佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第八十六章・第八十七章

目次

第八十六章 灯の譲り道──影が「渡す」を怖がらなくなった昼

 朝、少年は胸の奥で灯が“手の形”を探しているのを感じた。

 昨夜、触れられるほうを選んだ灯は、今朝になると逆に、触れられることに慣れすぎないように、少し距離を取っている。

 近づけば温度が分かる。

 離れれば自由が残る。

 その間で、灯はゆっくりと揺れていた。

 少年は布団の上で掌を開き、閉じた。

 掴む手ではない。

 触れて、確かめて、離す手。

 そういう手があることを、昨日やっと知ったばかりなのに、灯はもう次の段階へ行こうとしている気配がした。

 ——渡す、ってのは、掴まないで持たせることだよ。

 節子の灯が背骨の奥で、そんなふうに言ったように思えた。

 少年は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。

 渡す。

 それは、外へ出すとも違う。

 置くとも違う。

 自分の中から切り離し、誰かの生活の中へ“譲る”行為だ。

 だが譲った先で、灯が奪われたり、粗末に扱われたりしたらどうする。

 そう考えると、胸の内側が一瞬で固くなる。

 灯の自由を尊重したい、と口では言えても、

 灯が壊されるのを見る勇気はなかった。

 少年の鳩尾の灯が、その硬さを知っているみたいに、少し温度を落とした。

 落としたというより、熱を騒がせないように沈めた。

 灯は、無理をしない。

 無理をさせない。

 それが、最近の灯の作法だった。

 

  • ■影の道に「受け渡しの跡」があった

 学校へ向かう影の道で、少年は不思議な跡を見つけた。

 足跡でも、線でもない。

 地面に、二つの指先が向かい合うような浅い凹みがあり、その間を薄い擦れがつないでいる。

 誰かが何かを地面に置き、

 別の誰かがそれを拾い上げた。

 その一瞬の、指と指の迷いが土に残っているようだった。

 少女がしゃがみ込み、凹みを見つめて言った。

「“譲った跡”だね」

「何を?」

「灯でも、パンでも、言葉でも。

 譲るときってね、受け取る側も怖いし、渡す側も怖い。

 だから指先がいちどだけ、地面に触れちゃうの」

 少年は指で凹みをなぞった。

 土は乾いていて、少しざらつく。

 そのざらつきが、譲り合いの怖さの形に見えた。

「譲るって、結局、減ることだろ」

 少年の言葉に、少女は首を振らなかった。

 肯定も否定もしないまま、ゆっくり言った。

「減るよ。

 でも、減るのはいつも“量”じゃない。

 胸の中の重さが減ることもあるし、

 怖さが減ることもある。

 それからね、譲った先で“別の形”が増えることもある」

 胸の灯が、少しだけ温度を上げた。

 譲ることを恐れる少年の胸に、灯がそっと手を添えるみたいに。

 

  • ■黒板の字が「譲」をまっすぐ書いた

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■譲

 子どもたちの中に、かすかなざわめきが走った。

 譲る。

 それは、戦時中に教えられた言葉ではない。

 戦時中は、譲るではなく、差し出すか奪われるかのどちらかだった。

 教員はチョークを置き、いつもより低い声で言った。

「今日は、“譲る”について考える」

 少年の鳩尾の灯が、言葉に合わせて小さく揺れた。

「譲るとは、

 負けることではない。

 我慢することでもない。

 相手の中に、相手の分の席を作ることだ」

 教室の空気が、ゆっくりとほどけた。

 譲ることは、押しつけることでも、押し出すことでもない。

 相手が受け取れるように、席を用意すること。

 それは、影の輪の空席と同じ考え方だ。

「戦争は、人間から“譲る余白”を奪った。

 奪われる前に奪え、

 取られる前に取れ、

 それが生きる知恵になってしまった」

 教員の声は、責める声ではなく、事実を並べる声だった。

「だが生活は、譲る余白がないと続かない。

 食い物も、布団も、言葉も、

 独り占めにした者から壊れていく」

 少年は胸の灯を思った。

 灯を独り占めしたい衝動。

 節子の灯を自分の罪滅ぼしの道具にしたい衝動。

 それらが壊してきたのは、節子だけではない。

 自分の生活そのものだった。

「今日は、“譲れなかったせいで壊れたもの”を書け」

 少年はしばらく手が止まった。

 書きたいことが多すぎた。

 それでも、ひとつに絞って書いた。

 ——節子の最後の一口を、譲れなかった夜

 少女も紙を見せた。

 ——母の沈黙を、譲れずに問い詰めた夕方

 二人の文字は、譲れなかった“余白”のせいで、

 誰かの呼吸が狭くなった記憶を突き出していた。

 

  • ■炊き出しの列で「譲る席」が見える

 昼の炊き出しでは、列が少し乱れていた。

 雨上がりの泥で足場が悪く、前へ詰めようにも詰められない。

 その隙間を見て、誰かが不満を言いかけたとき、

 列の前の男が黙って半歩横にずれた。

 それだけで、後ろの者の足が置ける場所ができた。

 誰かが礼を言うでもなく、男は何も言わない。

 ただ、隙間が“席”になった。

 若い母親は赤ん坊を抱え、今日は列の外側にいた。

 けれど、列の中の老婆が手招きし、

 母親の入れる幅を、体を捻って作った。

 母親がそこへ入ると、列は少しだけ歪んだが、倒れなかった。

 譲るとは、正しい形を崩すことでもある。

 形が崩れたぶんだけ、誰かの身体が入る。

 生活とは、そういう歪みで成り立っているのだと少年は思った。

 胸の灯は、静かに温度を保った。

 照らすのではなく、譲り合いの場の呼吸に合わせて。

 

  • ■釜戸の前で「譲る練習」をする

 家に戻ると、釜戸の灰の上に灯がいくつも揺れていた。

 節子の灯。

 枝分かれした灯。

 跡から生えた灯。

 前へ出た灯。

 そして、昨夜触れられた灯の滲んだ輪郭。

 少女が釜戸の縁にしゃがみ込み、言った。

「今日は、灯が“譲り道”を作りたがってる」

「譲り道……」

「うん。

 胸から外へ出る道でも、輪へ行く道でもなくて、

 “誰かの手元へ渡す道”」

 少年は釜戸の灰の上に、指先で小さな空間を作った。

 昨日までなら、そこへ灯を置くことは「手放す」ことに思えた。

 だが今日は違った。

 そこは灯の置き場所ではなく、

 灯がいったん休んで、次の持ち主へ移るための中継点に見えた。

 少年は手を引っ込め、掌を上に向けて膝の上に置いた。

 掴まない手。

 触れて確かめ、離す手。

 その延長に、渡す手があるのかもしれない。

 すると、灰の上の灯のひとつが、

 ほんのわずか、少年の掌のほうへ寄った。

 だが、掌の上には乗らない。

 指先が熱を感じる距離で止まる。

 少女が小さく頷く。

「ほら。

 “受け取る練習”も同時にしてるんだよ。

 渡すほうだけ偉いんじゃない。

 受け取れるほうが強い日もある」

 少年は思い出した。

 節子は、受け取るのが下手だった。

 受け取るたびに、遠慮して、痩せて、笑って、

 最後は受け取る力が尽きた。

 ——受け取れるように席を作る。

 ——譲るとは、その席作りでもある。

 少年の胸が少し痛んだ。

 痛みは、罪悪感の棘ではなく、

 今さら身につける生活の作法の痛みだった。

 

  • ■影の輪で「譲る灯」が初めて外へ座る

 夜、影の輪へ向かうと、中心の空席は相変わらず空いていた。

 だが今日は、空席の“外側”、輪の縁寄りに、

 もうひとつ薄い椅子の線が描き足されていた。

 誰かの椅子ではない。

 灯のためでもない。

 灯が渡される前にいったん腰掛ける席のように見えた。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 譲るための席、ひとつ増やしたよ」

 少年は輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預けた。

 背もたれの影は、明るさを嫌がらなくなっている。

 それどころか、

 影自身が“席を作る側”になり始めている。

 輪の中心の灯は、今夜は座らなかった。

 代わりに、釜戸のそばの灯のひとつが、

 輪の縁の薄い席へ、ふっと滲むように現れた。

 完全な形ではない。

 座ったとも立ったとも言えない。

 だが、確かにそこに“待つ明るさ”が宿った。

 少年は胸の灯にそっと問いかけた。

 ——おまえも、いつか渡されたいか。

 灯は答えない。

 ただ、鳩尾の奥で、

 「譲る」という言葉の輪郭を確かめるように揺れた。

 節子の灯が、背骨の奥で、ほんの少しだけ笑った気配がした。

——渡すってね、

——捨てることじゃないよ。

——ちゃんと“帰り道”も残しとくんだよ。

 少年はその言葉に、

 これまでの影の道の重なりを思い出した。

 行きっぱなしでもなく、戻りっぱなしでもなく、

 譲る道にも帰り道が要る。

 帰れるから、渡せる。

 輪の縁の薄い席に座った灯は、

 誰にも呼ばれず、誰にも掴まれず、

 ただそこに“譲られる前の呼吸”として居た。

 少年は胸の灯の重さを量らなかった。

 その手触りを掴まなかった。

 代わりに、

 自分の掌を膝の上で静かに開いたまま、

 渡す日と受け取る日が来ることを、

 怖がりすぎないように待った。

 影は、席を温め、

 灯は、席に腰をかけ、

 少年は、手を開いた。

 焼け跡の夜はまだ冷たい。

 けれど、手を閉じずにいられる夜が来たことを、

 少年は確かに感じていた。

第八十七章 灯の受け取り──影が「返す」を思い出した朝

 朝、少年は目覚める前から、胸の内側で小さな「返送票」のようなものが剥がれる感触を覚えていた。

 返す。

 渡す。

 譲る。

 それらは似ているが、同じではない。

 昨日、灯は「譲る道」を作った。今日は、その道の先にある動作——受け取るという行為が、胸の奥で準備を始めていた。

 受け取ることは、奪うことではない。

 だが、差し出されたものを拒まないという点で、どこか無防備だ。

 無防備は、戦後の生活で最も疑われる態度でもある。

 受け取れば、責任が生じる。

 返せなければ、負い目が残る。

 少年は布団の中で、胸に手を当てなかった。

 灯を確かめることもしなかった。

 代わりに、耳を澄ませた。

 家の外で、誰かが鍋の蓋を動かす音。

 瓦礫を踏む足音。

 朝が、すでに受け取り始めている。

 ——受け取るって、選ぶことだよ。

 節子の灯が背骨の奥で、そう言った気がした。

 少年は、その言い方が少し大人びていて、少し遅れて届くところが、節子らしいと思った。

 

  • ■影の道に「返された跡」が重なっていた

 学校へ向かう影の道には、昨日の“譲った跡”の近くに、新しい擦れが加わっていた。

 置かれたものを拾ったあと、

 拾った者が、また別の場所へ置いた。

 そのとき、いったん手にした温度が、地面へ戻る。

 少女が跡を見て言った。

「“返した跡”だね」

「譲るのと、返すのは違うのか」

「違うよ。

 譲るのは席を作ること。

 返すのは、席が違ったって気づくこと」

 少年は、その言葉に立ち止まった。

 返すことは拒絶ではない。

 むしろ、相手を尊重する行為だ。

 自分の生活に合わないものを、無理に抱え込まない。

 それは、灯にとっても同じだろう。

「受け取って、返す。

 その往復ができると、

 灯は“借り物”にならない」

 少女はそう言って、影の道を踏みしめた。

 足跡は、行きと帰りの区別がつかないほど重なっている。

 それでも、道は道として残っていた。

 

  • ■黒板の字が「受」を裏返した

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■受

 だが、その字は上下が逆さまだった。

 教員は何も説明せず、しばらくそのまま立っていた。

 やがて、静かに言った。

「今日は、“受け取る”について考える。

 ただし、返すことを含めてだ」

 少年の胸の灯が、言葉の間で小さく揺れた。

「受け取るとは、抱え込むことではない。

 自分の生活に一度置いてみて、

 合えば続け、合わなければ返す。

 それだけだ」

 戦争中、受け取ったものは返せなかった。

 配給も、命令も、役割も。

 受け取った瞬間から、逃げ場がなくなった。

「だから今、

 受け取ることが怖くなっている。

 返せないと思い込んでいる」

 教員は黒板の字を正しい向きに直した。

「生活は違う。

 返せる受け取り方を覚えれば、

 受け取ること自体は、怖くなくなる」

 少年は紙に書いた。

 ——節子の「だいじょうぶ」を、

  本当は返したかった夜

 少女は紙を見せた。

 ——母の沈黙を、

  自分の言葉で返せなかった朝

 二人の文字は、受け取ったまま返せなかったものの重さを、

 ようやく言葉にしていた。

 

  • ■炊き出しの列で「受け取って返す」動きが生まれる

 昼の炊き出しで、鍋の前の青年が、

 椀に注いだ量を見て、少し首を傾げた。

「多すぎるな」

 彼は、隣の鍋に少し戻し、

 改めて注ぎ直した。

 誰もそれを咎めない。

 むしろ、列の空気が和らいだ。

 若い母親は、

 赤ん坊の分を受け取ったあと、

 自分の分の半分を、後ろの老人に差し出した。

 老人は受け取り、

 しばらく迷ったあと、

 ほんの一口分だけ残して返した。

 「それでいい」

 と言うように。

 受け取って、返す。

 返して、また受け取る。

 その循環が、列を止めなかった。

 少年の胸の灯が、

 そのやりとりに合わせて、

 呼吸の位置を少し変えた。

 

  • ■釜戸の前で、灯が「受け取り役」を交代する

 家に戻ると、釜戸の灰の上で、

 灯たちの配置が微妙に変わっていた。

 昨日、譲り道に近かった灯が、

 今日は少し奥へ下がり、

 代わりに、枝分かれした灯の一つが前へ出ている。

「今日はね、

 受け取る役が交代してる」

 少女が言った。

「役?」

「うん。

 灯は全部、同時に受け取れない。

 疲れるから。

 だから、順番に受け取る」

 少年はその言葉に、

 節子が弱っていった頃のことを思い出した。

 全部を一人で受け取ろうとして、

 誰にも返さなかった。

 ——返せるなら、受け取ってよかった。

 ——返す道を作れなかったのが、間違いだった。

 少年は、釜戸の縁に指先を置き、

 灯に直接触れない距離を保った。

 すると、前へ出た灯が、

 ほんの一瞬、指先の温度を受け取り、

 すぐに灰のほうへ戻った。

 受け取って、返す。

 それだけのことが、

 こんなにも静かで、

 こんなにも正確に行われる。

 

  • ■影の輪で「返ってくる席」が見える

 夜、影の輪へ向かうと、

 中心の空席のさらに外側に、

 小さな“戻り席”が描かれていた。

 座るための席ではない。

 立ち止まるための席。

 受け取ってみて、違ったときに戻るための位置。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 返ってきてもいい席を作ったよ」

 輪の縁の薄い席にあった灯が、

 少しだけ中心へ近づき、

 そして、また元の位置へ戻った。

 誰も失望しない。

 誰も責めない。

 少年は胸の灯に、

 はじめてはっきりと問いかけた。

 ——もし、外で違うと思ったら、戻ってこい。

 ——戻っても、席はある。

 灯は答えない。

 だが、鳩尾の奥で、

 “返送票”の剥がれた感触が、

 完全に消えた。

 返せるなら、受け取れる。

 戻れるなら、出ていける。

 影の輪は、

 その当たり前のことを、

 夜の形にして示していた。

 少年は輪の縁に座り、

 背中を影に預けた。

 影は、灯を独占しない。

 灯も、影に縛られない。

 焼け跡の夜は静かで、

 冷たい。

 だが、受け取って返せる場所がある夜は、

 息が少しだけ楽だった。

 少年は、

 明日、何を受け取るかを考えなかった。

 返せるという事実だけを、

 胸の内に残した。

(第八十八章につづく)

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