上田秀人を模倣し、武士の文化を描いた完全オリナル時代小説『刀影 ―武士の世を斬る者―』第六十一章

第六十一章 二人の静山

 再起館へ向かう道すがら、新之介は一度も口を開かなかった。

 夕刻。

 江戸の空は赤く染まり、その下を黒い煙が細く流れている。

 西徳寺の火。

 日本橋の騒ぎ。

 江戸城から消えた将軍。

 そして――。

 鷹見静山。

 海に一人。

 再起館に一人。

「新之介」

 隣を歩く玄斎が呼んだ。

「何です」

「考えても、二人が一人にはならぬぞ」

「分かっています」

「では、その顔をやめろ」

「どんな顔です」

「二人を一人にしようとしておる顔だ」

 新之介は足を止めた。

「先生」

「何だ」

「海の男を、本物だと思っていますか」

「……分からぬ」

「再起館の男は」

「まだ見ておらぬ」

「では」

「見てから迷う」

「迷うのですか」

「悪いか」

「いいえ」

 新之介は、少しだけ笑った。

「ようやく先生らしくなりました」

「わしは昔からこうだ」

「十五年、無音寺へ行かなかったのに」

「それを申すな!」

 半九郎が後ろで笑う。

 脇腹の傷を庇いながら歩いている。

 千代――かつて御影を名乗り、鷹見千代の名を与えられていた男も、三本の縄を腰へ巻かれたままついてくる。

 四十七番。

 自らを本当の鷹見宗山と名乗った男も一緒だ。

 御影宗伯は西徳寺地下へ残した。

 坂崎修理――坂井修吉も。

 根帳の火が完全に収まった後、残った紙を複数の立会人で確かめるためである。

「将軍は、なぜ再起館へ」

 半九郎が言った。

「それが一番分かりません」

「連れ去られたのなら、もっと人目につかぬ場所へ行くはずです」

「だから連れ去られたとは限らない」

 千代が口を挟んだ。

「自分で行った可能性もある」

「家慶公が?」

「あの方が何を考えるか、知っている者は少ない」

「そなたは知っているのか」

 玄斎が睨む。

「声なら知っている」

「また声か」

「何度も録った」

 全員が千代を見る。

「どこで」

 新之介が問う。

「江戸城内」

「そなたが入ったのか」

「私ではない」

「では」

「御影の者がいた」

「誰だ」

「知らぬ」

「またそれですか」

「御影は名を残さない」

「その結果がこれです」

「分かっている」

 千代は低く答えた。

「だから、今は縄を受けている」

 新之介は彼をしばらく見た。

 以前なら、千代はその言葉すら利用したかもしれない。

 今も利用している可能性はある。

 だが。

 それを今ここで決める必要はない。

「再起館へ着いたら」

 新之介が言う。

「誰も先に静山殿と呼ばないでください」

 玄斎が止まる。

「何」

「名を先に与えれば、皆がその名で見る」

「わしに先生と呼ぶなと」

「はい」

「無理だ」

「先生」

「何だ」

「だから先生を先生と呼ぶのも、本当は」

「それ以上申せば斬るぞ」

「刀、持っていますか」

 玄斎が腰を見る。

「……ない」

「西徳寺へ置いてきましたね」

「杖がある!」

「膝人には必要でしょう」

「新之介!」

 半九郎が笑いを堪えきれず咳き込んだ。

「笑うと傷が」

「傷人は皆、同じことを申す」

 玄斎が先に言った。

「先生まで使わないでください」

「便利な言葉だな」

 ◇

 再起館の前は、異様なほど静かだった。

 人はいる。

 町方の同心。

 海防掛の者。

 近所の町人。

 辰蔵。

 志乃。

 清太郎。

 吉松。

 兵馬。

 お園。

 皆、声を抑えている。

 館の中に将軍がいるからではない。

 どう扱ってよいのか、誰も分からないからだ。

「榊原様!」

 志乃が駆け寄る。

「家慶公は」

「ご無事です」

「怪我は」

「ありません」

「誰と来た」

「一人です」

「鷹見静山を名乗る男は」

 志乃の顔が曇る。

「先にいました」

「先に?」

「井戸の前に」

 再起館の裏手。

 第一冊が最初に見つかった井戸。

「将軍は後から」

「はい」

「供は」

「いませんでした」

「江戸城から歩いて」

「途中までは駕籠だったようです」

「誰が」

「ご本人は、後で話すと」

 志乃は千代と四十七番を見る。

「この方たちは」

「長くなります」

「では後で」

「慣れましたね」

「最近、後で聞くことばかりです」

 清太郎が帳面を抱えて近づく。

「榊原様」

「何です」

「立会人を決めますか」

「もう始めたのか」

「将軍を一人で見た者を作りたくなかったので」

「誰が」

「私、志乃さん、辰蔵さん、町方一人、海防掛一人」

「寺は」

「了順様がまだ西徳寺なので」

「なら後から確認を」

「はい」

「家慶公が怒らなかったか」

 清太郎が少し困った顔をする。

「むしろ」

「何です」

「『私もそこへ名を書くのか』と」

「何と答えた」

「書きます、と」

「それで」

「笑われました」

 玄斎が呟く。

「本当に家慶公かもしれぬな」

「なぜ」

「上にいる者ほど、自分が記録されることに驚く」

「先生、それ偏見です」

「経験だ」

 ◇

 館の中。

 将軍徳川家慶は、広間ではなく囲炉裏端に座っていた。

 豪奢な衣装ではない。

 質素な小袖。

 頭には旅笠が置かれている。

 五十を越えた男。

 顔には疲れ。

 だが目は穏やかだった。

 隣に、もう一人。

 白髪の老人。

 海にいる「鷹見静山」を名乗る男とは違う。

 こちらは小柄。

 頬がこけ、左目の上に古い傷。

 右手の中指と薬指が曲がっている。

 玄斎が部屋へ入った瞬間。

 白髪の男が顔を上げた。

「玄斎」

 玄斎が止まった。

「……先生」

 新之介が横を見る。

 玄斎の顔が完全に変わっていた。

「先生」

 二度目。

 今度は、疑いより先に声が出た。

 白髪の男は笑う。

「老けたな」

「そなたが申すな」

「膝は」

「悪い」

「まだ左から立つ癖か」

 玄斎が息を止める。

「なぜ」

「昔、道場で転んだろう」

「兵庫にも言っていない」

「私が見ていた」

 玄斎が一歩近づく。

 だが新之介が腕を出した。

「先生」

「何だ」

「まだ」

「分かっておる!」

 玄斎は怒鳴った。

「分かっておるが――」

 声が震える。

「顔が」

「昔の先生ですか」

「ああ」

「海の男は」

「年を取った宗一郎に見えた」

「この男は」

「わしが先生と呼んでいた頃の顔だ」

 白髪の男が言った。

「新之介」

「私を知っているのですか」

「話は聞いた」

「誰から」

「宗伯」

「いつ」

「三日前」

「御影宗伯と会った?」

「ああ」

「西徳寺地下へ」

「いや」

「では」

「江戸城で」

 全員が固まった。

「宗伯殿が江戸城に」

「三日前まで」

「九十一の老人が?」

「年齢は関係ない」

「どうやって入った」

「私が呼んだ」

 今度は将軍家慶が答えた。

 新之介は家慶を見る。

「上様ご本人か、まだ決めていません」

 部屋が凍った。

 町方の同心が目を剥く。

 海防掛の者が息を呑む。

 家慶は、しばらく新之介を見た。

 そして笑った。

「水野が申した通りだ」

「何と」

「礼を知らぬ」

「申し訳ありません」

「謝るのは早い」

「では」

「確かめろ」

 玄斎が小さく息を吐く。

「似ておるな」

「誰に」

「先生に」

 白髪の男が笑った。

「私ではない」

「何」

「今の言い方は、一代目だ」

 ◇

「まず、名を聞きます」

 新之介が言った。

 白髪の男へ。

「鷹見静山」

「それは役目ですね」

「そうだ」

「生まれた名は」

「御影宗太郎」

 新之介は動きを止めた。

「御影」

「ああ」

「宗伯殿の」

「息子だ」

 玄斎が立ち上がる。

「何だと!」

「座れ」

「先生は鷹見家の」

「違う」

「では宗一郎は!」

「鷹見家の者だ」

「海にいる男」

「あれが宗一郎だ」

「なら、そなたは」

「二代目の鷹見静山」

 根帳に残っていた文字。

 ――二代御影、本名 鷹見静山。

 新之介は理解した。

「御影宗太郎が、鷹見静山の二代目」

「そうだ」

「その後、宗一郎へ名を渡した」

「三代目だ」

 玄斎が頭を抱える。

「待て」

「何だ」

「わしが先生と呼んでいたのは」

「時期による」

「何だと!」

「お前が道場へ来た頃は私だ」

「では無音寺の前は」

「宗一郎だ」

「途中で入れ替わったのか!」

「そうだ」

「なぜ気づかぬ!」

 玄斎が自分で叫び、自分で答えに詰まった。

 白髪の男――御影宗太郎は穏やかに言った。

「気づかせなかった」

「顔は」

「似せた」

「声は」

「宗一郎が私を真似た」

「では、わしの師は」

 玄斎の声が弱くなる。

「一人ではなかった」

「そうだ」

「ふざけるな!」

 玄斎が宗太郎の胸倉を掴んだ。

「わしは!」

「誰へ教わったと思って生きてきた!」

「誰の言葉を!」

「誰の背を!」

「先生と呼んできた!」

 宗太郎は抵抗しない。

「すまぬ」

「謝るな!」

「では殴れ」

「それも腹が立つ!」

「難しい弟子だ」

「誰のせいだ!」

 家慶が小さく笑う。

 玄斎が将軍を睨んだ。

「笑い事ではございませぬ!」

「すまぬ」

「上様まで謝るな!」

 広間に、妙な沈黙が落ちた。

 ◇

「では」

 新之介が整理する。

「御影宗伯殿が鷹見静山という名を作った」

「そうだ」

「一代目は宗伯本人か」

「違う」

 宗太郎が答える。

「何」

「父は名前だけを作った」

「最初に名乗ったのは」

「私だ」

「ではそなたが初代」

「鷹見静山としては」

「しかし根帳では」

「御影の代と、静山の代は別だ」

「ややこしい!」

 半九郎が思わず言った。

 宗太郎が頷く。

「そう思う」

「作った側が申さないでください!」

「若い者は正しいな」

「褒めなくて結構です!」

 新之介は家慶を見る。

「上様」

「まだ上様でよいのか」

「今は便宜上」

「便利な扱いだな」

「なぜ江戸城を出られた」

 家慶の顔から笑みが消えた。

「城の中で、私の声が私より先に歩き始めたからだ」

「いつから」

「半年ほど前」

「知っていた?」

「ああ」

「なぜ止めなかった!」

 水野なら叫んだかもしれない。

 新之介は抑えて問う。

「誰が使っているか確かめたかった」

「そのために放置した」

「一部は」

「人が動かされました」

「分かっている」

「怪我人も」

「分かっている」

「死者も」

 家慶は目を閉じた。

「分かっている」

「なら」

「だからここへ来た」

「遅い!」

 玄斎が言った。

「上様であろうと遅いものは遅い!」

 周囲の侍が青ざめる。

 家慶は手を上げ、制した。

「よい」

「よくありません」

 新之介が言う。

「何」

「怒られるべき時に、上にいる者が『よい』と許して終わらせるな」

 家慶が新之介を見る。

 清太郎の筆が止まる。

「書け」

 家慶が言った。

「何を」

「今の言葉だ」

「上様が」

「徳川家慶が、声の偽造を知りながら半年放置した」

「理由は」

「犯人を探るため」

「結果」

「被害を広げた」

「責任は」

 家慶は少し迷った。

 新之介は待った。

「私にある」

 清太郎が記す。

 誰も声を出さない。

「それだけではありません」

 新之介が言う。

「何」

「知っていた者は」

「御側衆三名」

「名を」

 家慶が答える。

「久松主膳」

「本物の」

「ああ」

「ほかは」

「松平外記」

「御小納戸頭・川辺主馬」

「三名は」

「一人が死んだ」

「誰」

「松平外記」

「本当に」

 家慶が新之介を見て、苦笑する。

「遺体は見た」

「顔も」

「ああ」

「複数人で」

「久松、川辺、私」

「記録は」

「ある」

「後で確認します」

「分かった」

 ◇

「では、なぜ再起館なのです」

 志乃が問う。

 この場で遠慮なく将軍へ質問できるのは、彼女くらいだった。

「江戸城へ戻る道も、寺もあったでしょう」

 家慶は井戸の方を見る。

「宗太郎に言われた」

「何と」

「戻る場所を間違えるな、と」

 玄斎と新之介が同時に宗太郎を見る。

「またその言葉」

 宗太郎が答える。

「私が最初に言った」

「宗一郎先生では」

「後で渡した」

「言葉まで継いだのか」

「名だけでは、人は同じ人物と思わぬ」

「だから癖も教えた?」

「ああ」

「顔も声も」

「ああ」

 玄斎は、もう怒る力も失ったように座り込んだ。

「わしの人生を返せ」

「返せぬ」

「知っておる!」

 宗太郎の顔に苦しさが浮かぶ。

「だから来た」

「何のために」

「玄斎へ謝るためではない」

「そこは謝れ!」

「それもある」

「最初に申せ!」

 半九郎が顔を伏せた。

 笑えば傷が痛む。

「再起館へ来た理由を」

 新之介が戻す。

「この井戸の下に」

 宗太郎が言った。

「最後の道がある」

「また地下ですか」

「嫌か」

「最近、地下ばかりなので」

「分かる」

「どこへ続く」

「江戸城」

 全員が黙った。

「何」

「正確には城外の水堀へ出る」

「なぜ、そんな道が」

「米の道だ」

「宗伯殿の地下網」

「ああ」

「江戸城まで」

「勘定方が使った」

「では」

 新之介は気づく。

「将軍を城から出した者は、その道を知っている」

「そうだ」

「家慶公は」

「私は別の道から出た」

「自分で」

「ああ」

「供を連れず」

「連れれば、どの声が本物か分からなくなる」

「危険です」

「分かっている」

「一人で出ることが正しいとは」

「思っていない」

「なら」

「迷った」

 家慶は言った。

「それでも出た」

 新之介は黙った。

 ここで責めればよいのか。

 褒めればよいのか。

 どちらでもない。

「記録してください」

 新之介が清太郎へ言った。

「上様は一人で出ることが正しいと確信していたわけではない」

「迷った上で」

「そう選んだ」

「はい」

 清太郎が書く。

 家慶が少し笑った。

「迷いまで記すのか」

「それが前と後ろです」

「声にも前と後ろがある」

「はい」

「人にも」

「同じです」

 ◇

「今の御影は誰です」

 新之介が宗太郎へ問う。

「知らぬ」

「宗伯殿も知らない」

「ああ」

「坂崎殿も自分を二代目だと思い込んでいた」

「御影の役目が分かれたからだ」

「何」

「三十年前」

 宗太郎が囲炉裏の炭を見つめる。

「父と私は決裂した」

「宗伯殿と」

「ああ」

「父は、一つの帳面で国を動かす考えを捨て始めた」

「そなたは」

「まだ捨てきれなかった」

「逆では」

「昔はな」

「では」

「私が御影を分けた」

「何人へ」

「三人」

「誰」

「一人は坂崎」

「一人は千代」

 千代が顔を上げる。

「私は」

「監視する御影」

「坂崎は」

「記録する御影」

「もう一人は」

 宗太郎は答えなかった。

「誰です」

「命じる御影」

「名は」

「知らぬ」

「そなたが役目を渡したのに?」

「顔を見ていない」

「何」

「父のやり方を真似た」

「声だけで」

「ああ」

 玄斎が杖を床へ叩いた。

「お前たちは何度同じ間違いをすれば気が済む!」

「返す言葉がない」

「なら黙るな!」

「どちらだ」

「考えて申せ!」

「難しい弟子だ」

「新之介、こやつを殴ってよいか」

「複数人の立会いで」

「そういう話ではない!」

 ◇

 その時。

 館の外から、馬の音がした。

「急使!」

 青山新六郎が飛び込んでくる。

「水野様から!」

「江戸城は」

「久松主膳殿を確保しました!」

「本物か」

「顔、声、古傷、家族しか知らぬ事柄まで複数で確認中です!」

「良い」

「ですが」

 青山が将軍を見て、膝をつきかける。

 家慶が手を上げた。

「今はよい」

「それでは確認が」

 青山が困る。

 新之介が言う。

「後で」

「榊原殿まで」

「何があった」

 青山は息を整える。

「江戸城御座所の床下から」

「何が」

「声筒が三十二本」

「多いな」

「さらに」

「地下道の入口」

「やはり」

「そこで一人、捕えました」

「誰」

「名を申さない」

「またか」

「ただ」

「何です」

「自分を『命』と呼べ、と」

 宗太郎の顔が変わった。

「命じる御影」

「本人か」

「分からぬ」

「年は」

「三十ほど」

「若い」

「顔は」

「焼けています」

「右か左か」

 宗太郎が立ち上がる。

「右半分です」

「手は」

「左手の親指がありません」

 宗太郎の顔から血の気が引いた。

「知っているのか」

 新之介が問う。

「知っている」

「誰です」

 宗太郎はしばらく答えられなかった。

「名を」

「……御影宗一」

「御影」

「私の息子だ」

 再び、部屋が静まり返る。

「そなたにも息子が」

「生きていたのか」

「死んだと思っていた?」

「ああ」

「誰が確認した」

 玄斎が吐き捨てる。

「その問いを、もう何度申せば」

「遺体はなかった」

「ならなぜ死んだと」

「火事だ」

「いつ」

「二十年前」

「顔の火傷は」

「その時かもしれぬ」

「命じる御影を」

「私が渡した相手は、息子ではない」

「では」

「宗一は、その者から役目を奪った」

「いつ」

「分からぬ」

 青山が続ける。

「もう一つあります」

「何です」

「宗一を捕えた際、懐から紙が」

「何が書いてある」

「将軍家慶公を再起館へ送れ」

 全員が家慶を見る。

「送れ?」

「はい」

「誰の命で」

「紙の下に署名が」

「誰」

 青山は答えた。

「鷹見静山」

 玄斎が頭を抱えた。

「もう嫌だ」

「先生」

「何人おるのだ!」

「だから名前を」

「分かっておる!」

 新之介は青山へ問う。

「筆跡は」

「海の男――鷹見宗一郎殿のものと似ています」

「本人は海にいる」

「はい」

「では偽筆か」

「それが」

 青山が宗太郎を見る。

「水野様が申すには、三十年前の鷹見静山の筆跡と一致する、と」

 宗太郎の表情が凍る。

「三十年前」

 新之介が言う。

「それは宗太郎殿の筆跡では」

「私の字だ」

「では」

「私はそんな紙を書いていない」

「本当に」

「ああ」

「ならば誰かが」

「私の筆を残していた」

 声。

 顔。

 名。

 筆跡。

 今度は三十年前の文字。

 死者ではなく、生きた者の過去までもが、現在を動かしている。

「まだあります」

 青山が言った。

「何です」

「宗一は、捕えられる直前に一言だけ申しました」

「何と」

「『将軍は人質ではない』」

 家慶の顔が変わる。

「続きは」

「『鍵だ』と」

「何の鍵」

「それは申していません」

 新之介は井戸を見る。

 根帳。

 四冊。

 御影。

 江戸城へ続く地下道。

 将軍。

「鍵」

 宗太郎が呟いた。

「まさか」

「何です」

「根帳ではない」

「では」

「最初の帳面より前だ」

「何がある」

「帳面を作らせた命令書」

「誰の」

 宗太郎は家慶を見る。

「将軍家の」

「何代前」

「家斉公」

 家慶の父。

「御影宗伯は自分で帳面を始めたのではない?」

「違う」

「命じられた?」

「最初は」

「何を」

「飢饉の際、誰から米を取り上げれば最も少ない反乱で済むかを調べよ」

 新之介の顔が険しくなる。

「人を救う帳面ではなく」

「人を選ぶ帳面だった」

「宗伯殿は途中で変えた」

「ああ」

「命令書はどこに」

 宗太郎が再起館の井戸を指した。

「この下だ」

「なぜ」

「宗伯が盗み出した」

「江戸城から」

「ああ」

「それがあれば」

「御影が幕府の外に生まれたのではなく」

 家慶が続けた。

「徳川家自身が、その根を作ったと証明される」

 全員が家慶を見る。

「だから私が鍵か」

「将軍本人の前で開く」

 宗太郎が言う。

「そう決めたのか」

「父が」

「いつ」

「四十七年前」

「宗伯殿は、それを知って」

「将軍家の子孫へ見せるつもりだった」

「なら」

 新之介が言う。

「宗一は、家慶公をここへ送った」

「命じる御影が」

「自分の役目を終わらせるために」

 千代が呟く。

「私と同じだ」

 その時。

 井戸の底から。

 鐘の音がした。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 再起館で決めた救いの合図。

 だが誰も、下へ降りていない。

「誰かいる」

 半九郎が立ち上がる。

 続いて。

 井戸の底から、声。

「榊原新之介」

 若い男。

「将軍家慶」

「御影宗太郎」

「黒川玄斎」

 一人ずつ名を呼ぶ。

 そして最後。

「鷹見静山」

 宗太郎と玄斎が同時に井戸を見る。

「どちらを呼んでいる」

 玄斎が呟く。

 底の男は答えた。

「全員だ」

 その声には、笑いも怒りもなかった。

「鷹見静山を名乗った者」

「御影を名乗った者」

「将軍を名乗る者」

「榊原新之介を名乗る者」

「全部、下りてこい」

 新之介が井戸の縁へ近づく。

「そなたの名を申せ!」

 しばらく沈黙。

 やがて答え。

「名はない」

「なら上がってこい!」

「嫌だ」

「なぜ」

「ここには、名を捨てた者の最初の記録がある」

 新之介の目が細くなる。

「何者だ」

「記録係だ」

「誰の」

「将軍家の」

 家慶が立ち上がった。

「いつの時代の」

 底の男は答えた。

「今だ」

 そして。

 井戸の底で、鉄の扉が開く音が響いた。

 宗太郎が顔を青ざめさせる。

「開けた」

「何を」

 新之介が問う。

「始帳だ」

「根帳より前の」

「ああ」

 宗太郎は震える声で言った。

「御影も、鷹見静山も生まれる前の帳面だ」

 井戸の底から。

 若い男の声が続いた。

「下りてこい」

「誰がこの国で、最初に人を数へ変えたか」

「その名を見せてやる」

(第六十二章へ続く)

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