――第七十一章 客殿裏の灯――
その夜、寺の囲炉裏の火はいつもより少し長くもった。
母が灰の寄せ方を変えたのか、炭の置き方がよかったのか、赤い熾きがなかなか落ちない。志乃はそれを見て「今日は火が元気ですね」と言い、お澪は小机の上で紙を押さえながら「風が弱いからかもしれません」と答えた。何でもないやり取りだったが、伊織には妙に胸へ沁みた。火が元気であるとか、風が弱いとか、そういう言葉が自然に出る場所がある。それだけで、人はまだ水ではないのだと思えた。
新兵衛は縁側に足を投げ出し、いつものように半分眠そうな顔で刀の鞘を布で拭いていた。
「点帳、ってのは結局あれだな」
ふいに言う。
「敵を数える帳じゃなくて、流れやすいところを数える帳だろ」
伊織は囲炉裏の火を見ながら頷いた。
「そうかもしれぬ」
「だったら人の中にも書けるな」
新兵衛が鼻を鳴らす。
「俺なら、酒が出たら一点、女が泣いてたら二点、腹が減ってたら三点だ」
志乃がすぐに言い返した。
「新兵衛さんは点だらけですね」
「そうだよ」
新兵衛は平然としている。
「だから俺は、自分で分かりやすい。厄介なのは、点がない顔してる奴だ」
その言葉に、伊織は少しだけ顔を上げた。
たしかにそうだった。
土井主計も、神谷内膳も、真壁蔵人も、杉戸文左衛門も、最初から“ここが点だ”と見える顔ではなかった。
むしろ整っていた。
理があり、静かで、余計な熱を見せぬ。
だからこそ流れを作れたのだろう。
「点がない顔、か」
伊織が呟くと、お澪が小さく言った。
「点がないのではなく、見えないだけです」
その一言が、妙に重く響いた。
見えないだけ。
それは帳にも、人にも、たしかに言える。
見えぬからないと思い、ないと思うから手が遅れる。
だから点帳が要る。
そして同時に、戻る場所も要る。
「お澪」
伊織が訊いた。
「お前は、自分の中の点が見えるか」
お澪は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
それから視線を紙へ落とし、静かに答える。
「……怖い時です」
「怖い時」
「はい。怖いと、見たいものだけを見て、見たくないものを紙の外へ押しやりたくなります」
伊織は黙って聞いた。
「だから私は、怖い時ほど字を大きく書くようにしています」
お澪は言った。
「小さく書くと、都合のいいところだけが残るから」
その言葉に、老僧が向こうで茶をすすりながら頷いた。
「よい堰だ」
お澪は少しだけ照れたように笑った。
堰。
主水の言葉が、こうして寺では暮らしの工夫になる。
それが不思議で、ありがたい。
そのとき、門の方で激しく木を叩く音がした。
乾いた、切羽詰まった音だった。
誰かがためらわずに寺の門を叩いている。
夜の寺へ来る者は珍しくないが、こういう叩き方は少ない。
新兵衛がすっと立ち上がる。
伊織も腰を浮かせた。
老僧は「開けてみよ」とだけ言った。
その声に慌てはない。
だが少しだけ低い。
門を開けると、そこにいたのは女中姿の女だった。
年のころは三十前後。
着物は乱れ、裾には泥がついている。
息が荒い。
しかも左の袖口に、うっすら血が滲んでいた。
女は伊織の顔を見るなり、ほとんど倒れ込むように言った。
「……西徳寺ではなく、こちらへ来いと言われました」
伊織の眉が動く。
「誰に」
「玄応様に」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
西徳寺の住持・玄応。
あの男が、こちらへ回した。
ということは、この女は寺社筋の流れに近い。
「中へ」
伊織が言うと、女は何度も頷いた。
新兵衛が肩を貸し、囲炉裏の前へ連れてくる。
母は何も訊かず、まず水と布を持ってきた。
志乃は火を少し強め、お澪は小机の紙をまとめて端へ寄せる。
戻る場所は、こういう時にこそ戻る場所になる。
女は、水を一口飲んでから名乗った。
「牧野家の客殿付きで……お絹と申します」
伊織と新兵衛が、同時に顔を見合わせる。
牧野家。
客殿裏。
戻し帳の略号の一つ。
そして昨日、箱を抜いていた裏口。
「客殿付き……」
伊織が言う。
「何があった」
お絹は、しばらく唇を震わせていたが、やがて絞るように言った。
「“整える方”が、今夜、客殿を空にします」
囲炉裏の火が、小さく鳴った。
整える方。
あの茶店から逃げた、牧野家客殿裏の“整える手”。
ついに、その口が自分からこちらへ届いた。
「誰だ」
伊織が問う。
お絹は、一度だけ目を閉じた。
そして言った。
「牧野家用人・立花采女です」
新しい名だった。
だが名が出ただけで、話は大きく前へ進む。
采女。
武家屋敷の客殿裏で文を整え、筋だけを抜き、別の顔を作る男。
そしてそれを見ていた客殿付きの女。
「なぜこちらへ来た」
伊織が問う。
お絹の目に、ようやく涙が滲んだ。
「若様が……巻き込まれます」
その一言で、伊織は話の芯を掴んだ。
牧野家の客殿裏は、ただの継ぎ目ではない。
家の内の事情と、外の文の流れが、あそこで重なっているのだ。
「牧野家の若様が、何に」
「御役目の上申にございます」
お絹は言葉を切りながら続けた。
「本来なら、若様はまだ家中の文を預かる立場ではありませぬ。ですが采女様が、若様のお名でいくつかの意見書を整え、客殿でお手直しを受けたことにして……」
「若様の名で、外へ筋を通したか」
伊織が低く言うと、お絹は頷いた。
「はい。若様は、ほとんどご存じありません」
また人の顔だ、と伊織は思った。
紙の流れだけなら簡単だ。
切ればいい。
だがそこへ“若様の名”が被さる。
しかも本人はほとんど知らぬ。
それでは単なる不正ではなく、家そのものを揺らす。
「客殿を空にする、とは」
新兵衛が問う。
お絹は袖で目元を押さえた。
「今夜のうちに、客殿の裏帳場を片づけ、書付と控えを別の屋敷へ移すと……。采女様がそう仰いました。若様には病と申し上げて、しばらく奥へ下がっていただくとも」
「逃げる気だな」
新兵衛が吐き捨てる。
「はい……」
お絹の声は細い。
だがそれだけではなかった。
この女はただ怖れているだけではない。
何かを見てしまった者の顔をしている。
「お絹」
伊織が静かに言った。
「お前は、何を見た」
お絹は、しばらくためらった。
そして懐へ手を入れる。
出てきたのは、小さく折られた紙片だった。
血がついている。
袖の血はこれか、と伊織は思った。
「これを……片づける途中に見つけました」
紙を開くと、中には走り書きの控えがあった。
乱れた筆。
だが、ところどころに見覚えのある書き方が混じる。
主水の差し戻し文から筋だけを抜いた、あの茶店の控えと同じ癖だ。
そして末尾に、小さくこうある。
――《北廻り 一度戻し、采女手直し》
――《客殿裏 二夜寝かせ》
――《若名乗り》
「若名乗り……」
伊織が呟く。
「若様の名で出す、ということか」
お絹は頷いた。
「采女様は“若い名は先があるから使いやすい”と……」
その言葉に、新兵衛が思わず拳を握った。
「外道が」
だが伊織は、すぐには怒りへ寄らなかった。
怖ろしいのは、そこに理があることだった。
若い名は、先がある。
だから傷がついても、あとで整え直せる。
そういう理で、人の将来まで紙のように扱う。
立花采女という男は、ただ文を整えるだけではない。
人の名そのものを“整えの道具”にしている。
「若様は、どこまで知らぬ」
伊織が問う。
お絹は言った。
「表向きは、自分の意見が少し通りやすくなっているくらいにしか……。采女様が“若様のお言葉を整えただけ”と申しておりましたので」
整えただけ。
またそれだ。
顔を整え、文を整え、筋を整え、名まで整える。
整えるという言葉の下に、どれだけ多くのものが押し潰されているのか。
老僧が、そこでぽつりと言った。
「名を使われる者は、名の重みで沈む」
お絹がその言葉に、はっとしたように老僧を見る。
たぶん、まさにそれを恐れてここへ来たのだろう。
若様はまだ知らぬ。
だが知らぬままでも、いざ明るみに出れば名が沈む。
戻れぬところまで行く前に、誰かに見せねばならなかったのだ。
「玄応殿は、お前に何と言った」
伊織が訊く。
「“戻る寺では、抱えきれぬこともある”と……」
お絹は答えた。
「“だが戻す人間は知っている。南の寺へ行け”と」
南の寺。
それがここだ。
玄応は、自分の寺で抱えきれぬ流れを、戻すためにこちらへ渡した。
その判断は正しかったと思う。
西徳寺は戻る寺だ。
だが一つの寺だけでは、戻せぬものもある。
戻る場所は一つではない。
それもまた、伊織は今ようやく知り始めている。
お絹が少し落ち着いたあと、伊織は主水へ走り書きの文を送った。
――牧野家客殿裏、整える手、立花采女。
――今夜、裏帳場を移す。
――若名乗りの控えあり。
主水からの返しは、やはり短かった。
――騒ぐな。
――若を先に見よ。
――采女は逃がしてもよい。名を押さえよ。
「逃がしてもいい、だと?」
新兵衛が文を見て唸る。
「今夜のうちに片づけるって相手を」
「采女一人を押さえても、若様の名が沈めば同じことだ」
伊織は言った。
「先に見るのは、若様だ」
主水の狙いは明らかだった。
立花采女は整える手だ。
切ればまた別が出る。
だが若様の名が一度“点”に使われたなら、その名の方をどう戻すかが肝になる。
戻す場所を残す。
主水はそこを見ている。
「じゃあ今夜、牧野家へ入るのか」
新兵衛が訊く。
「ああ」
「正面からか」
「いや」
伊織は短く答えた。
「客殿裏からだ」
お絹が、その言葉に顔を上げた。
「裏口の鍵は……まだ私が持っております」
小さな鍵が、女の震える手の中で光った。
紙も箱も札も、最後はこういう小さなものへ戻る。
鍵。
名。
そして、人の決心。
伊織はその鍵を受け取り、静かに言った。
「若様の顔を見に行く」
お絹は、深く頭を下げた。
囲炉裏の火が、すう、と細く音を立てた。
静かな堰。
今夜、そこへもう一度手を入れねばならない。
点を切ったあとに残る流れを、本当に戻すために。
波瀾万丈の物語は、いよいよ“名”そのものの段へ入ろうとしていた。
紙ではなく、人の名。
それをどう守り、どう戻すか。
そこが次の戦いになる。
(第72章につづく)

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