山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第七十二章

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――第七十二章 若名の影――

 夜が完全に降りるのを待ってから、伊織、新兵衛、お絹の三人は牧野家の裏手へ向かった。

 主水の文は短かったが、そこにある理は重い。
 采女は逃がしてもよい。
 名を押さえよ。

 それはつまり、今夜の相手は立花采女一人ではない、ということだった。
 整える手を一つ縛ったところで、若様の名がすでに紙の上で別の顔を持ち始めているなら、その名の方を戻さねば意味がない。
 名は紙より重い。
 しかもいったん汚れれば、紙のように燃やして終わりにはならぬ。
 その重さを思うと、伊織はこれまでになく足の裏が冷えるのを感じた。

 牧野家の裏通りは、昼よりさらに静かだった。

 武家屋敷の夜は、町人地の夜と違う。
 戸が閉まると、音そのものが遠慮する。
 犬も低くしか鳴かず、下男の足音も砂を踏まずに行き過ぎるように聞こえる。
 客殿裏の通用口へ近づくにつれ、その静けさはさらに濃くなった。
 お絹が言うには、この辺りの下働きは、今夜はすでに早めに下がらされているという。
 片づけるつもりなのだ。
 整える手は、いつもそうやって先に“人の気配”から掃いていく。

「鍵は」

 伊織が小声で問うと、お絹は袖の中から小さな鉄の鍵を出した。
 昼の光で見た時よりも、夜目にはそれがやけに黒く見える。

「この鍵で、客殿裏の納戸へ入れます」

「納戸か」

 新兵衛が鼻を鳴らした。

「また、それらしい顔の場所だな」

「もとは本当に、客用の道具や布団を置く納戸でした」

 お絹は言う。

「でも二年ほど前から、采女様が“客殿の帳場も近い方がよい”と……」

 近い方がよい。
 そうやって人は、少しずつ都合を住まわせる。
 気づけば納戸が帳場になり、帳場が整えの口になる。
 大きな悪はいつも、最初は小さな“よい考え”の顔をしている。

 通用口に着くと、お絹が手を伸ばした。
 だが伊織は、その手首をそっと押さえた。

「震えている」

「……はい」

「無理をするな」

「でも」

 お絹は唇を噛む。

「若様のお顔を、あのままにはしておけません」

 その声に、伊織は少しだけ目を伏せた。
 戻る場所がある者は、自分一人ではなく“誰かの顔”を守りたいと思う。
 それもまた堰なのだろう。
 お絹にとって、牧野家の若様はそういう顔なのだ。

「なら、開けてくれ」

 お絹は頷き、鍵を差し込んだ。
 錠は小さく鳴り、あっさりと開いた。
 いままでどれほど多くの紙と名が、この戸を通ったのだろうかと思うと、その小さな音が妙に耳へ残った。


 納戸の中は、暗かった。

 だが暗いだけではない。
 紙の匂い、墨の匂い、そして薄く香の匂いがする。
 客殿に近いからか、それとも“客用”の顔を保つためか。
 どちらにせよ、その香がかえって不気味だった。

 お絹が慣れた手つきで小さな行灯の覆いを少しずらす。
 明るくしすぎぬためだろう。
 そのわずかな光で、部屋の中の様子が見えた。

 棚が三つ。
 文箱が二つ。
 書見台。
 若い武家の名で出したと思しき意見書の控え。
 そして、手本のように整えられた文章の断片。

 伊織はその一つを取った。

 筆は二種類ある。
 一つは若々しく、勢いがあるが荒い。
 もう一つは、それを少しだけ撫でて整えた筆だ。
 采女の手だろう。
 若様の書いたものを“少しだけ”整え、若名として通しやすくする。
 まさにそういう帳場だった。

「ひでぇな……」

 新兵衛が低く言った。

「名そのものを表具してやがる」

 伊織は何も言わなかった。
 言葉にすれば、怒りが先に立ちそうだったからだ。
 目の前にあるのは不正な文ではない。
 若い名を、あとで使いやすいように“育てる”ための工夫だ。
 育てる。
 整える。
 伸ばす。
 いくらでも善い言い方ができる。
 だからこそ始末が悪い。

「ここです」

 お絹が小声で言った。

 部屋の奥、障子一枚隔てた向こうに、さらに小さな机がある。
 そこに置かれた文の束は、ほかより薄い。
 おそらく、まだ若様の目を通っていない“下書き”なのだろう。

 伊織が近づき、一枚を開いた。

 その文頭に、こうある。

 ――牧野家嫡男・牧野清之進、恐れながら一言申し上げ候。

 若様の名。
 だが筆は若くない。
 采女の手だ。
 しかも本文の末尾には、別筆で“若様の気性に合わせて少しだけ荒く”と書き添えがある。
 ここまで来ると、もはや文を整えているのではなく、人の人格そのものを“演出”している。

「若様は、これをどこまで……」

 伊織が問うと、お絹は目を伏せた。

「最初の一、二通は、本当にご自分で書かれました」

「その後は」

「采女様が“お手数を省きましょう”と……」

 新兵衛が吐き捨てる。

「楽な方へ流したわけだ」

 だがそれを、若様だけの罪とは思えなかった。
 若い名である。
 家の中で期待され、見られ、早く役に立つよう求められる。
 そこへ“少し整えましょう”と言われれば、誰しも一度は頼りたくなるだろう。
 そこが点なのだ。
 人は水ではない。
 だが流れやすい窪みはある。
 若さもまた、その一つなのだろう。

 その時、廊下の向こうで足音がした。

 お絹の顔が凍る。

「采女様……!」

 伊織はすぐに行灯の覆いを戻した。
 部屋が再び暗くなる。
 新兵衛は障子の脇へ身を寄せ、お絹は納戸の陰へしゃがみ込む。
 足音は二つ。
 立花采女と、もう一人。

 障子の向こうから、落ち着いた男の声が聞こえた。

「今夜のうちに三つに分けます」

 采女だろう。
 柔らかいが、よく整った声。
 茶店で逃げた男の顔が、伊織の脳裏に蘇る。

「若様のお名は、一度だけ前へ出し、それ以後はしばらく引っ込める」

 もう一つの声が答える。

「引っ込めた理由は」

「病でよいでしょう。熱でも、胸でも」

 病。
 戻る場所へ閉じ込める理屈としては、便利すぎる。
 若い名にいったん働きをさせ、あとで病を理由に静める。
 そうすれば都合よく“整った若名”だけが残る。

「その間に、次を育てる」

 采女が言う。

 伊織の胸がざらついた。
 次。
 牧野清之進が一人では終わらぬということだ。
 若い名は、いくらでも替えが利く。
 そこまで来ると、もはや家一つの話ではない。
 “若い名”というもの全体を道具として見ている。

「もう一人は」

 奥の声が問う。

「まだ幼い。だが書の癖が素直です」

 采女が答える。

「二、三年あれば、十分に整います」

 伊織は、その声を聞いて歯を食いしばった。
 ここで踏み込まねばならない。
 この話を最後まで聞けば、かえって体が冷える。
 若い名を“育てる”理は、ここで断たねばならぬ。

 伊織は新兵衛へ目をやった。
 新兵衛は無言で頷く。
 その目には、もういつもの軽口はなかった。

「立花采女」

 伊織が障子を開けて踏み出した。

 部屋の空気が一瞬で凍る。

 采女が振り向いた。
 やはり、茶店で逃げたあの男だ。
 そしてその向かいにいたのは――若い武士だった。
 二十そこそこ。
 面差しにまだ幼さがある。
 だが衣は上等で、背筋もよい。
 牧野家の若様、清之進だろう。

 若様は、突然現れた伊織に目を見開いた。
 采女だけが、驚きのあとすぐに顔を整えた。
 整える手は、こういう瞬間まで整えるのだ。

「榊原殿」

 采女が言う。

「ずいぶん乱暴な入り方ですな」

「お前が名を乱暴に使うからだ」

 伊織が返すと、若様――清之進の顔が強ばった。

「何のことだ」

 若い声だった。
 だがそこに、本当に知らぬ者の戸惑いが混じっている。
 これが主水の言った“名を先に見よ”ということなのだろう。
 采女を押さえる前に、この若い名がどこまで汚されているかを見極めねばならぬ。

「若様」

 伊織は、采女ではなく清之進を見た。

「ご自身のお名で出た書付、すべてをご存じですか」

 清之進は一瞬だけ采女を見た。
 その視線だけで、ほぼ答えは出ていた。
 采女に頼っていたのだ。
 書き方を、順を、言い回しを。
 それ自体は罪ではない。
 だが頼る先が、この男だった。

「……采女が、整えてくれている」

 清之進が言う。

「整える、だけです」

「整えるだけで、人の名は別のものになる」

 伊織が言うと、采女が小さく笑った。

「若いお名は、元より揺れやすいものです。少し支えて差し上げるのは、家中のためでもありましょう」

「家中のためか」

 新兵衛が吐き捨てるように言った。

「てめぇの筋のためだろ」

 采女はその言葉には返さなかった。
 視線だけを伊織へ向ける。

「榊原殿。あなたももう分かっているはずだ。荒い文をそのまま通せば、若い名はすぐに裂ける。ならば先に整え、見苦しいところを省き、役目に耐える顔を作るしかない」

「それは、若様の顔ではない」

 伊織が低く言う。

「お前が作りたい顔だ」

 采女の目が、そこで初めて少しだけ細くなった。
 理で押し切れぬと悟った時の顔だ。
 だがすぐに、また整う。

「若様」

 采女が静かに言う。

「この方は、外から見た理を申しておられる。家の内は、家の内で守らねばなりませぬ」

 清之進が揺れる。
 若い。
 そこが痛いほど見える。
 家の内。
 外から見た理。
 そのあいだで、若い名は簡単に揺れる。
 だからこそ使いやすいのだろう。

 その時、お絹が納戸の陰から出た。

「若様!」

 清之進が振り向く。

「お絹……!」

「それは、若様のお顔ではございません」

 お絹の声は震えていたが、はっきりしていた。
 その一言は、采女のどんな理屈よりも清之進の胸へ届いたように見えた。

「お絹、お前」

 采女の顔に、初めてはっきりした苛立ちが走る。
 女中。
 下の者。
 そういう者が“顔”の話をしてくるのが、気に食わぬのだろう。

「若様が初めに書かれた文は、もっと乱れておられました」

 お絹は続ける。

「けれど、それは若様のお言葉でした。……いまの文は、整いすぎて、別の方のお顔になっております」

 清之進が、そこでようやく采女から目を離した。

「采女……」

 采女は、一度だけ深く息を吸った。
 そして低く言った。

「若様。乱れた言葉は、人を傷つけます。私はただ、それを防いでいるだけにございます」

「では、私が何を言いたいのか、お前は本当に知っているのか」

 清之進の声はまだ弱い。
 だが、若い名が初めて自分の中の堰を探っている声でもあった。

 采女はその問いに、初めて言葉に詰まった。
 たぶん、ここで初めて綻んだのだろう。
 若い名は流れやすい。
 だが同時に、いったん自分の顔を思い出せば、そこが堰になる。
 采女はそれを見誤っていたのかもしれない。

「若様……」

 采女が何か言おうとした瞬間、新兵衛が一歩前へ出た。

「もういい。整えるのはそこまでだ」

 采女は、そこで初めて明確に逃げ道を見た顔をした。
 障子。
 裏口。
 机の角。
 視線が一瞬でそこをなぞる。

 だが伊織は、それを見ていた。

「逃がさぬ」

 低く言う。

 采女が動く。
 短刀ではない。
 書付の束を机ごと払い落とす。
 散る紙。
 乱れる若様の視線。
 その隙に裏口へ。

 だが今夜の伊織は、その“散らして隙を作る”理にもう慣れていた。
 紙が散っても、名を見失わなければよい。
 伊織は采女の腕を掴み、後ろへ引いた。
 采女はなおも体を捻るが、新兵衛が足を払う。
 男の体が畳へ崩れた。

 紙が、客殿裏の床に散らばる。
 だが火はない。
 今夜は燃えない。

 采女は押さえ込まれたまま、なお声だけは整っていた。

「若様。ここで私を切れば、家の中に残る文はどうなります。お名はすでに幾つも出ております。私がいなければ、どれが本物でどれが手直しか、分からなくなりますぞ」

 その言葉は脅しだった。
 しかも真っ当な脅しだ。
 采女は、すでに若様の名の中に住みついている。
 だから自分を切れば、名の整理がつかぬ。
 そこまで来ていた。

 伊織は、その脅しを受けてなお、清之進を見た。

「若様」

 清之進の喉が上下する。
 若い。
 まだ決めることに慣れていない。
 だが今夜ここで決めねば、自分の名はこの先ずっと他人の手で整えられる。

「……私の文は」

 清之進が、ようやく言った。

「私の手で、もう一度全部見直す」

 采女が目を見開く。

「若様、それでは」

「遅れてもよい」

 清之進の声は震えていた。
 だがその震えの中に、初めて堰ができたのを伊織は見た。

「下手でもよい。乱れていてもよい。……それが私の名なら、私が背負う」

 その一言で、采女の顔から整いが剥がれた。
 整える手が、一番嫌う言葉だったのだろう。
 背負う。
 他人に整えさせず、自分の名を自分で背負う。
 そう言われると、采女の理は立つ場所を失う。

 お絹が小さく息を呑んだ。
 老いた理と若い名のあいだで、ようやく若い名が自分の顔を取り戻したのだ。

「立花采女」

 伊織が言う。

「今夜は終いだ」

 采女は、初めて本当に口をつぐんだ。


 主水のもとへ戻る時、清之進は自分から同行を願い出た。

「私の名のことなら、私も聞くべきです」

 若いが、正しいと思った。
 戻す場所とは、誰かが勝手に戻してくれる場所ではない。
 自分でも戻ろうとせねばならぬ。
 清之進がそこへ一歩足を出したのなら、それは大きい。

 主水は、牧野家の若様の顔を一度見てから、深くは何も問わなかった。
 ただ立花采女の処置を岡野へ任せ、清之進へ短く言った。

「お名を戻すには、時間が要る」

「はい」

「時間を惜しむな」

「はい」

「そして、お前の文は、お前の手で書け」

 清之進は深く頭を下げた。
 その姿はまだ頼りない。
 だが頼りなさの中に、今夜の客殿裏で生まれた小さな堰がたしかに残っていた。


 寺へ戻る頃には、夜もだいぶ更けていた。

 門をくぐると、囲炉裏の灯がまだ見える。
 戻る場所の火は、今日も消えていない。
 伊織はその光を見て、ようやく深く息を吐いた。

 志乃が眠そうな顔で出てきた。

「兄さま」

「まだ起きていたか」

「今日は、何だか起きていた方がいい気がして」

 その言い方に、伊織は少し笑った。
 理由のない予感。
 それもまた、人が持つ堰の一つなのかもしれぬ。

「若様の名は、ひとまず戻るかもしれぬ」

 伊織がそう言うと、志乃はよく分からぬままに頷いた。

「それは、よかったです」

 それで十分だった。
 紙の理も、名の重さも、全部分からなくていい。
 戻る方へ向いたなら、それでよい。

 囲炉裏の前に座ると、母が湯を差し出した。

「今日は、少し顔が柔らかいね」

「そうか」

「誰かが、自分の顔を取り戻したんだろ」

 伊織は湯呑を受け取り、その温かさを手に感じながら頷いた。

「……ああ」

 波瀾万丈の物語は、紙や箱や札だけでなく、“名”もまた戻せるのだという、小さな手応えを初めて持った。
 もちろん、まだ終わりではない。
 整える手は他にもいるかもしれぬし、点帳はまだ増えていく。
 だが、人は水ではない。
 堰を持ち、戻る場所を持ち、自分の名を背負うこともできる。
 そのことを、今夜の客殿裏でようやく一つ、確かに見たのだった。

(第73章につづく)

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