藤沢周平を模倣した小説『風の残響』第一章・第二章

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第一章・藪の中の男

 春まだ浅い江戸の外れ、品川宿から西へ半里ばかり離れた、湿り気の多い藪原のあたりに、その男はひっそりと暮らしていた。

 男の名は柿本新九郎。齢は三十五を越えたばかり。かつては江戸留守居役として名を馳せた但馬守家中の中堅士であったが、今は浪人。浪人とはいえ、木賃宿に身を寄せるような困窮ぶりではない。寂れた裏長屋に一間を借り、昼なれば藪道を散歩し、夜なれば縁側に腰を下ろして月を眺めていた。

 その姿に、剣の遣い手としての匂いを感じ取る者は少なかった。肩はやや下がり、着流しの帯の結びも緩く、どこか日和見主義を思わせる。近隣の者からは「柿本の旦那」と穏やかに呼ばれていたが、実のところ、新九郎の過去を知る者は、この界隈には一人もおらぬ。

 ある日の午後、竹藪に春の風が鳴っていた。

 その音に混じって、ぱたぱたと駆けてくる草履の音がした。見ると、長屋の子どもらの面倒をよく見る魚売りの娘、おはなである。齢十五、早くも母親代わりとなって弟妹を育てている苦労人だが、笑顔には曇りがない。

「新九郎さま、ご在宅ですか」

 おはなが戸口で声をかけると、中から間延びした返事があった。

「おう、入ってよいぞ」

 戸をがらりと開けると、新九郎は畳の上で胡坐をかいて、何やら細かな字をしたためていた。

「また書き物ですか?」

「ああ、いや……昔の手紙を整理していたのだ。どうした?」

「これ、お届けもの。向かいのご隠居さまから。うどんを打ったからって」

 そう言って、布巾にくるまれた椀を差し出す。受け取ると、かすかに昆布出汁の香りがした。

「いつもながら、ありがたいな」

「新九郎さまがご近所のお世話をしてくださるからですよ。そう言ってました」

 新九郎は微笑んだ。その笑みはまるで、若いころの剣豪の面影など一切感じさせぬ、温和なそれだった。

 だが、その晩のことだった。

 町外れの藪道で、旅人が斬られて死んでいた。額に刃物の痕があり、財布と旅装束は奪われていなかったことから、物盗りではないとされた。町役人は騒ぎ、村役は縄を張ったが、誰も犯人の目星がつかぬ。

 その噂を耳にした新九郎は、ただ黙っていた。風が吹いていた。竹の葉がさやさやと鳴った。

「妙だな……」

 新九郎の呟きに、おはなは顔を上げた。

「なにがです?」

「いや。額を斬るというのは、よほど熟練した者でなければ、まず無理だ。しかも一撃で仕留めている」

 おはなの顔に、わずかな怯えが走った。

「……じゃあ、それは剣の遣い手、ということですか?」

「かもしれん。あるいは、それ以上の……」

 その言葉に、おはなは背筋を伸ばした。新九郎は、しばらく天井を見つめてから、ふっと立ち上がった。

「少し、様子を見てこよう」

「危ないです、夜に外を出歩くなんて」

「すぐ戻る。心配するな」

 夜の藪道は、濃い墨を流したように暗かった。新九郎は足音を忍ばせて、かつての剣客の歩法で進んだ。四方に気配を張ると、獣のような重苦しい空気が肌を這った。

 その時だった。

 風に乗って、すうと忍ぶような殺気が流れた。新九郎は、反射的に身体を沈め、腰の刀に手をかけた。

「……出ろ」

 誰もいない闇に向かって言うと、しばらくの沈黙ののち、藪の奥から音もなく一つの影が現れた。

 黒装束に身を包み、顔には布を巻いている。手には、打ち合いに特化した長めの打刀。

 新九郎の目が細められた。

「なるほど。殺すつもりで来たな」

 影は何も言わず、地を蹴った。新九郎もまた、柄を引いた。瞬間、二つの身影が交わり、夜の闇に鋭い音が弾けた。

 ──一拍ののち、影の男がぐらりと揺れて、膝をついた。

 喉元には、わずかに血が滲んでいた。

「なぜ、旅人を殺した」

 新九郎の問いに、男はくぐもった声で言った。

「……あの男は……探っていた。お前のことを……」

「俺の?」

 男はそれ以上、何も言わなかった。

 倒れた男の背を見て、新九郎は長く息をついた。

 ――やはり、来たか。

 その言葉が、口に出すまでもなく、心の底でくぐもって響いた。

第二章・夜風に血の匂い

 逃げるように藪を抜け、湿った地面を踏みしめて新九郎は走った。肩の辺りが鈍く痛んでいる。先ほどの打ち合いで、相手の刃がほんのわずかにかすった。深手ではない。だが血がじわりと滲み、着物の肩口を濃く染めていく。

 「……しくじったか」

 その言葉は、相手に向けたものではなく、自身に向けた嘆息だった。

 新九郎は、竹の葉が密に絡み合った暗がりの中、ぬかるんだ小道をすべるように駆けた。振り返る。追ってくる気配はない。闇はすでに、影の男を呑みこんでいた。

 やがて裏長屋の明かりが見えた。

 扉を開けると、燈明の明かりが障子の向こうから漏れていた。おはなだ。こちらの心中を察したかのように、戸を開ける音と同時に彼女が顔を覗かせた。

「新九郎さま!」

 その声に焦りと安堵が入り混じる。

「……大丈夫だ。かすり傷だ」

 そう言いながら、彼は縁側に腰を下ろした。おはなはすぐに水を汲み、古い麻布を持ってきた。

 傷は右肩の外側に、斜めに浅く走っていた。おはなが慎重に布を押し当て、血を拭う。

「誰に、やられたんです」

「顔を隠していた。だが、剣の腕はただ者ではない。あれは、ただの賊ではないな」

 おはなの手が止まった。

「……じゃあ、あの旅人を斬ったのも?」

「同じ奴だろう。あるいは、同じ者たちの一味か」

 おはなは息を呑み、うつむいた。新九郎はしばし黙り、夜の静けさに耳を澄ませた。外では、犬が遠吠えをしている。

「妙なことを言った。あの旅人が俺のことを探っていたと」

「……誰が?」

「刺客だ。俺を狙った理由は、それだけではないはずだがな」

 新九郎は再び肩に手を当てた。痛みはあるが、動かぬほどではない。

 この傷の奥に、何かがある。そう感じた。

 ――まるで、過去が這い寄ってくるように。

 夜が明けると、町は平穏そのものだった。魚屋が軒を開け、行商人が声を張る。だが新九郎の胸には、重いものがのしかかっていた。あの剣の冴え、狙いの確かさ。そして何より、「俺を探っていた」という言葉。

 誰が、何のために――。

 探索の端緒を掴むには、まずは斬られた旅人の素性を知ること。だが、役人たちは既に手を引きかけていると聞いた。身元不明、所持金あり、敵討ちの気配もない。となれば、ただの「変死」として扱われるだろう。

 ならば自分で探るしかない。

 新九郎はかつて仕えた但馬守の家中にいたころの、古い伝手を頼り、品川宿近くの町役人・滝口源之助を訪ねた。源之助は五十近い武骨な男で、世辞も茶も出さないが、筋を通す律義者だった。

「……まだ生きておったか、柿本の旦那」

「ようやくな。頼みがあって参った」

 源之助は、顎に手を当ててしばし考えたのち、渋々ながらも旅人の検分記録を見せてくれた。

 そこには「関宿の藩士と思しき風体」「名乗らず」「懐に文なし」「刀は上総守の銘あり」とあった。

「上総守……聞いた名だ」

「堀川国広の系統だ。主に上方で流行った銘だが、江戸にも流れとる。上物だ。旅人には似合わぬな」

 新九郎は記録を目で追いながら、ふと眉をひそめた。

「この宿帳……名前が消されているな」

「誰かが拭い去ったのだ。筆跡もねえ。まるで最初から記されていなかったようにな」

 その言葉に、背中を冷たいものが走った。確かに、名を消すなど、ただの殺しではない。背後に知恵のある者がついている。

「その名を、覚えていた者は?」

「番頭がぼやいていた。『越前屋の御用達の誰それ』だったようだと。詳しくは知らん」

「越前屋……呉服問屋のか?」

「そうだ。芝口の越前屋に聞いてみるがよい。だが、深入りはするなよ、新九郎」

「心得ている」

 礼を述べて役宅を出たとき、陽は高く、春の匂いが漂っていた。だが、その陽光の下にも、影は存在する。

 芝口の越前屋は、大店らしく二階建ての土蔵造りで、表には立派な暖簾がかかっていた。帳場にいた番頭風の男に名を告げると、警戒を滲ませつつも、奥へ通された。

「亡くなった方は、加納伊織と申されました」

「加納伊織……」

 思い出のどこかで、その名がひっかかる。

「確かに、我が店とは旧知の間柄。越前国の小藩の御用人を務めておりました。今回も、藩の命で江戸に上ってこられたと聞いております」

「何の用向きで?」

 番頭は、言葉を選ぶようにして言った。

「聞くところによれば、旧幕臣の動きを調べていたとか」

 旧幕臣――新九郎の胸がひやりとした。己もまた、その一人だった。

「何かに気づいたのだろうな。ゆえに殺された」

 誰が加納を殺したのか。そして、なぜ自分を狙ったのか。

 この陰謀には、何か大きなうねりがある。新九郎の直感が告げていた。

 彼は、番頭に礼を述べて店を出た。人々が行き交う通りの、そのざわめきの奥に、目に見えぬ殺気がひそんでいる気がした。

 ──始まったのだ。

 自ら葬ったと思っていた過去が、風のように戻ってくる。

 新九郎は、左肩の傷を押さえた。

 血の匂いは、まだ消えていない。

(つづく)

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