍を増やす。

 伊織は路地の陰から屋敷を見上げた。

 藩主急病――。

 急病は、静かな毒だ。

 内膳が動いたなら、毒は帳面より速い。

 正面から入れば斬られる。裏から入れば捕まる。だが入らねば半十郎は助けられぬ。主馬の“端緒”も宙に浮く。

 伊織は屋敷の裏手へ回った。若いころ、半十郎の使いで何度も出入りした勝手口がある。塀の外に古い松が一本立ち、その枝が屋敷の屋根にかかる。あの枝を伝えば、屋根伝いに中庭へ入れる。

 松はまだあった。

 伊織は枝に飛びつき、身を引き上げた。松葉が音を立てぬよう、ゆっくり体重を移す。屋根瓦に降り立つと、庭の様子が見えた。

 庭には数人の武士が立っている。紋付は松代藩のものだが、腰の位置が低い。内膳の側近だ。彼らの視線は奥の座敷へ向いている。

 座敷の障子が開いていた。

 中に、戸沢半十郎が座している。

 縄はかけられていない。だが周囲を四人に囲まれている。半十郎の背は真っ直ぐで、乱れがない。剣を持たずとも、剣の姿だ。

 正面に、神谷内膳がいた。

「戸沢殿」

 内膳の声は穏やかだ。

「藩主様が急に倒れられた。医師は“持病の悪化”と申している」

 半十郎は静かに答えた。

「持病は、急に悪くならぬ」

「急に悪くなることもある」

「毒でもなければな」

 庭の空気が凍った。

 内膳の目がわずかに光る。

「証は」

「証は、あなたが焼いた」

 半十郎の声は変わらぬ。

 内膳は小さく笑った。

「焼け残りがあると言うのか」

「ある」

 その一言に、内膳の視線が一瞬だけ揺れた。

 伊織は屋根の上で息を殺した。半十郎は時間を稼いでいる。老中の耳が動くまで、藩邸の中で持ちこたえようとしている。

 だが内膳は、ここを“表”で固めている。

「戸沢殿」

 内膳は低く言った。

「あなたが老中へ繋いだ端緒は、すでに握っている」

 半十郎の眉がわずかに動く。

「佐々木主馬殿か」

「主馬殿は賢い。賢いが、命が惜しい」

 内膳の言葉は刃だ。主馬に手が伸びたのか。あるいは脅しだけか。だがこの場で主馬の名を出すということは、内膳は主馬の動きを読んでいる。

「端緒は端緒に過ぎぬ」

 内膳が続けた。

「決め手がなければ、老中は動かぬ。決め手はどこにある」

 半十郎は答えない。

「榊原伊織か」

 内膳が名を出した瞬間、伊織の拳が震えた。

「伊織が持つ帳面の切れ端で、老中を動かせると思うか。切れ端では藩は救えぬ」

 内膳は立ち上がった。

「だが、藩主の“急病”が広まれば、藩は揺れる。揺れた藩は老中の介入を受ける。――私はそれを望まぬ。藩を守るために、毒も使う」

 半十郎の目が鋭くなる。

「守るために殺すか」

「殺していない。急病だ」

 内膳の声が冷える。

「戸沢殿。あなたは藩主の身を案じるか。それとも榊原伊織の帳面を案じるか」

 選ばせる。

 また選ばせる。

 半十郎は、ゆっくりと息を吐いた。

「藩主の命を案じる」

「ならば」

 内膳が身を乗り出す。

「この件から手を引け。老中への端緒も、榊原への加担も、ここで終わらせろ」

 半十郎は目を閉じ、そして開いた。

「断る」

 短い一言だった。

 庭の武士が一斉に動いた。

 伊織の体が先に動いた。屋根から飛び降り、庭石を蹴って座敷へ走る。

「伊織!」

 半十郎の声が響く。

 内膳が振り向いた。驚きではない。予期していた顔だ。

「来たか」

 伊織は座敷に踏み込み、半十郎の前に立った。

「半十郎殿」

「なぜ来た」

「寺が燃えた」

 半十郎の目が揺れた。

「守れたか」

「守った」

「なら、ここへ来るな」

 半十郎は低く言った。

「ここは盤の上だ。お前は盤の外で動け」

「盤の外は、もうない」

 伊織は言った。

 内膳が静かに拍手した。

「美しい。師弟の情だ」

 その声に嘲りが混じる。

「だが情は藩を救わぬ」

 内膳が手を上げた。

 庭の武士が刀を抜く。

 ここは城下ではない。藩邸の中だ。刀は抜ける。抜かれれば、血が出る。血が出れば、内膳は“謀反人を討った”と叫ぶ。

 伊織は抜かない。抜けば負けだ。

「内膳」

 伊織は低く言った。

「藩主に毒を盛ったな」

 内膳の目が細くなる。

「証は」

「証は、これだ」

 伊織は懐から小さな包みを取り出した。焦げた紙片ではない。別のもの。

 それは――志摩屋の帳面の一部だった。

 志摩屋の蔵から、新兵衛が命がけで奪ってきた帳面の写し。そこには“御用金”の流れが記されている。松代藩江戸屋敷へ、内膳の名で金が渡り、その翌日に藩主が急病に倒れた日付が並んでいる。

 内膳の顔が初めて歪んだ。

「……どこで」

「志摩屋は、燃えなかった」

 伊織は言った。

 実際には、志摩屋はまだ燃えていない。だが内膳にとっては、燃えたのと同じだ。帳面が出た時点で、腹は裂ける。

「これは、老中へ渡る」

 伊織は続けた。

「端緒ではない。決め手だ」

 庭の武士がざわめく。彼らは事情を知らぬ。だが“老中”と“決め手”の言葉は重い。

 内膳が笑った。だがその笑いは、前のように滑らかではない。

「榊原。帳面一冊で藩が動くと思うか」

「藩ではない」

 伊織は言った。

「幕府が動く」

 内膳の目が鋭く光る。

「幕府が動けば、松代藩は取り潰しだ。藩主も家臣も路頭に迷う。……それでも渡すか」

 半十郎が、伊織の背後で低く言った。

「渡せ」

 伊織は振り向かない。

「半十郎殿」

「藩は、腐ったままでは守れぬ」

 半十郎の声は静かだが、揺るぎがない。

「藩主を救うには、膿を出すしかない」

 内膳の顔が、完全に変わった。穏やかな仮面が剥がれ、冷たい芯が露わになる。

「ならば、二人ともここで死ね」

 内膳が叫ぶ。

 武士が一斉に踏み込む。

 伊織は、ついに刀を抜いた。

 鋼が鳴る。

 半十郎も立ち上がる。手には何も持たぬ。だが近くの武士の刀を奪い、流れるように構えた。

「伊織、下がれ」

「下がりません」

 刃が交わる。座敷の畳が裂ける。庭石に血が散る。藩邸の中で、ついに血が出た。

 内膳は後ろへ退き、庭へ出た。

「謀反人だ! 戸沢と榊原を討て!」

 声が庭を震わせる。

 だがその瞬間、表門の方から別の声が響いた。

「老中方の使者!」

 庭の武士たちが一瞬動きを止める。

 内膳の顔が凍る。

 門が開き、佐々木主馬が入ってきた。後ろに老中方の役人がいる。

「神谷内膳」

 主馬の声は冷たい。

「藩主急病の件、ならびに勘定所御用金の流れについて、内々に取り調べる」

 庭の空気が裂けた。

 内膳は一瞬だけ天を仰ぎ、そして笑った。

「間に合ったか……」

 だがその目は、まだ折れていない。

 伊織は刀を下ろさない。

 波瀾万丈の嵐は、藩邸の庭で渦を巻いたままだ。

 内膳は追い詰められたが、まだ倒れていない。

 土井の影も、狐火の火も、志摩屋の腹も、すべてが絡んでいる。

 血の匂いと帳面の匂いが、同時に漂う。

 決着は、まだ先にある。

(第二十三章につづく)

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