山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十九章

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――第十九章 老中登城の影――

 老中の名を口にした瞬間、江戸の空気が一段冷えた気がした。

 幕府の中心へ刃を向ける――それは剣を抜くことではない。剣を抜けば斬られる。抜かずに刺す。帳面で刺す。名で縛る。だが老中の前で帳面を繋ぐには、ただの浪人と元鳶の男では足りぬ。門前払いで終わる。終わらせぬための“道”が要る。

 伊織は、新兵衛を支えながら夜道を急いだ。勘定所の裏で受けた打ち身が新兵衛の足を鈍らせる。だが新兵衛は弱音を吐かない。吐けば死ぬと知っているからだ。

「寺へ戻る前に、一つ寄る」

 伊織が言うと、新兵衛が眉を上げた。

「どこだ。今夜は寺に戻れ。お袋さんも志乃も、お澪も――」

「だからこそ寄る。守りを固める」

「守り?」

「老中へ繋ぐ“口”がいる」

 伊織の頭に浮かんだのは、老僧ではない。僧は名を持たぬ。名がない者は、権力の前で軽い。名を持つ口――それは、藩の誰かだ。

 神谷内膳ではない。内膳は敵だ。

 藩邸の中で、内膳に刃を向けられた者――内膳の策に疑いを抱く者。

 伊織は、一つの名を思い出した。

 戸沢半十郎。

 松代藩の剣術師範。伊織が若き日に世話になり、父代わりに敬ってきた男だ。政治の渦から距離を取り、剣だけを守るように生きている。だが内膳が藩邸でその名を口にしたとき、伊織は悟った。半十郎もすでに盤の上だ。盤の上なら、こちらの駒にもなり得る。

 伊織は新兵衛を連れ、深川の外れ――武家屋敷の裏にある小さな稽古場へ向かった。夜更けでも灯が一つ消えずにいる。剣の道は夜でも息をする。

 戸を叩くと、中から若い門弟が出た。

「どなた――」

「榊原伊織だ。半十郎殿に会いたい」

 門弟の顔が引きつった。

「……伊織様」

 伊織の名は、藩邸を荒らした浪人としても広まっている。門弟は迷いながらも、伊織の目を見て道を空けた。目が嘘を許さぬ目だった。

 稽古場の奥、障子が開き、戸沢半十郎が現れた。

 背は高くない。だが姿勢が真っ直ぐで、目が澄んでいる。白髪が増えたが、老いは感じさせぬ。剣の道に生きる者の目――余計なものを見ぬ目だ。

「伊織」

 半十郎の声は静かだった。

「生きていたか」

「生きています」

「……生き方は、変わったな」

 半十郎の目が、新兵衛の血や伊織の赤い目を見ている。志摩屋の粉の傷だ。剣の師は、刃の傷より目の傷に敏い。

「半十郎殿」

 伊織は頭を下げ、懐から焦げた紙片を取り出し、畳の上に置いた。

「幕府勘定所、土井主計の不正の証です」

 半十郎の眉がわずかに動いた。

「……何を言っている」

 伊織は言葉を端折らず、しかし余計な飾りは抜いて話した。富岡主膳、志摩屋、狐火、内膳、土井主計。帳面の写し、燃えかけの切れ端。母と志乃が人質にされたこと。お澪が矢傷を負ったこと。弥吉が倒れたこと。新兵衛が捕まったこと。すべてが一本の縄になっていること。

 半十郎は黙って聞いた。剣の師の沈黙は、軽い否定ではない。受け止める沈黙だ。受け止めた上で、斬るべきものを選ぶ沈黙。

 話が終わると、半十郎は焦げた紙片を手に取った。紙片の端に残る朱印の欠け。数字の欠け。符牒の欠け。欠けたものほど、剣のように鋭い。

「……内膳が、そこまで腐ったか」

 半十郎が呟いた。内膳の名に、痛みが混じる。半十郎にとって内膳は同じ藩の男だ。藩の腐りは、身内の腐りだ。身内の腐りは、外敵より痛い。

「伊織」

 半十郎が顔を上げた。

「お前は何を望む」

「老中へ繋げたい」

 新兵衛が横で咳き込み、鼻で笑った。

「笑うな」

 伊織が低く言うと、新兵衛は肩をすくめた。

「いや、笑うしかねぇだろ。老中だぞ。俺らが会えるわけねぇ」

 半十郎は新兵衛を一瞥し、伊織へ視線を戻した。

「老中へ繋ぐ口が必要だな」

「はい」

「……ある」

 伊織の胸が鳴った。

 半十郎は立ち上がり、壁の掛け軸の奥から小さな箱を取り出した。古い印章と、折り畳まれた文が入っている。

「これは、国許から私宛に届いたものだ。表向きは剣術指南役への通達だが、実は藩主側近の者が、内膳の動きを疑い、私に“逃げ道”を残した文だ」

 半十郎は低い声で言った。

「老中付の取次役――旗本の一人へ繋がる名がある。……ただし、易々とは動かぬ。動かぬ者を動かすには、剣ではなく、帳面だ」

 伊織は焦げた紙片を指で押さえた。

「これで動く」

「動くかもしれぬ。だが――」

 半十郎は伊織の目を見た。

「この道を踏めば、お前は戻れぬ。藩へも、家へも、剣の道へも」

「戻る場所は、すでに消えています」

 半十郎は小さく息を吐き、頷いた。

「……では、私も腹を決めよう」

 新兵衛が目を丸くした。

「おい師範、あんたまで巻き込む気か」

「巻き込まれぬ者などおらぬ」

 半十郎は淡々と言った。

「剣は、盤の外で振るものではない。盤の上で振るものだ」

 その言葉に、伊織は胸の奥が熱くなるのを感じた。剣の道は政治の道ではない。だが政治が剣を汚すなら、剣は政治に手を入れるしかない。半十郎はそれを悟ったのだ。


 翌朝――江戸城の登城の刻は早い。

 伊織は寺へ戻り、母と志乃とお澪の無事を確かめた。老僧は短く頷き、半十郎が来たことを聞いて目を細めた。

「剣の師が盤に乗ったか」

「乗せた」

「お前は、人を巻き込む」

「巻き込まねば、巻き込まれて終わる」

 老僧はため息をつき、母の方へ目をやった。母は黙って伊織を見ている。責めていない。だが不安は隠せぬ。不安を隠すなと言わんばかりに、母はそのままの顔でいる。

「伊織」

 母が言った。

「お前、死ぬなよ」

 伊織は短く頷いた。約束は軽々しくできない。だが頷かねば、母の足が折れる。

 志乃が小さく言った。

「兄さま……土井って人が、全部……?」

「全部ではない」

 伊織は言った。

「だが中心だ」

 お澪が寝床から、かすれ声で言った。

「……中心を刺せば……周りは……」

「崩れる」

 伊織は答えた。

「崩す」

 伊織は懐の焦げた紙片と帳面写しを確かめ、半十郎と合流した。半十郎は紋付で、武士の顔をしている。伊織と新兵衛は、あくまで半十郎の“手の者”として影に徹する。表に出るのは半十郎だ。名のある口が、名のある門を叩く。

 江戸城下の道は、登城する武士で混み合っていた。馬の蹄の音、裃の擦れる音、緊張した息――権力へ近づくほど、人は声を小さくする。小さくするのは礼ではない。恐れだ。

 半十郎は、城外の控所の近くで立ち止まり、一人の旗本に近づいた。旗本は四十過ぎ、面長で、目が冷たい。取次役――名を佐々木主馬という。半十郎は文を差し出した。

「戸沢半十郎。松代藩剣術師範。内々の用で参った」

 主馬は文を一瞥し、半十郎を値踏みした。

「剣術師範が、内々の用?」

「藩の不正に関わる。勘定所の土井主計」

 主馬の眉が、ほんのわずかに動いた。土井の名は、ここでも刃だ。

「……証は」

 半十郎は迷いなく、伊織の焦げた紙片を取った。主馬は紙片を受け取り、目を細める。朱印の欠け、数字の欠け。欠けたものが、逆に“本物”の匂いを放つ。

「これだけでは足りぬ」

 主馬が低く言った。

「足りぬなら、足らせる」

 半十郎の声は静かだが、剣の芯がある。

「土井主計の隠し蔵の場所、出入りの印、志摩屋の裏口、富岡主膳の印形、そして勘定所の帳面写し。繋げれば足りる」

 主馬は目を細めた。

「繋げるには時間が要る。時間は命取りだ」

「命取りでも、命を守るために必要だ」

 半十郎は言った。

「この件を老中へ上げるなら、今この場しかない。土井は帳面を焼き始めている」

 主馬の顔色が少し変わった。焼き始めている――それは、証を消し始めているということだ。消し始めた者は焦っている。焦っている者は、上へ届く前に人を消す。

 主馬は短く言った。

「来い」

 半十郎が振り返り、伊織に目配せする。伊織と新兵衛は影のまま付く。城の内へは入れぬが、控所の奥の小部屋までなら付いていける。

 小部屋に入ると、主馬は障子を閉め、声を落とした。

「戸沢殿。……これは大事になる。上へ上げれば、松代藩も土井も、ただでは済まぬ。お前はそれを望むか」

 半十郎は迷いなく答えた。

「望む望まぬの前に、正す」

 主馬は半十郎を見つめ、やがて伊織へ視線を移した。

「そなたが榊原伊織か」

 伊織は黙って頭を下げた。名を言えば、今ここで縄が掛かる可能性もある。だが主馬の目は、すでに知っている目だった。

「……土井主計が動けば、内膳も動く。狐火も動く。志摩屋も動く。――そなたの寺は守れるか」

 伊織の胸が鳴った。寺の場所が知られている。ここまで来れば当然だ。主馬は警告しているのか、試しているのか。

 伊織は低く言った。

「守る」

 主馬は息を吐き、頷いた。

「ならばこちらも動く。――ただし、今日この場で老中へ上げられるのは“端緒”だけだ。決め手は要る。決め手がなければ、土井は逃げる。逃げれば、そなたらは消える」

 半十郎が言った。

「決め手は、土井の蔵の中にある」

 主馬の目が鋭くなる。

「蔵の中へ入れるのか」

 伊織が口を開いた。

「入る」

 主馬は短く笑った。笑いは乾いている。権力の近くで笑う者は、笑いに棘がある。

「よかろう。今夜、私は土井主計に“改め”を匂わせる。土井が焦れば、蔵の中身を動かす。動かせば尻尾が出る。――その尻尾を掴め」

 伊織は頷いた。

 だがその瞬間、主馬の部屋の外で足音が止まった。障子の向こうに、気配がある。聞き耳だ。聞き耳は、主馬の配下だけではない。土井の耳も、すでにここへ伸びている。

 主馬が低く言った。

「……遅かったか」

 半十郎の目が鋭くなる。

「誰だ」

 主馬が口を開く前に、障子がすっと開いた。

 立っていたのは――神谷内膳だった。

 裃姿で、登城の顔。だが目は夜の闇の目をしている。内膳は薄く笑った。

「戸沢殿。老中へ何を上げるおつもりで?」

 半十郎の背筋が硬くなる。伊織の拳が震える。城下で刀は抜けぬ。抜けば即座に斬られる。内膳はそれを知って笑っている。

 内膳は続けた。

「榊原伊織。……お前は、どこまで迷惑を広げる」

 主馬が静かに言った。

「内膳殿。これは内々の――」

「内々?」

 内膳は遮るように笑った。

「ならば内々に片づけましょう。戸沢殿も、主馬殿も――今ここで口を閉じれば、皆が助かる」

 伊織は悟った。

 土井の耳が、すでに老中登城の影に触れている。

 そして内膳は、ここで口を塞ぎに来た。

 波瀾万丈の嵐は、ついに江戸城下の“正面”で牙を剥いた。

(第二十章につづく)

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