佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第九十六章・第九十七章

目次

第九十六章 灯の臨界──影が「もう一歩」を数えた夜

 夜、少年は自分の胸が、ふいに“熱くなりすぎる瞬間”を持つことに気づいた。

 灯が戻らない日が続いている。

 沈黙も、残響も、手触りも、どれも「確かめない確かさ」の側へ寄っている。

 それは、穏やかだ。

 穏やかなのに、ある瞬間だけ、胸の内側が急に熱を増す。

 それは泣きたい熱ではない。

 怒りの熱でもない。

 もっと乾いた、境界線の熱だ。

 ここを越えたら、戻れない。

 そんな匂いのする熱。

 少年は布団の上で、掌を握りしめて、ゆっくり開いた。

 掴まない手。

 触れない理解の手。

 それらは覚えた。

 だが、覚えた手は、時に“もう一歩”を踏みたがる。

 確かめたくなる。

 言葉にしたくなる。

 形にしたくなる。

 ——臨界ってね、

 ——壊れる寸前じゃなくて、

 ——変わる寸前なんだよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その言葉に救われながらも、怖かった。

 変わるというのは、今までの自分が終わることでもある。

 終わることは、別れに似ている。

 別れは、いまだに怖い。

 

  • ■影の道に「一歩だけ濃い跡」が残る

 夜の影の道を歩くと、

 いつもより濃い足跡がひとつだけあった。

 連続ではない。

 点のように、

 そこだけ深い。

 少女が言った。

「“臨界の一歩”だね」

「誰の?」

「誰でもいい。

 今日、もう一歩だけ踏み出した人の」

 少年はその跡を見下ろした。

 踏み出した瞬間、

 その人は何を考えたのだろう。

 勇気か、焦りか。

 それとも、ただの癖か。

「臨界の一歩はね、

 後ろの足がまだ地面にあるんだよ」

 少女が言う。

「だから、

 戻れない一歩じゃない。

 戻るかもしれない一歩」

 少年は、その言葉の優しさを胸に入れた。

 戻れないと思うから怖い。

 戻るかもしれないと思えたら、

 一歩は試しになる。

 

  • ■黒板の字が「界」を二重に描いた

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■界

 ただし、その枠線が二重だった。

 境界が二枚ある。

 越えたつもりでも、まだ越えていない。

 それが臨界の感覚だ。

 教員は言った。

「今日は、境界について考える」

 少年の胸の内側が、

 その言葉に合わせて、静かに熱を持った。

「境界は、

 外と内を分けるものだ。

 だが、臨界は違う。

 臨界は、

 同じ場所が別の場所に変わる瞬間だ」

 少年は思った。

 灯が戻らない家が、

 空っぽの家ではないように。

 灯がいない胸も、

 無ではない。

 同じ胸が、別の胸へ変わる。

「戦争は、

 境界を壊した。

 生と死の境界を壊し、

 大人と子どもの境界を壊し、

 善と悪の境界を壊した」

 教室の空気が冷たくなる。

 境界が壊れるのは怖い。

 だが、境界が硬すぎても、人は折れる。

「生活は、

 境界を作り直す」

 教員は続けた。

「作り直すというのは、

 元に戻すことではない。

 少し形を変えて、

 自分の呼吸に合うようにすることだ」

 少年は紙に書いた。

 ——節子を、

  “守る対象”から

  “消えない生活”へ変える境界

 少女は紙を見せた。

 ——母の沈黙を、

  “拒絶”から

  “預かり”へ変える境界

 臨界は、壊れる寸前ではない。

 言い換えの寸前だ。

 

  • ■炊き出しの列で「最後の一杯」が臨界になる

 夜の炊き出しで、鍋の底が見え始めた。

 あと一杯分。

 列の最後にいるのは、老人だった。

 青年が柄杓を沈め、

 ゆっくり掬い上げた。

 その瞬間、列の空気が変わった。

 最後の一杯は、争いの臨界になり得る。

 誰かが声を上げれば、境界が壊れる。

 だが、誰も声を上げなかった。

 青年は、老人の椀に半分だけ注いだ。

 残り半分を、鍋の横の“預かり皿”に移した。

「明日、来る人のために」

 青年はそう言っただけだった。

 老人は半分を受け取り、

 預かり皿を見て、

 黙って頷いた。

 境界は壊れなかった。

 最後の一杯は、

 奪うものではなく、

 分けて預かるものへ変わった。

 少年の胸の熱が、

 そこでふっと落ち着いた。

 臨界の一歩は、争いではなく、作法の一歩で越えられる。

 

  • ■釜戸の前で、胸が臨界を越えそうになる

 家に戻ると、釜戸の前は静かだった。

 灯は戻らない。

 だが、少年の胸は、今日は熱い。

 少年は灰の上に手を伸ばしそうになった。

 触れない理解をやめ、

 確かめてしまいたくなった。

 ——戻ってこい。

 ——今夜だけでいい。

 そんな命令が喉元まで上がってくる。

 少女が言った。

「今、臨界だね」

 少年は、手を止めた。

 止めた瞬間、胸の熱が、別の熱へ変わった。

 命令の熱から、

 見送る熱へ。

「呼び戻さないって、

 こんなに熱いんだな」

 少年の声は震えていた。

 少女は頷いた。

「うん。

 呼び戻すほうが簡単。

 見送るほうが、熱い」

 少年は手を引っ込め、掌を膝の上で開いた。

 掴まない手。

 触れない手。

 その手が、今夜は、見送る手になる。

 

  • ■影の輪で「もう一歩」を数える

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪の切れ目の外側に、

 小さな点が一つだけ打たれていた。

 道ではない。

 席でもない。

 ただの点。

 少女が言った。

「“もう一歩”の目印だよ」

「踏むのか?」

「踏むかもしれないし、踏まないかもしれない。

 でも、数えた」

 少年は、その点を見つめた。

 数えられた一歩は、命令ではない。

 認識だ。

 無自覚に越えれば壊れる。

 自覚して見つめれば、変わる。

 中心の空席は、黙って空いている。

 灯の席は触れない線で守られている。

 輪は閉じていない。

 それでも、輪は保たれている。

 少年は縁に腰を下ろし、背中を影に預けた。

 胸の熱は、まだある。

 だが、それは壊す熱ではない。

 変わる熱だ。

 ——明日、

 ——一歩踏んでもいい。

 ——踏まなくてもいい。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は頷いた。

 臨界は、越えなければならないものではない。

 越える準備を、準備として置けるものだ。

 影が「もう一歩」を数えた夜。

 少年は、数えられた点を見つめながら、

 自分の熱が、自分を焼かないことを信じようとした。

 灯は戻らない。

 だが、戻らないことが、終わりではない。

 同じ胸が、別の胸に変わりつつある。

 臨界の熱の中で、

 少年は静かに息をした。

第九十七章 記録の温度──影が「書く手」を許した朝

 朝、少年は目覚めると、胸の奥の熱が昨夜より一段低くなっているのを感じた。

 臨界は、越えるか越えないかの断崖ではなかった。

 熱が一夜で消えるわけでもない。

 ただ、熱の持ち方が変わる。

 壊す熱から、保つ熱へ。

 命令の熱から、選ぶ熱へ。

 少年は布団の中で、しばらく手を見つめた。

 これまでの手は、掴まないために開かれてきた。

 触れないために止められてきた。

 だが今日は、手が“何かをする”形を探している。

 掴むためではない。

 呼び戻すためでもない。

 書くためだ。

 書くことは、灯を形にしてしまう危険を含む。

 言葉にすれば、節子は物語になってしまう。

 物語になれば、少年の罪滅ぼしの道具になる。

 その怖さは消えていない。

 それでも、書きたい。

 書かなければ、生活が溢れて、腐って、夜の中で同じところを回り続ける。

 少年は薄い紙切れを探し、炭の欠片を拾った。

 鉛筆はない。

 チョークは学校にある。

 だが炭なら、家の中にも残っている。

 ——記録はね、

 ——灯を捕まえるためじゃないよ。

 ——逃がさないためでもない。

 ——温度を、置いておくためなんだよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、初めてその言葉に素直に頷いた。

 灯が戻らない今だからこそ、

 戻らない灯を“戻らないまま”保つ方法が必要なのだ。

 

  • ■影の道に「書きつけられた線」があった

 学校へ向かう影の道の途中、瓦礫の上に白い線が引かれているのを見つけた。

 石灰か、チョークか。

 誰かが歩きやすいように、危ない石を避けるように、目印をつけたらしい。

 少女がその線を見て言った。

「書いた道だね」

「道も書けるのか」

「うん。

 書くと、道は“記憶”になる」

 少年は線を跨いだ。

 線は薄く、雨が降れば消える。

 だが、消える前に、誰かの足を救う。

 それで十分だ。

 永遠の記録でなくても、生活の記録は役に立つ。

「灯もね、

 今日は“書かれたがってる”」

 少女が言った。

 少年は胸に手を当てなかった。

 確かめない確かさのまま、

 書く手だけを持とうとした。

 

  • ■黒板の字が「記」で始まり「録」で終わらない

 教室に入ると、黒板には二字が書かれていた。

 ■記 録

 だが、「録」の字の最後の縦線が途中で止まっている。

 記録は、完成しない。

 完成した瞬間、生活が止まるからだ。

 教員は静かに言った。

「今日は、記録について話す」

 珍しく、“考える”ではなく“話す”と言った。

 それだけ、この題が危ういのだろう。

「記録は、

 正しさのためにするものではない。

 裁くためでもない。

 褒めるためでもない」

 少年の胸が、少し楽になった。

 正しく書こうとした途端、記録は責めになる。

「記録は、

 温度の置き場所だ」

 教室が静まる。

「戦争は、記録を奪った。

 日記を燃やさせ、

 手紙を検閲し、

 声を号令に変えた」

 少年は、節子の字を思い出した。

 小さな紙に描いた丸い絵。

 あれも記録だった。

 言葉にならない温度の置き場だった。

「だから戦後の生活は、

 自分の温度を置く場所がないまま続いた」

 教員は、途中で止まった「録」の縦線を指した。

「今日は、この縦線を伸ばさない。

 伸ばさないで、

 自分の温度を一つだけ書け」

 少年は紙に書いた。

 短い言葉で。

 ——節子の頬の冷たさと、まだ残っていた息

 少女も書いた。

 ——母の背中の硬さと、朝の湯気

 二人の記録は、正しさではなく温度だった。

 誰かが読んで納得する必要はない。

 自分が置ければいい。

 

  • ■炊き出しの列で「記録が回覧される」

 昼の炊き出しで、青年が小さな板切れを持ち出した。

 板には、炭で字が書かれている。

 「今日の分、ここまで」

 「明日はここから」

 誰かがそれを見て頷き、

 板は次の人へ回る。

 声で言えば喧嘩になることも、

 板に書けば喧嘩にならない。

 書いた字は冷たい。

 冷たいから、熱が暴れない。

 少年は、記録が“人を黙らせる道具”にもなることを知っていた。

 だが今日見た記録は違った。

 暴れないための柵ではなく、

 迷わないための標だ。

 ——温度を奪わない記録。

 それがある。

 

  • ■釜戸の前で、少年が「一行だけ」書く

 家に戻ると、少年は釜戸の灰のそばに座り、紙切れを膝に置いた。

 炭を握る手が少し震える。

 書けば、節子を捕まえてしまう気がする。

 捕まえたくないのに、残しておきたい。

 少女が隣に座り、何も言わずに見ていた。

 励ましも、急かしもない。

 その沈黙が、書く手を許した。

 少年は一行だけ書いた。

 ——灯は戻らない。だが、空席は温かい。

 書いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

 痛みは罪の痛みではなく、

 新しい作法を覚えるときの筋肉痛に似ていた。

 少年は二行目を書こうとしたが、やめた。

 一行で十分だ。

 記録は量ではない。

 温度の置き場所だ。

 

  • ■影の輪で、書くことが「別れ」にならない

 夜、影の輪へ向かうと、輪の切れ目の外側の点——“もう一歩”の目印が、まだ残っていた。

 踏まれていない。

 数えられたまま残っている。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 書いても別れにならなかったよ」

 少年は頷いた。

 書いた一行は、節子を閉じ込めなかった。

 むしろ、節子が戻らないことを“許した”行だった。

 許す行は、捕まえる行ではない。

 輪の中心の空席は黙っている。

 灯は座らない。

 だが、影は温度を保ち、

 少年の一行は、胸の内側に小さな棚を作った。

 そこへ、今日の温度を置く。

 置いたら、手を離す。

 掴まない。

 持ち上げない。

 ただ置く。

 少年は輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預けた。

 胸の奥に灯はいない。

 だが、記録の温度がある。

 それは、残響とも沈黙とも違う。

 自分の手が置いた温度だ。

 ——明日も、一行でいい。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は目を閉じ、

 書く手の重さを、初めて肯定した。

 焼け跡の夜は冷たい。

 だが、冷たさの中で、炭の黒だけが確かに残る。

 黒は、光ではない。

 けれど、温度を置くには十分だった。

(第九十八章につづく)

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