第九十二章 灯の片道切符──影が「戻らない」を責めなかった日
朝、少年は胸の奥で、灯がひとつだけ「片道」を選んだ気配を感じた。
行き先が仮置きされ、途中が居場所になり、輪が閉じないまま保たれている。
その状態が続くと、ふいに、灯は“試しに戻らない”という選択をすることがある。
戻らない。
それは別れの宣言ではない。
消えることでもない。
ただ、今日一日、胸へ帰らないというだけの試みだ。
少年は布団の上で、鳩尾に手を当てそうになって、やめた。
確かめれば、戻らせたくなる。
戻らせたくなれば、命令になってしまう。
命令になれば、灯はまた役割の名前を着せられる。
——片道ってね、怖いんだよ。
——でも、怖いままやってみるのも、生活なんだよ。
節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、返事の代わりに、ゆっくり息を吐いた。
灯を自分の胸の支えにするのはもうやめる。
そう決めたわけではない。
ただ今日は、灯が胸を支えなくても息ができるかを試す日らしかった。
- ■影の道に「片道だけ濃い足跡」がついていた
学校へ向かう影の道で、少年は片側だけ濃い足跡の列を見つけた。
行きの足跡は深い。
帰りの足跡がない。
どこかへ行ったきり戻っていない。
だが、それは失踪の足跡ではない。
荷を運ぶ人が、別の道で帰っただけかもしれない。
帰りが消えたのではなく、帰り道が変わっただけかもしれない。
少女が足跡を見て言った。
「片道の跡だね」
「戻らないのか」
「戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
でも “戻らなかった”ってだけで、
間違いにしなくていい日もある」
少女はそう言って、足跡の先を目で追った。
足跡は瓦礫の陰で消えている。
消えたというより、道が別れたのだ。
戻らない線と、戻る線は、同じ場所から始まらないことが多い。
少年は胸の奥を確かめなかった。
灯が今どこにあるのか、
今日は知らなくていい。
知らないことで、灯は自由になる。
- ■黒板の字が「片」を半分で止めた
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■片
道の字も、切符の字も続かない。
片、だけだ。
教員はチョークを持ったまま、しばらく黙ってから言った。
「今日は、“片方だけ”について考える」
子どもたちは首をかしげた。
片方だけ。
それは、欠けている状態として扱われがちな言葉だ。
「戦争は、
片方だけを嫌った。
戻らない者は死者にし、
残った者は未完成にした」
教室の空気が、ゆっくり重くなる。
「だが生活は、
片方だけでも成り立つ日がある」
教員は黒板の「片」の字を指でなぞった。
「片道で行った仕事。
片耳で聞いた噂。
片手で抱えた子ども。
それでも、その日は進んだ」
少年は、節子を片腕で抱えた夜を思い出した。
もう片方の腕は、空いていた。
だが、その空きがあったから、
転ばずに歩けた夜もあった。
「今日は、“片方だけでよかったもの”を書け」
少年は、しばらくペンを止めてから書いた。
——節子を、
連れて行かなかった道
連れて行かなかった。
それは冷酷ではなく、
あのときの自分にできる唯一の判断だった。
少女は紙を見せた。
——母に、
全部は話さなかった夜
話さなかった片方が、
母を守ったこともある。
- ■炊き出しの列で「帰らない鍋」が残る
昼の炊き出しでは、
いつもの時間になっても、
一つの鍋が片付けられなかった。
「今日は、この鍋は戻さない」
青年が言った。
火は落とされ、
蓋も閉められている。
だが、倉庫へ運ばれない。
「夜、別の場所で使う」
理由はそれだけだった。
戻さない鍋は、怠慢ではない。
次の仕事のための移動だ。
少年は、その鍋を見て、
戻らない灯のことを思った。
戻らないから消えるのではない。
別の場所で、別の役目をするだけだ。
胸の奥が、
少し軽くなった。
- ■釜戸の前で、灯の「空席」が温かい
家に戻ると、
釜戸の灰の上に、
ひとつ空席があった。
灯が座っていた場所だ。
だが、冷えていない。
まだ温度が残っている。
「行ったね」
少年が言うと、
少女は頷いた。
「うん。
でも、消えてない」
少年はその空席に触れなかった。
温度を確かめることもしなかった。
空席は、
触られないことで、
ちゃんと空席でいられる。
「戻らないって、
冷たくなることじゃないんだね」
少年の言葉に、
少女は少し考えてから言った。
「うん。
冷たくなるのは、
無理に戻させたとき」
少年は、
節子を何度も心の中へ引き戻そうとした日々を思い出した。
そのたびに、
灯は冷えていった。
戻らないことを許した今日は、
空席が温かい。
- ■影の輪で「戻らない道」が一本だけ光る
夜、影の輪へ向かうと、
輪の切れ目から、
一本の道が外へ伸びていた。
昨日まであった戻り道は、
今夜は描かれていない。
それでも、不安はなかった。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
戻らない道を一本だけ残したよ」
少年は、その道を見つめた。
一本道だ。
だが、暗くない。
影が、ちゃんと道の縁を照らしている。
——戻らないなら、
——せめて、
——怖くない道を。
節子の声が、
そう言った気がした。
少年は輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預けた。
胸の灯は、
今日は戻らない。
だが、胸は空っぽではない。
空席の温度。
途中の記憶。
預かりの時間。
それらが、
胸の内側を支えている。
——戻らない日があっても、
——生きていける。
その事実を、
少年は今日、
初めて自分に許した。
焼け跡の夜風が、
一本の道をなぞって吹く。
灯は、その先で、
何かを照らしているだろう。
少年は、
呼び戻さなかった。
追いかけなかった。
片道切符の日は、
誰も責めないまま、
静かに終わった。
第九十三章 灯の残響──影が「戻らない音」を聴いた朝

朝、少年は目を覚ますと、胸の奥に音だけが残っているのに気づいた。
灯そのものは戻っていない。
温度も、輪郭も、位置もない。
あるのは、昨夜、灯が通っていったときに空気が擦れた、あの残響だ。
音は、形を持たない。
掴めない。
抱えられない。
だが、確かにそこにあったことだけは、否定できない。
少年は布団の中で、しばらく呼吸を整えた。
灯がないと息ができないわけではない。
灯がないと生きられないわけでもない。
ただ、灯があった頃の呼吸の仕方が、身体に残っている。
——音だけ残すって、
——いちばんやさしい別れ方なんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
声というより、声が去ったあとの空気の揺れだった。
- ■影の道に「音の通り道」だけが残る
学校へ向かう影の道は、いつもより静かだった。
足音が、やけに遠くまで届く。
瓦礫を踏む音も、
布の擦れる音も、
ひとつひとつが、道に長く残る。
足跡は薄い。
だが、音だけは消えない。
誰かが通ったという事実が、
耳の奥に残り続ける。
少女がぽつりと言った。
「今日は、灯の音がするね」
「姿はないけどな」
「うん。
でも、通った音は消えない」
少年は、昨日見た一本の道を思い出した。
戻らない道。
そこを灯が通ったとき、
きっと音だけが、地面と影に残ったのだ。
「音が残るって、
帰り道がないってことか?」
少女は首を振った。
「違うよ。
音は、帰らなくても聞ける」
少年は、その言葉の意味をゆっくり噛みしめた。
戻らなくても、
思い出さなくても、
呼び戻さなくても、
音は勝手に届く。
- ■黒板の字が「響」で止まった
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■響
続く字はない。
反響の「反」も、
残響の「残」も書かれていない。
教員は窓の方を向いたまま言った。
「今日は、“残った音”について考える」
教室の外で、
誰かが桶を落とす音がした。
がん、と乾いた音がして、
しばらく空気が震えた。
「音はな、
出した瞬間より、
消えかけのほうが長い」
少年は胸の奥が、
その言葉に反応するのを感じた。
「戦争は、
大きな音ばかり残した。
爆発。
号令。
泣き声」
教員の声が低くなる。
「だが、生活が残した音は、
もっと小さい」
鍋の蓋。
布団を直す音。
呼吸。
寝返り。
「それらは、
姿が消えても、
耳に残る」
少年は紙に書いた。
——節子が眠る前に、
喉を鳴らした音
あれは、
生きている音だったのか、
消えかけの音だったのか、
今も分からない。
だが、耳の奥には残っている。
少女は紙を見せた。
——母が夜中に、
台所で皿を置いた音
言葉はなかった。
だが、
あの音で、
母がまだ起きていることだけは分かった。
- ■炊き出しの列で「声を出さない合図」が巡る
昼の炊き出しでは、
今日は誰も大きな声を出さなかった。
「次」
「はい」
「足りない」
そうした言葉が減り、
代わりに、
椀を置く音、
鍋を叩く音、
足を引く音が、
合図になっていた。
青年が鍋を一度だけ叩く。
それで、
列が半歩前へ進む。
言葉よりも、
音のほうが正確だった。
言葉よりも、
責める余地がなかった。
少年は、そのやり取りを見ながら思った。
灯が戻らなくても、
生活は続く。
声を失っても、
音が残るからだ。
- ■釜戸の前で、灯のいない音を聞く
家に戻ると、
釜戸の前は、いつもより静かだった。
灯が揺れる音がない。
熱がはぜる気配もない。
だが、
灰を踏む音が、
いつもよりはっきり聞こえる。
少年は、
釜戸の前に座り、
ただ耳を澄ませた。
何も起きない。
何も現れない。
それでも、
昨日までここにあった灯の、
動いた音、
滲んだ音、
座った音が、
重なって聞こえる気がした。
「いないのに、
うるさいな」
少年が言うと、
少女は小さく笑った。
「残響はね、
姿より長生きするんだよ」
少年は、
灯を戻そうとしなかった。
音があるなら、
それでいいと思えた。
- ■影の輪で「音だけの席」が残る
夜、影の輪へ向かうと、
中心の空席は、
相変わらず空いたままだった。
だが、
輪の中に、
かすかなざわめきがある。
誰も動いていない。
誰も話していない。
それでも、
灯が座っていたときの、
あの微かな揺れの音が、
影の内側に残っている。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
灯の席を、音だけで残したよ」
少年は、
その言い方が気に入った。
形を残さない。
場所も占めない。
ただ、
通ったことだけを残す。
——それで、十分だよ。
節子の声が、
風と一緒に聞こえた気がした。
少年は、
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預けた。
胸の中に、
灯はいない。
だが、
灯があった頃の呼吸のリズムが、
身体に残っている。
それは、
失った証ではない。
生きていた証だ。
音は、
消えながら、
人を支える。
戻らない灯は、
戻らないまま、
少年の生活の中に、
静かな響きを残していた。
(第九十四章につづく)

コメント