第八十八章 灯の預かり──影が期限を決めなかった午後
昼過ぎ、少年は胸の奥に「期限のない包み」を抱えたような感触を覚えた。
受け取ったが、所有していない。
返せるが、急がない。
そんな矛盾を、灯は矛盾のまま胸に置いていた。
昨日、返せる受け取り方を覚えた。
今日は、その続きの作法が、静かに始まっている。
預かるという作法だ。
預かることは、譲ることとも違う。
返すこととも違う。
預かったものは、いま自分の手の内にあるが、
行き先も、持ち主も、期限も、決めない。
決めない、という決断をする。
少年は井戸端で手を洗い、
滴る水を眺めながら、
節子の灯がどんなふうに預かられてきたかを思った。
家の中で。
胸の奥で。
影の輪の空席で。
誰も「いつまで」とは言わなかった。
言えなかった、のではない。
言わないことが、唯一のやさしさだったのだ。
——預かるって、
——急がせないってことだよ。
節子の声は、背骨の奥で、湿った土の匂いを連れていた。
- ■影の道に「置きっぱなしの跡」があった
学校へ向かう影の道の脇に、
小さな布切れが落ちていた。
色は褪せ、
角はほつれている。
誰かが落としたのか、
誰かが置いたのか、
見分けはつかない。
少女が立ち止まり、布切れを拾い上げた。
「これ、誰の?」
「分からない」
「うん。
でもね、
分からないまま置かれてるってことは、
預かられてるってことだよ」
少女は、布切れを元の場所に戻した。
拾って持ち去らない。
踏み荒らさない。
ただ、元の位置に置き直す。
「持ち主が来たら取れる。
来なくても、
ここに居られる」
少年は、その行為が、
拾得でも放置でもないことに気づいた。
道が、布切れを預かっている。
影が、その状態を許している。
胸の灯が、
その布切れの位置と同じ高さで、
静かに温度を保った。
- ■黒板の字が「預」を途中で止めた
教室に入ると、黒板には
途中まで書かれた字があった。
■預
最後の払いが、書かれていない。
教員はチョークを置き、
振り返らずに言った。
「今日は、“預かる”について考える。
だが、結論は出さない」
子どもたちは戸惑ったが、
誰も声を上げなかった。
「預かるとは、
決めないことを決める行為だ。
返す日を決めない。
使い道を決めない。
意味を決めない」
少年は、
節子の死に意味を与えようとして、
何度も失敗してきたことを思い出した。
意味を決めた瞬間、
節子は“材料”になってしまった。
「戦争は、
すべてに期限をつけた。
出征の期限。
配給の期限。
命の期限」
教室の空気が、
ひくりと歪んだ。
「だが、生活は違う。
生活には、
期限をつけない預かりが要る」
教員は、
黒板の字を完成させなかった。
それが、この時間の答えだった。
少年は紙に書いた。
——節子の声を、
意味を決めずに預かりたかった
少女は紙を見せた。
——母の沈黙を、
期限なしで抱えていたかった
二人の文字は、
答えを出さない勇気の形をしていた。
- ■炊き出しの列で「預かり皿」が回る
午後の炊き出しでは、
鍋の横に、
空の椀が一つ置かれていた。
誰のものでもない椀。
割れてもいない。
欠けてもいない。
ただ、空だ。
青年が言った。
「今日は、これを“預かり皿”にする」
列の中の誰かが、
自分の分から一口分をすくって入れる。
別の誰かも、
ほんの少しだけ足す。
満たさない。
溢れさせない。
そのまま、鍋の横に置いておく。
「誰が食べるんだ?」
と聞かれて、青年は肩をすくめた。
「決めない」
しばらくして、
列の外にいた老人が近づき、
黙って一口だけ食べ、
椀を元に戻した。
誰も拍手しない。
誰も記録しない。
椀は、再び“預かり”に戻った。
少年の胸の灯が、
その循環に合わせて、
呼吸を深くした。
- ■釜戸の前で、灯が預かりの位置に座る
家に戻ると、
釜戸の灰の上で、
灯の配置がまた変わっていた。
中心でも、
縁でもない。
どこでもない位置に、
灯が腰を下ろしている。
「そこ、居心地いいのか?」
少年が尋ねると、
少女が頷いた。
「うん。
預かりの位置はね、
名前がつかないから楽なんだよ」
少年は、
灯に触れなかった。
近づけもしなかった。
ただ、
その位置を尊重した。
すると、灯は、
熱を主張しないまま、
確かな存在感だけを保った。
- ■影の輪で「期限のない席」が増える
夜、影の輪へ向かうと、
中心の空席のそばに、
もう一つ、線の薄い席が増えていた。
座るためでも、
待つためでもない。
預かるための席だ。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
期限のない席を増やしたよ」
灯はその席に、
完全には座らなかった。
半分だけ、影に預ける。
半分は、胸に残す。
少年は輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預けた。
影は、
何も要求しない。
期限も、意味も。
——預かってくれて、ありがとう。
節子の声が、
そう言った気がした。
少年は、
胸の灯を“理解しよう”としなかった。
抱え込みもしなかった。
手放しもしなかった。
ただ、
預かった。
焼け跡の夜は、
今日も冷える。
だが、期限を決めない温度が、
胸の奥で、静かに続いていた。
第八十九章 灯の返礼──影が「ありがとう」を形にしなかった夕暮れ

夕暮れ、少年は胸の奥で、灯が静かに身を起こすのを感じた。
預かりの位置に腰を下ろした灯は、期限も意味も与えられず、ただ温度を保っていた。
だが今、その温度が、ほんのわずかだけ、外へ向かって滲み出ようとしている。
渡すでもなく、
返すでもなく、
譲るでもなく、
返礼。
それは物の移動ではなく、
動作の交換でもなく、
言葉のやりとりですらない。
受け取った時間に、別の時間を重ねること。
預かった沈黙に、同じだけの沈黙を返すこと。
少年は、井戸端の影が長く伸びるのを眺めながら、
節子の灯が、何を返そうとしているのかを考えなかった。
考えないことが、今は正しかった。
——お礼はね、
——形にすると、重たくなるんだよ。
背骨の奥で、節子の声がそう言った気がした。
少年は頷いた。
感謝を言葉にすれば、
その言葉を返さねばならない人が生まれる。
返せない人は、負い目を抱く。
戦後の生活は、そうやって人を疲れさせてきた。
- ■影の道に「踏まれなかった花」があった
学校帰り、影の道の端に、小さな花が咲いていた。
誰が植えたわけでもない。
瓦礫の隙間から、勝手に顔を出しただけの花だ。
不思議なことに、
足跡はその花を避けて通っている。
意識して避けた形跡ではない。
ただ、自然に、
踏まれなかった。
少女が立ち止まり、花を見下ろした。
「返礼だね」
「誰から誰へ?」
「道から、花へ。
花から、道へ。
どっちでもいい」
少年はその言葉の意味を、
すぐには理解しなかった。
「道は、花を踏まなかった。
花は、道を塞がなかった。
それだけで、
お互いに十分なんだよ」
少年は花に触れなかった。
摘まなかった。
写真に残すこともしなかった。
ただ、
通り過ぎた。
胸の灯が、
その行為に合わせて、
小さく温度を上げた。
- ■黒板の字が「礼」を消した
教室に入ると、
黒板には薄く書かれた字があった。
■礼
だが、その字は、
消しかけだった。
線が残り、
意味だけが抜け落ちている。
教員は、
黒板を背にしたまま言った。
「今日は、“礼”について考える。
ただし、
言わない」
ざわりとした空気が、
すぐに静まった。
「礼は、
言葉にすると取引になる。
形にすると、
返却を要求する」
少年は、
節子に何度
「ありがとう」と言えなかったかを思い出した。
言えば、
節子は無理をして笑っただろう。
笑いは、
返礼として重すぎた。
「生活の中の礼は、
相手の時間を奪わないことだ」
教員は、
黒板の字を完全に消した。
「今日は、
“言わなかったお礼”を書け」
少年は書いた。
——節子が眠ったあと、
起こさなかったこと
少女は紙を見せた。
——母が黙っているとき、
理由を聞かなかった夕方
二人の文字は、
礼を形にしなかった選択の記録だった。
- ■炊き出しの列で「無言の返礼」が巡る
夕方の炊き出しでは、
いつもより鍋の音が静かだった。
配られる椀の数も、
量も、
変わらない。
だが、
列の中に、
目を合わせない優しさが流れている。
青年が椀を差し出し、
受け取った老人は、
軽く頭を下げただけで、
言葉を発しなかった。
若い母親は、
赤ん坊をあやしながら、
隣の人と視線を交わしたが、
微笑まなかった。
その代わり、
赤ん坊の背を、
ほんの少しだけ向こうへ向けた。
泣き声が、
列に広がらないように。
それは、
誰にも気づかれない返礼だった。
だが、
列は確かに、
そのおかげで楽になった。
少年の胸の灯が、
その場の呼吸に合わせて、
静かに揺れた。
- ■釜戸の前で、灯が何も返さない
家に戻ると、
釜戸の灰の上で、
灯は預かりの位置に留まっていた。
前へも出ず、
奥へも引かない。
「今日は、返さないのか?」
少年が尋ねると、
少女は首を振った。
「返してるよ。
返さないことで」
少年は、その言葉を噛みしめた。
灯が何かをしていないこと自体が、
返礼になっている。
余計な熱を出さない。
余計な明るさを足さない。
預かってもらった時間に、
同じだけの静けさを返す。
少年は、
灯に触れなかった。
距離も詰めなかった。
それが、
今夜の礼だった。
- ■影の輪で「言われなかったありがとう」が残る
夜、影の輪へ向かうと、
中心の空席はそのまま在った。
預かりの席も、
戻りの席も、
譲りの席も、
誰も使っていない。
それでも、
輪は崩れていなかった。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
誰も“ありがとう”って言わなかったよ」
それは、
冷たさではなかった。
怠慢でもなかった。
ただ、
言わなくても分かる範囲に、
みんなが立っていただけだ。
少年は輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預けた。
影は、
感謝を要求しない。
灯も、
感謝を欲しがらない。
——それで、いいんだよ。
節子の声が、
風に紛れて聞こえた気がした。
少年は、
胸の灯に向かって、
何も言わなかった。
代わりに、
灯がここに在ることを、
否定しなかった。
それが、
今日できる最大の返礼だった。
焼け跡の夕闇が、
ゆっくりと夜へ移る。
影は長くなり、
灯は低く燃え、
言われなかった感謝が、
静かに地面へ染みていった。
(第九十章につづく)

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