第七十四章 灯が隣に座った夕方──影が背もたれになった
翌朝、少年が目を開ける前に、
胸の奥で「こつん」と、
何かが自分の肩に当たる感覚があった。
夢だろうと最初は思った。
だが、目を閉じたまま耳を澄ますと、
胸の奥の空席のあたりから、
小さな息づかいが聞こえてくる。
灯が、隣に座っている。
完全に腰掛けたわけではない。
半分側だけ腰を下ろし、
もう半分はいつでも立てるように浮かせたまま、
それでも、昨日までのように
空席の前でうろうろしているのではなく、
「隣」という位置を選んで座っている。
節子の灯が、奥の部屋で
ふっと小さく笑った気配がした。
——ほらね。
——まずは、隣からなんだよ。
あの節子の笑い方だった。
何かを完全に許すでもなく、
突き放すでもなく、
それでもどこかで「よし」と言っている笑い方。
胸の奥の灯は、
少年の肩に頭を預けるように寄りかかっている。
重さはほとんどない。
ただ、寄りかかるという形だけがある。
迎えるとは、
自分の胸の中に、
寄りかかられる場所を空けておくことだと、
少年は遅ればせながら理解した。
外へ出ると、
朝の空気はどこか柔らかかった。
焦げた木の匂いより、
ぬるくなった井戸水の匂いのほうが強い。
人々の息や、
昨日炊かれた米の匂いが、
もう焼け跡の匂いと区別がつかなくなりはじめていた。
戦争のにおいと日常のにおいが、
互いを薄め合っている。
半分ずつの匂い。
胸の灯は、その混ざり合いの中で、
静かに身を寄せてきた。
■影の道に“二つ並んだ腰掛け跡”
校庭へ向かう影の道には、
昨日とは違う跡が残っていた。
一つの踏み跡の横に、
ほとんど重なるように、
もう一つの浅い踏み跡が寄り添っている。
どちらも膝を半分だけ曲げた跡で、
完全には腰を下ろしていない。
だが、二つ分の重さが一か所に集まっている。
少女が後ろから歩いてきて、
その跡を眺めながら言った。
「“隣に座った影”だね」
「隣……?」
「うん。
一人では座りきれなかったから、
ふたりで半分ずつ座った跡」
少年はしゃがみ込み、
二つの跡に同時に指を置いた。
ぎゅうぎゅう押しつけていない、
遠慮がちな重さ。
だが、離れてはいない。
「どっちの影が座ったんだろうな」
「どっちもだよ」
少女は即座に言った。
「迎える側と、迎えられる側。
影はいつも、一人分じゃ足りないんだよ」
胸の奥の灯が、
その言葉に合わせるように揺れた。
——おまえ一人で背負うものじゃない。
——半分ずつで、ちょうどいい。
そんなふうに節子が言っている気がした。
■黒板の字が“隣り合う生活”を示した
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■隣
子どもたちは、一斉に周りを見た。
机が壊れている者も、
椅子が足りない者もいたが、
それでも誰かと誰かが「隣」になって座っている。
教員が黒板を叩いた。
「今日は、“隣”について考える」
少年の胸の灯が、
隣に腰をかけたまま小さく揺れた。
「隣とは、
完全に一緒でもなく、
完全に別でもない位置だ。
戦争は、人を“敵”か“味方”かに分けた。
だが生活は、隣り合う者たちで出来ている」
教室の空気に、
かすかな温度が生まれた。
「隣に座るとは、
相手のすべてを抱え込むことでもなく、
相手を突き放して見物することでもない。
『そこにいる』ことを
お互いに認める座り方だ」
教員は続けた。
「今日は、“隣にいてくれたのに言えなかったこと”を書け」
少年は紙に書いた。
——節子が眠れなかった夜、
隣にいたのに「大丈夫」と言えなかったこと
少女は自分の紙を見せた。
——母が台所で座り込んでいた夕方、
隣にいながら「帰ってきて」と言えなかったこと
二人の文字は、
どれも「言えなかったが、隣にはいた」時間だった。
隣という位置は、
沈黙の中にしか生まれない。
■炊き出しの列で“半身だけ列に入った背中”
昼の炊き出しの列に向かうと、
若い母親は今日、
列の「縁」に立っていた。
昨日は横に離れていた。
今日は、半身だけ列の中に入っている。
前の人の背中に、
肩の端だけが少し触れていた。
完全に並んだとは言えない。
それでも、
明らかに「外側」ではなくなっていた。
老婆が母親の方をちらりと見ただけで、
何も言わず、
その前の椀に
また少し多めに汁を注いだ。
誰も「戻ってきたね」と口にしない。
誰も「よかった」と騒がない。
ただ、列の中の一人として、
半身だけ戻ってきた背中を
当たり前のように受け入れていた。
少年の胸の灯が、
その光景に合わせて静かに寄り添ってきた。
——隣に立つだけで、十分な日もある。
節子の声が、
湯気と一緒に胸に広がった気がした。
■釜戸の前に“寄りかかる灯”が揺れていた
家へ戻ると、釜戸の灰の上に灯があった。
昨日までは、
半分だけ座る灯、
沈んだ灯、
匂いだけ残す灯だった。
今日は、
灰の縁に寄りかかっている灯だった。
丸くもなく、
真っすぐでもなく、
少し斜めに傾き、
まるで背もたれを探すように
灰の縁に重心を預けている。
「これは……?」
「“寄りかかる灯”だよ」
少女が言った。
「座ったのか?」
「座ったと言えば座ったし、
立っていると言えば立ってる。
でも大事なのはね――
どこかに自分の重さを預けられているってこと」
節子の灯が胸の奥で
ゆっくりと身じろぎした。
兄の肩に、半分だけ寄りかかったあの感覚が
灯の形を通して戻ってきているようだった。
「寄りかかられる場所があるっていうのは、
胸に“背もたれの骨”があるってことだよ」
少年は胸を押さえた。
自分の胸の奥に、
知らないうちに一本の細い骨が通っている気がした。
それは節子が残していったものか、
自分が戦後に無理やり生やしたものかは分からなかったが、
とにかく今、灯はそこに寄りかかろうとしている。
■影の輪で、“影が背もたれになる”
夜、少年はいつものように影の輪へ向かった。
輪の中心には、
昨日と同じように二つの椅子の落書きがある。
一つははっきりした線の椅子、
もう一つは心もとない線の椅子。
ただ今日は、それだけではなかった。
二つの椅子の後ろに、
ぼんやりとした背もたれの形の影が
描き足されていたのだ。
少女が輪のふちにしゃがみ込み、
その影の線をなぞりながら言った。
「節子、今日ね……
“背もたれになった影”を運んできたよ」
少年は輪の中に足を踏み入れ、
椅子の背後の影を見つめた。
影は濃くもなく、
薄くもなく、
ただ、人が寄りかかったら
ちょうど支えてくれそうな位置に描かれている。
「どういうことなんだ?」
「影はね、
痛みだけじゃなくて、
もたれていい場所にもなるんだよ」
少女は続けた。
「今までの影は、
石の足を重くしてたでしょう?
でもね、
節子の影は、少しずつ灯になって、
今は“背中を支える役”に変わってきたの」
少年は胸に手を当てた。
節子の灯が背中側へ回り込んで、
そっと支えてくれている気がした。
前には、半分線の椅子。
後ろには、背もたれの影。
そこなら、
灯も、人も、
全部座らなくても座っていられる気がした。
少年は、
しっかり線の椅子にも、
薄い椅子にも座らず、
二つの椅子のちょうどあいだに
そっと腰を降ろした。
背中に、
影の気配が触れた。
冷たくはない。
重くもない。
ただ、「ここにいていい」と言ってくれる
重さだけがあった。
——隣に座る灯には、
——影という背もたれが要るんだよ。
節子の声が、
胸の奥と夜の輪の上で、
同時に響いた気がした。
少年は前を向いたまま、
背中で影の支えを受け入れた。
半分だけ座っている灯が、
自分の隣で小さく揺れ、
二人分の重さが輪の中心に静かに沈んでいく。
焼け跡の夜空には、
まだ星は少なかった。
だが、星の少なさを責める者は、
もうこの輪の中にはいなかった。
半分だけ灯り、
半分だけ座り、
半分だけ寄りかかりながら、
生活は、それでも続いていった。
少年は、
隣にいる灯の気配を確かめるように
ほんの少しだけ肩を傾けた。
灯は逃げなかった。
影が、しっかりと背中を支えていた。
第七十五章 灯を支える手──影が骨のかわりになった

翌朝、少年は、背中に残った感触で目を覚ました。
昨夜、影の背もたれにもたれたときの、あの不思議な支え方。
冷たくもなく、
熱すぎるわけでもなく、
ただ、抜け落ちそうな骨のかわりにそこに在るだけの感触。
胸の奥では、隣に座った灯が、
まだ半分だけ腰をかけた姿勢のまま揺れていた。
完全に居座るでもなく、
逃げるでもなく、
「ここにいてもいいのか」を
何度も確かめるような揺れ方だった。
節子の灯は、昨夜から
背中側へまわり込んだままの位置で静かに揺れている。
——ほら、ちゃんと支えてるでしょ。
——おまえが倒れたら、灯も倒れるからね。
そんな風に言っている気配だった。
少年は上体を起こした。
胸のあたりには、灯の重さが、
背中のあたりには、影の支えが、
かすかに残っていた。
人間の身体には骨があるが、
戦争と飢えで、それはしばしば“心もとなく”なる。
灯を支えるには足りない日もある。
——だから影が、骨のかわりをしているのだ。
少年は、
人間が自分の骨だけで立っているのではないと
今さらながらに知った。
■影の道に“支える足跡”が増えていた
校庭へ向かう道を歩いていると、
影の道の一部に見慣れない跡があった。
一つの深い足跡のすぐ横に、
浅い足跡がぴたりと寄り添っている。
深いほうは、
たぶん重たい身体を支えきれず、
地面に沈み込んだ誰かの足。
浅いほうは、
その横に立って、
倒れそうな重さを「横」で支えた足。
少女が後ろからやって来て、
しばらく黙ってその跡を眺めていた。
「“支える足”だね」
「支える……?」
「うん。
どっちが支えられた足で、
どっちが支えた足か、
ぱっと見ただけじゃ分からないけど」
少女は深いほうと浅いほうを
順番に指でなぞった。
「重い足の横に、
軽い足がそっと立つとね、
重いほうも、それ以上沈まなくなるの」
少年は深い足跡に自分の指を沈めてみた。
乾きかけた泥の硬さの中に、
まだ抜けきらない体温が残っている。
浅いほうには、
ほとんど体重がかかっていなかった。
「支えているほうは、
自分では“役に立ってない”と思ってるかもしれないよ」
少女は言った。
「でも、止まっただけで支えになってるんだ」
胸の奥で、隣の灯が
その言葉に合わせて小さく揺れた。
——おまえの足も、
知らないところで誰かを支えていたんだよ。
節子の声なき声が、
影の道の上を通り抜けていった気がした。
■黒板の字が“支える生活”を描き出す
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■支
子どもたちの何人かが、
思わず自分の腕や脚を触った。
支える、と聞くと、
「強い方が弱い方を助ける」図を思い浮かべるからだ。
教員は、いつもよりゆっくりと
チョークを黒板の下に置いた。
「今日は、“支える”について考える」
少年の胸の灯が、
背中の影と呼吸を合わせるように揺れた。
「支えるとは、
持ち上げることではない」
教員は言った。
「倒れないように、黙ってそこにいることだ」
ざわ、というほどでもない、
小さな空気の揺れが教室に広がった。
「戦争は、“立てる者”と“倒れる者”を分けた。
立っていられる者は、
立てない者を置いていった。
支える足が、あまりにも少なかった」
教員は黒板に、
もう一本、細い線を足した。
「だが生活は、
重い足の横に、
浅い足が立つことで続いていく。
支えられた者が強いのではなく、
支えた者が偉いのでもない。
二つが並んで、やっと一人分の骨になる」
少年は胸に手を当てた。
節子の灯は背もたれになり、
隣に座った灯は肩に半分だけ重さを預けている。
自分の骨だけでは足りないぶんを、
灯と影が埋めている。
「今日は、“誰かを支えたつもりはないのに支えていたこと”を書け」
少年は長い時間をかけて書いた。
——節子が眠れない夜、
何も言わずに隣で目を開けていたこと
少女も紙を見せた。
——母の背中にそっと布団をかけた夜
二人の文字は、
自分では“何もしなかった”と思っていた時間が
実は支える行為そのものだったと
静かに告白していた。
■炊き出しの列で見た“背中同士の支え合い”
昼、炊き出しの列に向かうと、
若い母親は、
今日はしっかりと列の中に入っていた。
ただ、一人で立ってはいなかった。
前の老婆の背中に、
ほんの少し肩を寄せていたのだ。
老婆もまた、
その寄りかかりを振り払わず、
自分の重さを
ほんの少し後ろへ預け返していた。
支えているのはどっちなのか。
支えられているのはどっちなのか。
外から見ただけでは分からない。
しかし二つの背中は、
互いに“完全に倒れない”ための
骨のかわりをしていた。
「おい、もっと前詰めろよ」
誰かがぼやいたが、
その背中同士の寄りかかりを
本気で崩そうとする者はいなかった。
列は少し歪んだ。
だがそれが、
支え合って立つ列の形なのだ。
少年の胸の灯が、
その背中同士の揺れを真似るように
左右に小さく揺れた。
——まっすぐ並ばなくても、
——倒れなければ、それでいい。
節子の声が、
湯気の向こうで笑っている気がした。
■釜戸の前で、“灯を支える手”を知る
家に戻ると、
釜戸の灰の上には三つの灯があった。
節子の灯。
寄りかかった灯。
そして、新しく現れた、
ひどく不安定な灯。
炎の形をしているわけでもなく、
丸くもなく、
細く伸びてはしぼみ、
今にも倒れそうな揺れ方をしている。
「これは……?」
「“支えを探している灯”だよ」
少女が言った。
「座れないのか?」
「座る前に、
どこにもたれたらいいか分からなくて
ぐらぐらしてる灯」
少年は思わず手を伸ばしそうになった。
しかし少女がその手首を軽く押さえた。
「掴んじゃダメ」
「どうしてだ?」
「人の手で無理やり握られた灯は、
すぐ息が詰まって消えちゃう」
少女は代わりに、
灯から少しだけ離れたところに
そっと自分の指を置いた。
支えるのではなく、
寄り添う位置に。
「支えたいならね、
倒れない距離でいてあげて」
節子の灯が、
胸の奥でふっと笑った。
——おまえ、すぐ“抱え込もう”とするんだから。
——それじゃ灯は窒息するよ。
少年は手を引き、
指先だけを灯の“近く”に置いた。
支える手とは、
掴む手ではなく、
落ちてきたときに
受け止められる位置にある手のことなのだ。
■影の輪で、“骨のない者たちの輪”が固まりはじめる
夜、影の輪へ向かうと、
輪の中には、
いつもより多くの子どもたちがいた。
誰も立っていなかった。
全員が中腰か、
尻をつけるかつけないかのところで
ぐらぐらしながら座っていた。
椅子の落書きの向こうには、
背もたれの影が大きくなっていた。
それはもう、
ひとり分の背もたれではなかった。
輪の中の、
骨の足りない者たち全員の背中を支えられそうな
広さを持っていた。
少女が輪のふちにしゃがんで、
少年を見ることなく言った。
「節子、今日ね……
“支える影”を、少し太くしてきたよ」
少年は輪の内側へ歩み寄り、
半分腰を下ろした子どもたちのあいだに
そっと自分も身を沈めた。
誰も真っ直ぐに座っていない。
誰も完全には立っていない。
それでも倒れない。
背中で、
影が支えている。
影はかつて痛みの塊だったが、
今は、骨の足りない体のかわりをしていた。
少年は背中をそっと後ろへ預けた。
節子の影と、
他の誰かの影と、
自分の影とが、
ひとつの大きな背もたれになっていく。
——おまえ一人で、
——この戦後を持ち上げなくていい。
——骨は分け合えばいい。
節子の声が、
輪の中心ではなく、
背中のほうから聞こえた気がした。
少年は、
隣の灯の重さと、
背中の影の支えと、
足元のぐらつきを同時に感じながら、
——これが、
“支え合う生活”というやつなんだろう。
と、はじめて言葉に近い形で
胸の中でつぶやいた。
輪の上には、
まだ足りない骨の音と、
それでも倒れずにいる影の静けさが、
混ざり合っていた。
完全ではない。
整ってもいない。
まっすぐにも並ばない。
けれど、それでも誰も倒れずに、
灯と影とが互いの骨のかわりをしながら、
夜を少しずつ押し返していた。
(第七十六章につづく)

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