第九十章 灯の行き先──影が「別れ」を急がせなかった朝
朝、少年は起き上がる前に、胸の奥で「行き先」という言葉が転がる音を聞いた気がした。
耳で聞いたのではない。
鳩尾のあたりで、灯が小さく向きを変えたときに出る、あの微かな摩擦の感触が、言葉の形をして届いただけだ。
預かる。
返礼する。
言わないで済ませる。
それらはどれも、灯を“ここに置く”ための作法だった。
だが、置く作法が整ってくると、次にやってくるのは、どうしても「行き先」の問題になる。
灯は、いつまでも胸の中に住まない。
影の輪の席も、永遠ではない。
釜戸の灰の上に並べた灯も、生活の匂いを吸い続けていれば、やがて別の場所へ移りたくなる。
少年は布団の中で、手のひらを一度握ってから、ゆっくり開いた。
掴まない手。
触れて確かめる手。
譲る手。
受け取って返す手。
預かる手。
それらの先にある手が、きっと「送り出す手」だ。
——行き先ってさ、
——決めるんじゃなくて、見つかるんだよ。
節子の灯が背骨の奥で、そんなことを言った気配がした。
少年は、返事の代わりに息を吐いた。
見つかる、と言われても、見つかった先が怖い。
灯がどこかへ行き、そのまま戻らなかったら。
戻らないのが自然だと頭で理解しても、胸は追いつかない。
それでも、灯は今日、少しだけ外の方角を向いていた。
- ■影の道に「二本に分かれた線」ができていた
学校へ向かう影の道は、いつもより乾いていた。
足跡も線も薄く、昨日までの重なりが、風に洗われて見えた。
その代わり、道の途中で、一本の線が二本に分かれている場所が目に入った。
右へ行けば炊き出しの方へ抜ける。
左へ行けば、壊れた町役場の方へ続く。
線はどちらも細く、まだ確信がない。
だが、分かれているという事実だけが、今日の空気を変えていた。
少女がそこで立ち止まり、足元を見つめた。
「行き先が二つできたね」
「どっちが正しいんだ」
「正しい、じゃない」
少女はすぐ答えた。
「灯が“どっちに溶けやすいか”の違い」
少年は線をまたぐように立ってみた。
右へ踏み出すと、炊き出しの匂いが先に来る。
左へ踏み出すと、紙と埃の匂いが先に来る。
匂いが違えば、灯の燃え方も違う。
行き先というのは、そういう小さな差で決まるのかもしれない。
「灯はね、急に遠くへ行かないよ」
少女が言う。
「まず、匂いの近い場所へ行く。
それから、そこに“席”があるかどうか確かめる」
少年は胸の奥を感じた。
灯は、今日、確かに向きを変えている。
だが、胸から飛び出そうとするほどの勢いはない。
線が分かれた程度の揺れ方だ。
——行き先は、まだ仮だ。
——だから怖くても、耐えられる。
そんなふうに、胸が言っていた。
- ■黒板の字が「先」を書きながら止まった
教室に入ると、黒板に大きく一字、書かれていた。
■先
だが、その字の最後の払いが、途中で切れていた。
行き先の“先”は、書き切れない。
書き切った途端に、決めてしまうからだ。
教員は黒板の前に立ち、しばらく黙ってから言った。
「今日は、“先”について考える」
ざわりとした空気が走る。
“先”は、戦中には命令の形で使われた。
先へ行け。
先に立て。
先に死ね。
そんなふうに。
「先というのはな、
必ずしも未来のことではない」
教員はそう言って、黒板の途中で切れた線を指した。
「“先”は、
今の一歩の先にある、
たった半足分の場所でもある」
少年は、影の道の二本に分かれた線を思い出した。
先は遠くの地平ではなく、匂いの違いのところにある。
「戦争は、先を決めた。
進む先を決め、
戻る道を消した。
だから人間は、先を怖がるようになった」
教室が静まった。
先は希望ではなく、怖れになってしまった。
「だが生活は、先を“仮置き”する」
教員は言った。
「仮置きして、試して、戻って、また仮置きする。
その繰り返しが、行き先を作る」
少年の胸の灯が、小さく息を吸うように揺れた。
行き先を決めるのではない。
仮置きして試す。
昨日までの作法が、ここへ繋がっている。
「今日は、“行き先を決められなかったもの”を書け」
少年は迷いながら書いた。
——節子の遺骨を、どこへ置けばよかったのか
置いた場所はある。
だが、行き先ではなかった。
ただの避難先だった。
今になって、行き先の意味が分からなくなっている。
少女は紙を見せた。
——母の言葉を、どこへ運べばよかったのか
言葉にも行き先がある。
胸に抱えるだけでは腐る。
外へ出せば散る。
行き先を作れなかった言葉は、人を黙らせる。
教室の空気は、重かった。
だが、重さは量られていなかった。
ただ、そこに置かれていた。
- ■炊き出しの列で「行き先のある椀」を見る
昼、炊き出しへ向かうと、鍋の横に小さな椀が二つ置かれていた。
昨日までの“預かり皿”とは違う。
二つとも、空ではない。
ほんの一口分ずつ、汁が入っている。
青年が言った。
「今日は、行き先がある。
町役場の奥の部屋に、寝てる人がいる。
そこへ持っていく分だ」
列の人々が、黙って頷いた。
誰も「ずるい」と言わない。
行き先が決まっている分は、取引ではなく、役目になる。
若い母親がその椀を見て、そっと自分の椀から一口分を足した。
誰にも言わず。
礼も要求せず。
少年は、その行為が“返礼”でも“預かり”でもなく、
もっと自然なものに見えて驚いた。
行き先があると、人は余計な言葉を使わなくなる。
——行き先がある分、
——迷いが減るんだな。
胸の灯が、微かに熱を増した。
灯もまた、行き先を持つと、静かになるのかもしれない。
- ■釜戸の前で、灯が「外の匂い」を持ち帰る
家に戻ると、釜戸の灰の上の灯のうち一つが、いつもより揺れていた。
揺れは大きいのに、騒がしい感じがない。
まるで、外で嗅いできた匂いを、家の中へ運んでいる揺れ方だった。
少女が言った。
「灯、町役場の匂いを覚えてきたね」
「行ったのか?」
「うん。
行ったというより、
“そっちへ向いてみた”だけ」
少年は頷いた。
行く前に向いてみる。
向いてみて、怖ければ戻る。
それが、返せる受け取り方だ。
少年は釜戸の縁に掌を置き、灯に近づけすぎない距離を保った。
灯は、こちらへ寄ってこない。
代わりに、外の匂いをふっと灰に落とすように揺れた。
灰の上に、見えない地図が描かれる。
炊き出し。
町役場。
影の輪。
そして胸の奥。
「行き先って、
こうやって匂いでできるんだね」
少年が言うと、少女は笑った。
「うん。
地図より、匂いのほうが正確」
節子の灯が背骨の奥で、短く笑った気配がした。
節子は、匂いに敏感だった。
炊き出しの匂い。
焦げた布団の匂い。
雨の匂い。
生きていたとき、彼女は匂いで世界を覚えていた。
灯になった今も、そうなのかもしれない。
- ■影の輪で「別れの準備」と言わない準備が進む
夜、影の輪へ向かうと、中心の空席の周りが、いつもより少し広く空いていた。
誰かが席を増やしたわけではない。
人が半歩ずつ離れただけだ。
それなのに、その半歩が、空席を“送り出しの場”に変えてしまう。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
別れの準備を、別れって言わずにしたよ」
少年は息を飲んだ。
別れ。
その言葉を使った途端に、胸の灯が怯える気がした。
だから、言わない。
言わないで、準備だけ進める。
それが“影のやり方”だ。
中心の空席のさらに向こう、輪の外側に、薄い線が一本引かれていた。
席ではない。
道だ。
輪から外へ出る道。
昨日の二本に分かれた線の、続きを描くような道。
灯がそこを通るのか、誰も決めない。
ただ、通れるようにしておく。
空けておく。
温めておく。
少年は輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預けた。
胸の灯は、今日、少しだけ外向きに揺れていた。
それでも、胸から抜けはしない。
抜けるかどうかを、今夜決める必要はない。
——行き先ができても、
——急に行かなくていい。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は頷いた。
行き先を持つことと、今すぐ行くことは別だ。
行き先があるからこそ、戻れる道も要る。
預かりの席も要る。
返ってくる席も要る。
影の輪は、その全部を「言わずに」用意していた。
少年は、胸の灯にそっと語りかけた。
——行きたくなったら、行け。
——怖くなったら戻れ。
——戻る席は、ここにある。
灯は答えない。
ただ、鳩尾の奥で、匂いの方角をもう一度確かめるように揺れた。
それは、別れの宣言ではなく、生活の地図を手に入れる揺れだった。
焼け跡の夜は、相変わらず冷たい。
だが、冷たさの中に、道の線だけが細く残る。
行き先へ向かう線。
戻り道の線。
預かりの席の線。
どれも、急がせない線だった。
第九十一章 灯の通過点──影が「途中」を居場所にした日

朝、少年は胸の奥で、灯がはっきりと“移動”しているのを感じた。
移動といっても、抜け出すわけではない。
胸から外へ出るでも、影の輪へ行くでもない。
ただ、胸の中の位置が変わった。
それだけで、世界の重さが少し違って感じられた。
行き先が見えた灯は、落ち着く。
だが、落ち着いたまま留まり続けるわけではない。
行き先があるからこそ、
「途中」という居場所が必要になる。
少年は布団の上で、天井の染みを見つめた。
雨漏りの跡だ。
円でもなく、線でもない。
途中で止まった形。
完成しなかった痕跡。
——途中ってね、
——いちばん長く居ていい場所なんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その言葉に救われる思いがした。
目的地よりも、
出発点よりも、
途中のほうが長くていい。
それなら、急ぐ理由がなくなる。
- ■影の道が「工事中」のまま残されていた
学校へ向かう影の道は、いつもと少し違っていた。
瓦礫が片付けられ、道幅が広がった場所がある一方で、
途中まで整えられて、その先が放置されている場所もあった。
土が均され、
しかし石が残り、
線が引かれ、
しかし続きがない。
少女がその前で足を止めた。
「ここ、途中だね」
「中途半端だな」
少年が言うと、
少女は首を横に振った。
「中途半端じゃないよ。
途中として完成してる」
少年はその言い方に驚いた。
途中は、未完成だと思っていた。
だが少女は、途中そのものを“形”として見ている。
「全部つなげたら、
急ぐ人しか通れなくなる。
途中があるから、
立ち止まれるんだよ」
少年は、胸の灯がその言葉に反応するのを感じた。
灯は今、行き先と胸の間にある。
どちらにも属さない。
それが、居心地よさになっている。
- ■黒板の字が「途」で終わった
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■途
道の字ではない。
途中の「途」だ。
教員は椅子に腰を下ろしたまま言った。
「今日は、“途中”について考える」
子どもたちは顔を上げた。
途中。
それは、学校でも家庭でも、
あまり許されてこなかった状態だ。
「戦争は、途中を嫌った。
途中で迷うな。
途中で止まるな。
途中で考えるな」
教員の声は静かだったが、
言葉は鋭かった。
「だが、生活は途中だらけだ。
途中で止まって、
途中で変えて、
途中で戻る」
少年は、節子の看病の日々を思い出した。
回復する途中で、
悪化する途中で、
結局、途中のまま終わった命。
あれを“失敗”と呼んできたが、
本当にそうだったのか。
「途中を失敗と呼ぶから、
人は自分を責める」
教員はそう言って、
黒板の「途」の字を指でなぞった。
「途中は、
生きている証拠だ」
少年の胸の灯が、
小さく、確かに揺れた。
「今日は、“途中のままにしておいてよかったもの”を書け」
少年はしばらく考え、
こう書いた。
——節子のことを、
分かったつもりにならなかったこと
理解したと思った瞬間、
節子は物語になってしまっただろう。
分からないまま抱えている今のほうが、
まだ生きている。
少女は紙を見せた。
——母への怒りを、
途中で止めた夜
怒り切らなかったこと。
許し切らなかったこと。
その途中が、
今も呼吸を続けている。
- ■炊き出しの列で「途中の椀」が回る
昼の炊き出しでは、
配給の途中で鍋が一度止まった。
具が足りない。
だが、火はまだある。
誰かが言った。
「今日はここまでだ」
不満の声は上がらなかった。
代わりに、
受け取った人々が、
自分の椀を見下ろした。
一口食べて、
半分残す者。
全部食べて、
少し待つ者。
青年が言った。
「続きを、夜にやろう」
夜に続きをやる。
それは約束ではない。
予定でもない。
ただ、途中を途中として置く宣言だ。
少年は、その空気が不思議と軽いことに気づいた。
足りないことを確定させなかったからだ。
不足は途中に置かれ、
欠乏にはならなかった。
- ■釜戸の前で、灯が途中の高さに浮かぶ
家に戻ると、
釜戸の灰の上で、
灯が宙に浮いていた。
置かれていない。
支えられてもいない。
灰から指一本分、上の高さ。
「そこ、疲れないのか?」
少年が言うと、
少女は微笑んだ。
「途中の高さはね、
いちばん楽なんだよ」
「落ちないのか?」
「落ちるときは、
落ちていいとき」
少年は、灯に触れなかった。
掴まなかった。
ただ、その高さを認めた。
灯は、
胸と外の間で、
ちょうどよい距離を保っている。
行き先へ向かう準備でもなく、
戻る合図でもない。
ただの途中。
- ■影の輪が「未完成」を輪郭にした夜
夜、影の輪へ向かうと、
輪の一部が欠けていた。
誰かが壊したわけではない。
最初から描かなかった部分だ。
空席もある。
道もある。
だが、輪は閉じていない。
少女が輪の外で言った。
「今日はね……
輪を完成させなかった」
少年は息を吐いた。
完成していない輪は、不安なはずなのに、
不思議と息が詰まらない。
「途中の輪はね、
出入りが自由なんだよ」
中心に灯は座らない。
縁にも座らない。
輪の切れ目の近くで、
揺れているだけだ。
少年は縁に腰を下ろし、
背中を影に預けた。
影は、
閉じないことで、
灯を縛らなかった。
——行かなくていい。
——戻らなくていい。
——途中でいい。
節子の声が、
風と一緒に通り抜けた。
少年は、
胸の灯に別れを告げなかった。
送り出す準備も、
引き留める決意も、
今日は要らない。
途中でいることを、
自分に許しただけだ。
焼け跡の夜は、
今日も冷える。
だが、完成しない輪の中で、
灯はちょうどよい温度を保っていた。
途中は、
仮の場所ではない。
生きている間、
何度でも戻れる、
確かな居場所だった。
(第九十二章につづく)

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