山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第六十八章

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――第六十八章 点の生まれる水――

 その日のうちに動くかどうかは、誰にも分からなかった。

 水神下新田の紙漉き場は、昼を過ぎても変わらず静かだった。川の水は澄み、簀桁を揺らす音が絶えず響き、干し棚には薄い紙が風に鳴る。見た目だけなら、何の罪もない景色である。いや、罪どころか、人の世に要るものを真っ当に作っている場所の顔そのものだった。

 だからこそ伊織は、ここまで流れを追ってきても、なお胸のどこかでためらいを覚えていた。

 土井主計の蔵は、見ればすぐに腐っていると分かった。
 神谷内膳の屋敷も、志摩屋の裏帳も、帳合の蔵も、近づけば近づくほど熱と臭気を放っていた。
 だがここは違う。
 紙が生まれる場所には、熱も臭気もない。
 あるのは水と手だけだ。

 その水と手の中へ、“点”が仕込まれている。
 そう分かっていても、なおこの場所をただの悪として見ることができぬのは、ここにいる者たちがみな、自分の飯と仕事のために黙々と動いているからだろう。

「待つってのは、ほんとに退屈だな」

 新兵衛が葦の陰で小声に言った。

 伊織と秋庭は、川下の土手に身を伏せていた。作業場の奥まった一角、あの“理由の見えぬ束分け”をしていた若い紙漉き職人の場が見える位置である。岡野の手は、もっと外側に散っている。ここで大きく網を張れば、点を見に来る者は来なくなる。だから今日の見張りは極めて薄い。薄いが、そのぶん気を抜けない。

「退屈でいてくれれば、それでいい」

 伊織が答える。

「何も来ない方がいいってことか」

「いや。来るなら来るでいい」

 新兵衛が鼻を鳴らした。

「どっちなんだよ」

 秋庭がその横で、小さく言った。

「何も来ないように見える間に、たいてい何かが動いているんです」

 新兵衛は少しだけ顔をしかめた。

「お前まで紙みてぇなこと言うようになったな」

 秋庭は、かすかに苦笑した。
 白紙に迷った若い顔ではなく、少しだけ“見る側”の苦さを覚え始めた顔だった。
 それを見て、伊織は胸の内でわずかに安堵した。
 秋庭はまだ戻る途中にいる。
 完全に戻ったわけではない。
 だが少なくとも、紙の理だけを美しいと思う顔ではなくなった。

 風が一度、川上から強く吹いた。

 干し棚の紙が鳴る。
 その音は、遠くで小さな鈴を幾つも鳴らすようにも聞こえる。
 紙の生まれる場所は、静かなのに騒がしい。
 音が少ないのではなく、音がみな水と紙に吸われて角が取れているだけなのだ。

 しばらくして、例の若い紙漉き職人が、点を含む束を別の棚へ移した。
 やはり目に見える違いはない。
 厚さも、乾きも、白さもほとんど同じ。
 だが点の入るものだけが、わずかに北向きの棚へ分けられている。
 ただそれだけだ。
 紙に仕込まれる最初の“別れ”は、こんなに小さい。

「来るとしたら、あの棚だな」

 伊織が低く言う。

 そのときだった。

 川上の道から、一頭の小さな馬が現れた。
 馬には荷はない。
 ただ、手綱を引く老人が一人。
 百姓のようにも、旅の者のようにも見える。
 蓑を肩に掛け、笠を深くかぶっている。
 この辺りでは珍しくない姿だった。
 だが、伊織の目はその足元で止まった。

 草履が、新しい。
 しかも泥が少ない。
 川沿いの道を長く歩いてきた者の足ではない。
 どこか近い場所から、姿だけ整えて現れた足だ。

「……来た」

 伊織が呟く。

 新兵衛が目を細める。

「誰だ」

「まだ分からぬ。だが“ここへ用がある顔”だ」

 老人は、紙漉き場の者に特に声をかけるでもなく、作業場の外れに置かれた水桶の方へ向かった。
 桶の水を覗き込み、指先を浸す。
 その指の動きが、妙に繊細だった。
 百姓の手ではない。
 紙か筆か、細かなものを長く扱ってきた手の動きだ。

 やがて老人は、若い紙漉き職人の棚の前で止まった。

 そこで初めて、若い職人がぴくりと背を正した。
 それまでの無表情が、わずかに緊張する。
 つまり、ただの旅人ではない。
 顔を知っている相手だ。

「乾きが早い」

 老人が低く言った。

 声も、老いにしてはよく通る。
 作っている。
 伊織はそう思った。

「はい」

 若い職人が答える。

「水がいいので」

「水だけではない」

 老人は、別の束をひと撫でした。

「手が慣れた」

 若い職人は黙る。
 その沈黙に、教えられている者の色があった。

「点は」

 老人が、まるで天気でも問うように言った。

 伊織たちの背筋が、同時に張る。

 若い職人は周囲を一度見てから、ごく小さく言った。

「……北です」

 老人は頷いた。

「よい」

 それだけだった。
 点。
 北。
 短い。
 だが十分だ。
 点の入る束は北の棚。
 そしてこの老人は、その確認に来ている。

「杉戸か」

 秋庭がほとんど息だけで言う。

 伊織は答えなかった。
 名を決めるにはまだ早い。
 だが、この男がただの手ではないことだけは確かだった。
 紙が紙になる前の“別れ”を確認しに来る顔。
 そんな者は多くない。

 老人はそのあと、作業場の奥へ少しだけ入り、干し棚を一巡した。
 紙にはほとんど触れぬ。
 ただ、棚の向き、束の位置、水桶の置き場を見ている。
 まるで、紙そのものではなく、紙が“どう別れるか”だけを見に来たような目だった。

「間違いない」

 秋庭が言う。

「この人は、紙を見る人ではありません。行き先を見る人です」

 新兵衛が舌打ちした。

「ややこしい奴ばっか増えやがる」

 だが伊織は、その言葉に奇妙な納得を覚えていた。
 杉戸文左衛門。
 表向きは紙庫番から消えた男。
 もしこの男がそうなら、たしかに“紙を見る”のではなく“行き先を見る”はずだ。
 紙そのものに用があるのではない。
 あとでどちらへも振れる束が、ちゃんと生まれているかどうかだけが肝心なのだ。

 老人が、そこで不意に川の方を見た。

 伊織は一瞬、息を止めた。
 気づかれたか。
 だが老人の視線は、自分たちの潜む葦の陰より少し上をなめただけで、すぐに戻った。
 見ているのではない。
 感じているのだ。
 誰かに見られる側に長くいた者ではなく、常に“見られるかどうか”を測る側にいた者の目だ。

「出るか」

 新兵衛が囁く。

 伊織はわずかに首を振った。

「まだだ」

「なんで」

「ここで押さえれば、若い職人がただの口か、知る口かも分からぬままになる」

「けど杉戸だったら逃げるぞ」

「逃げる」

 伊織は言った。

「だが、逃げ方を見る」

 新兵衛が苦い顔をする。
 だがもう、それに反対はしない。
 ここまで来れば、逃げ方そのものが口になると分かっているのだ。

 老人はやがて若い職人へ、紙束ではなく小さな布包みを渡した。
 若い職人はそれを懐へ入れる。
 銭か。
 あるいは別の指図か。
 伊織は目を細めた。
 布包みという形が気になる。
 紙を紙で渡さない。
 それもまた、この流れの癖なのだろう。

 そして老人は、来た時と同じように何でもない顔で水神下新田の道を引き返し始めた。

「行くぞ」

 伊織が立ち上がる。

 三人は、少し間を置いてあとを追った。


 老人は、川沿いをそのまま下らなかった。

 一度、田の畦へ入り、そこから小さな社の脇を抜け、さらに葦原の細道へ入る。
 土地を知っている歩き方だ。
 しかも“最短”ではない。
 追われるかもしれぬ時に、相手を迷わせる道を選んでいる。
 つまり、やはりただの巡り役ではない。

「完全に怪しいじゃねぇか」

 新兵衛が小声で言う。

「怪しいからこそ、怪しさを隠さぬ道を通る」

 伊織が答える。

「それもまた手だ」

「やめろ。難しくなる」

 秋庭が、そのやりとりの間も老人から目を離していない。
 その集中の仕方に、伊織は少しだけ感心した。
 一度白紙に迷った者は、紙の些細な揺れに敏くなるのかもしれない。
 傷は、使いようによって目にもなる。

 やがて老人は、小さな渡し場の跡で立ち止まった。
 いまは使われていないらしい。
 杭だけが残り、舟もない。
 そこで笠を取り、川風にしばらく顔を晒した。

 伊織は、そこでようやく老人の顔をはっきり見た。

 皺はある。
 だが老いの皺というより、長く目を細めて生きてきた者の皺だ。
 六十手前か。
 目は澄んでいる。
 真壁ほどではないが、沼田よりも冷えている。
 それでいて、主水のような“自分で責を抱える冷たさ”ではない。
 もっと薄い。
 紙の上に霜が降りたような、薄い冷たさだ。

「……杉戸文左衛門」

 秋庭がごく小さく言った。

 伊織は頷いた。
 秋庭が知っている。
 ならば間違いあるまい。

 杉戸は、渡し場の杭に手を置き、しばらく水を見ていた。
 ただの老人が懐かしむようにも見える。
 だが伊織には、あれが“流れの太さ”を見ている顔に見えた。
 点を仕込む者は、いつも水を見る。
 水は別れと合流の形を教えるからだ。

「今だ」

 伊織が低く言う。

 三人が同時に踏み出した。

 葦が鳴る。
 杉戸が振り向く。
 驚きはない。
 わずかな、ほんとうにわずかな苦笑だけが口元に浮かんだ。

「遅かったな」

 その言い方に、伊織はぞくりとした。
 嘉兵衛と同じだ。
 来ることを知っていた者の言い方。
 だが嘉兵衛のそれは逃げの余裕だった。
 杉戸のそれは、もっと違う。
 ずっと前から“いずれ誰かがここへ来る”と分かっていて、その日のために顔を決めてきた者の声だった。

「杉戸文左衛門」

 伊織が名を呼ぶ。

「お前の点を見た」

 杉戸は、笠を脇へ置き、逃げようともしなかった。

「点、か」

 それだけ言って、小さく笑う。

「人は最後には、みなそこへ来る」

「何のために」

 伊織が問う。

 杉戸は川を一度だけ振り返った。

「紙は、生まれた時にはどこへ行くか決まっておらぬ」

「だから決めるのか」

「違う」

 杉戸は静かに言った。

「決まっておらぬものを、あとで困らぬようにしておくだけだ」

 また“困らぬように”。
 また“少しだけ”。
 だが杉戸の言葉は、これまでの誰とも少し違っていた。
 飯でもない。
 妹でもない。
 見苦しい裂け目を見ぬようにするでもない。
 もっと根の深い、“あらかじめ整えておく”という理だ。

「お前は、何を守る」

 伊織が問うと、杉戸は少しだけ首を傾げた。

「守る……」

 その言葉自体が、少し珍しいもののように聞こえた。

「守ってはおらぬ」

 やがて言う。

「ただ、紙が紙として生まれた時に、あとで行き場を失わぬようにしているだけだ」

「同じことだ」

「違う」

 杉戸の声は、初めて少しだけ鋭くなった。

「お前たちは、文になってから騒ぐ。止まってから騒ぐ。火がついてから騒ぐ。……私はその前を見ている」

 その一言に、伊織の胸が重くなった。
 たしかにそうだ。
 自分たちは今ようやく、ここへ来た。
 杉戸はずっと前からここにいた。
 紙がまだ水の上で揺れている段階から。
 だからこの男は、誰より先に流れを見る。
 その意味では、これまでで一番深い相手なのかもしれなかった。

「だから点を打つか」

 伊織が低く言う。

「文がどちらへでも振れるように」

「そうだ」

 杉戸は平然と答えた。

「最初に点を置けば、あとは人が勝手に理を作る。沼田は沼田の理で止め、秋庭は白紙の理で迷い、真壁は継ぎ目として横へ置き、杉浦は顔を整え、嘉兵衛は箱へ入れ、兵部は筋だけ抜いて止める。皆、自分で選んだつもりになる。だが最初に点があれば、そのどちらへも流れやすい」

 秋庭が、そこで初めて声を荒げた。

「人を何だと思っている!」

 杉戸は、静かに秋庭を見た。

「水だ」

 その一言は、冷たかった。
 あまりにも冷たく、あまりにも澄んでいて、伊織はかえって恐ろしくなった。
 人を腹でも、藩でも、理でもなく、水だと言う。
 流れるもの。
 高きから低きへ向かい、置けばそこへ溜まり、道があればそちらへ行くもの。
 杉戸は、そう見ているのだ。
 だから点を置く。
 流れやすい方へ、最初にわずかな窪みを作るために。

「違う」

 伊織は一歩進んだ。

「人は戻る」

 杉戸の目が、ほんの少しだけ揺れた。

「戻る?」

「水は戻らぬ。だが人は戻る」

 伊織は言った。

「寺にも、家にも、自分の顔にも。……だからお前の点だけで決まるほど、人は薄くない」

 杉戸は、それを聞いてしばらく黙っていた。
 川風が葦を鳴らす。
 水神下新田の水は、相変わらず静かだ。
 だがその静けさの中に、杉戸の沈黙だけが異質に見えた。

「面白いことを言う」

 やがて杉戸が言った。

「主水殿ではなく、お前がそこへ来たか」

「来た」

「なら――」

 杉戸の足が、わずかにずれた。
 逃げる。
 伊織はそう思った。
 だが遅い。

 新兵衛が横から飛び込む。
 杉戸は身を引くが、完全には避けられない。
 肩がぶつかる。
 よろめく。
 その隙に伊織が腕を取る。
 秋庭が背後へ回る。

 三人がかりでようやく、杉戸文左衛門の体が止まった。
 意外なほど力は強くなかった。
 だが力よりも、“滑る”のが上手い。
 これまで何度も人の手から、自分の責を滑らせてきたのだろう。
 それが今、ようやく止まった。

 杉戸は息を乱さなかった。
 ただ、拘えられたまま川を見ている。

「榊原」

 小さく言う。

「点を切っても、水はなくならぬぞ」

 伊織は、その横顔を見ながら答えた。

「ああ」

「なら何のために追った」

「戻るためだ」

 杉戸はそこで、初めてほんの僅かに笑った。

「……水に戻りはない」

「人にはある」

 伊織は繰り返した。

 その言葉を、自分自身へ言っている気もした。
 紙の理へ寄りすぎた時、
 継ぎ目を見ることに慣れすぎた時、
 自分もまた“人は水だ”と思い始めるかもしれない。
 だからこそ、ここで言い切らねばならなかった。
 人は戻る。
 戻る場所がある限り。

 新兵衛が杉戸の腕を強く押さえ、秋庭が息を整える。
 水神下新田の風が吹く。
 紙の生まれる場所で、点を生む手はついに止まった。

 だが伊織には、それで終わりとは思えなかった。
 点が一つ消えても、人の中に“流れやすい窪み”がある限り、また別の手が似たことを始めるかもしれない。
 杉戸がいなくなっても、すべては終わらぬ。
 それでも今は、一つ止めた。
 それでいい。
 それでよいのだと、ようやく少しだけ思えた。

 波瀾万丈の物語は、ついに点の生まれる場所へ手を届かせた。
 ここから先は、流れを追うだけでなく、流れやすさそのものとどう向き合うかの話になっていく。
 それは剣よりも長く、帳面よりも深い道だ。
 だが伊織は、もうそこから目を逸らす気はなかった。

(第六十九章につづく)

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