山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第七十四章

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――第七十四章 戻り帳の初め――

 戻り帳という名を口にしたあと、伊織はしばらく黙っていた。

 名をつけた途端、それはただの思いつきではなくなる。紙に書けば、さらに重くなる。点帳が“人の流れやすい窪み”を記すものなら、戻り帳は“人が踏みとどまった場所”を記すものだ。だが、踏みとどまったことを帳面に残すというのは、どこか気恥ずかしくもあった。

 お澪は新しい紙を一枚広げ、筆を持った。

「最初に、何を書きますか」

 伊織は囲炉裏の火を見た。

「牧野清之進」

 まず、その名を言った。

「采女に名を整えられた。だが、自分の手で書き直すと決めた」

 お澪は頷き、丁寧に書いた。

 ――牧野清之進。
 ――名を他人に整えられし後、自筆に戻す。
 ――恥を引き受けることをもって、名を洗う。

 その文字を見た時、伊織は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

「次は」

 お澪が問う。

 伊織は少し考えた。

「秋庭」

 横にいた秋庭が、はっと顔を上げた。

「私を、ですか」

「ああ」

「私は、戻ったとはまだ……」

「途中でもよい」

 伊織は静かに言った。

「途中を残さねば、戻るということが綺麗すぎる話になる」

 秋庭は何か言おうとしたが、結局黙った。
 その沈黙も、戻る途中の人間らしかった。

 お澪は筆を置き、少し考えてから書いた。

 ――秋庭。
 ――白紙に迷い、再び白紙のそばへ立つ。
 ――怖れを失わぬことをもって、戻る道とする。

 新兵衛が横から覗き込む。

「俺は?」

 志乃が笑った。

「新兵衛さんも戻ったんですか」

「俺は毎日戻ってるだろ。酒と喧嘩の方へ流れそうになるのを、飯で戻ってる」

 母が即座に言う。

「それは戻ってるんじゃなくて、腹が減ってるだけだよ」

 皆が笑った。
 小さな笑いだったが、それで十分だった。
 戻り帳は、こういう笑いの中で始まる方がよいのかもしれない。


 翌日、伊織は戻り帳の写しを一枚だけ持って、主水のもとへ向かった。

 主水はその紙を受け取り、じっと読んだ。
 長い沈黙があった。

「戻り帳、か」

「はい」

「誰の考えだ」

「私です」

 主水は伊織を見た。

「点だけを記せば、いずれ人を点でしか見なくなると思いました」

 伊織は言った。

「人が流れた記録だけでなく、戻った記録も要るのではないかと」

 主水は、しばらく何も言わなかった。
 やがて、机の上の点帳を開いた。
 そこには、杉戸、真壁、兵部、采女、牧野家客殿裏、内庫北裏――いくつもの点が記されている。

「点帳は、切るための帳だ」

 主水は言った。

「戻り帳は?」

「切りすぎぬための帳です」

 伊織が答えると、主水の目がわずかに動いた。

「よい」

 それだけだった。
 だが伊織には、その短い言葉で十分だった。

 主水は戻り帳の写しを自分の机の脇に置いた。

「これは預かる」

「はい」

「ただし、甘く使うな」

「心得ています」

「戻る者を記すことは、戻らぬ者を見逃すことではない」

「はい」

 主水は頷いた。

「ならば続けよ」


 その帰り道、伊織は一人で少し遠回りをした。

 町はいつも通り動いている。米屋は米を量り、魚屋は声を張り、紙屋は店先を掃く。人は皆、何かの点を抱え、何かの堰を持ち、それでも暮らしている。

 全てを疑えば、町は闇になる。
 全てを信じれば、流れは腐る。

 その間に立つこと。
 それがこれからの自分の役目なのだろう。

 橋の上で足を止めると、川が静かに流れていた。

 水は戻らない。
 だが人は戻る。

 昨日までは、その言葉を自分に言い聞かせていた。
 今日は少しだけ、信じられる気がした。


 寺へ帰ると、志乃が庭で洗濯物を干していた。

「兄さま、戻り帳はどうでしたか」

「主水殿が預かった」

「怒られませんでした?」

「怒られなかった」

「じゃあ、よかったです」

 志乃は素直に笑った。

 その笑顔を見て、伊織は思った。
 戻り帳の最初に、本当はこの寺のことを書きたいのかもしれない。
 母が飯を出し、志乃が待ち、お澪が紙を広げ、新兵衛が軽口を叩き、老僧が黙って火を見る。
 それが自分を何度も戻してきた。
 だがそれは、帳に書くにはまだ大きすぎる。
 大きすぎるものは、簡単に名をつけぬ方がよい。

 囲炉裏の前で、母が言った。

「今日は、少し顔が楽だね」

「そうか」

「うん。昨日より、人間に近い」

 新兵衛が笑う。

「お袋さん、言うことが厳しいな」

「厳しくしておかないと、すぐ紙になるからね」

 伊織は苦笑した。
 だが否定はできなかった。

 夜、お澪が戻り帳を開いた。

「次は、誰を書きますか」

 伊織は火を見た。

「まだ書かぬ」

「なぜですか」

「戻ったかどうかは、すぐには分からぬこともある」

 お澪は頷いた。

「では、余白にしておきます」

 余白。
 それもまた大事だ。
 白紙は危うい。
 だが、すべてを書き尽くさぬための余白は、人を救うこともある。

 伊織はその余白を見つめた。

 波瀾万丈の物語は、敵を追うだけではなく、戻る者の余白を残す物語へ変わり始めていた。
 まだ多くの点があり、流れがあり、見えぬ手が残っている。
 だが、戻り帳の一枚目がここにある。
 それだけで、闇の中に小さな灯が置かれたように思えた。

(第75章につづく)

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