佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第六十七章・第六十八章

目次

第66章 灯のための整え──影は埃を払う指になった

 翌朝、少年は胸の奥に“手入れの欲求”を感じた。

 迎えの灯が来る気配がしているのに、

 胸の空席がどこか乱れているように思えた。

 節子の灯が奥の部屋で、

 うっすらと笑っている。

 笑いながら、

 「汚いまま迎えていいの?」

 と言っているような気がした。

 少年は胸を押さえた。

 空席には、小さな影の埃が溜まっていた。

 昨日までの貸し借り、

 預けと返しの重みの“残りかす”だ。

 迎える前に、それを払い落とさなければならない。

——迎えるってことは、

——席をきれいにすることなんだ。

 外へ出ると、いつになく風が強かった。

 風は焼け跡の埃を巻き上げ、

 校庭へ向かう道の泥を薄く乾かしていった。

 風が灯より先に整えようとしている気がした。

 

  • ■影の道に“掃かれた跡”があった

 校庭への道に着いたとき、

 少年は驚いた。

 影の道の一部に、

 ごく薄い線が引かれていた。

 まるで、小さな箒で掃いたような跡。

 少女が横に来て言った。

「誰かが整えたんだよ。

 迎える前は、影もきれいにしないと」

「影まで……?」

「うん。

 影ってね、灯が座るところにもなるの。

 影は椅子の足なんだよ」

 少年は掃き跡を指でなぞった。

 土はさらさらしていて、

 昨日の湿った泥とは違っていた。

「迎える灯は、

 汚れがあると座れないの?」

「座れないわけじゃないよ。

 でもね、

 “来てよかった”って思えるような席にしてあげないと」

 風がまた吹き、

 掃き跡に新しい砂を乗せた。

 灯を迎える席は、

 永遠に整え続けなければならない。

 

  • ■黒板の字が“整える生活”を突きつけた

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■整

 ざわめきがうっすら広がった。

 整える、という行為は、

 生活が“人を迎える準備に入った”ことを示すからだ。

 教員が黒板を叩いた。

「今日は、“整える”について考える」

 少年の胸の空席が、

 その言葉にゆっくり反応した。

「整えるとは、

 綺麗にすることではない。

 『迎えるつもりがあります』と

 生活の姿勢を示すことだ」

 教室が静かになった。

「戦争は、

 人が人を迎える姿勢を奪った。

 誰も整えず、

 誰も迎えず、

 ただ奪い、ただ放り出し、

 席を壊し続けた」

 少年は無意識に胸を押さえた。

 節子の灯が、そこに寄り添って揺れていた。

「整えるとは、

 許すことではなく、

 『受け入れる準備をする意志』だ」

 子どもたちはそれぞれ紙に向かった。

「今日は、“整えそびれたままの場所”を書け」

 少年は書いた。

 ——節子のために整えられなかった机

 少女の紙にはこう書かれていた。

 ——母が帰る部屋の布団

 二人の字は、

 迎える前の寂しさで静かだった。

 

  • ■炊き出しの列で見た“整えの手”

 昼、炊き出しへ向かうと、

 配給係の青年が、

 釜の側面を布で拭いていた。

 焼けた灰の匂い。

 焦げ付きが落ちきらない表面。

 それでも、青年は何度も拭いている。

「拭いても綺麗にならないでしょうに」

 老婆が言うと、

「迎えたいんですよ」

 青年は答えた。

「誰を?」

「今日、来られるかもしれない人を」

 老婆は黙った。

 青年の手の拭き方は、

 拭きながら許しているかのようだった。

 少年の胸の灯が、

 その“整えの手”に揺れた。

——迎える前の拭き掃除は、

——自分の生活に言い訳しないための掃除。

 節子がそう言っているようだった。

 

  • ■釜戸の前に“整えの灯”が置かれる

 家に戻ると、釜戸の灰の上に、

 とても弱い光の灯が置かれていた。

 光はほとんど見えないが、

 形だけはくっきりしている。

 まるで椅子に座る前の、

 姿勢だけを示す灯のようだった。

「これは……?」

「“整えの灯”だよ」

 少女は言った。

「灯が整えるの?」

「ううん。

 灯が来る前に、人が整えるの。

 この灯は『整えてください』って座ってるの」

 灯は何も主張しないのに、

 胸の奥を強く締め付けてくる。

「整える前に灯が来てしまうと、

 灯は痛がるんだよ」

 少年は胸を押さえた。

 節子がある時、痛がった記憶が甦った。

 

  • ■影の輪で“椅子を拭く儀式”が始まる

 夜、影の輪へ向かった。

 輪の中心の椅子の落書きは、

 砂でうっすら汚れていた。

 子どもたちが何をするでもなく、

 ただその椅子の線を指で拭いていた。

 誰も言葉を発しない。

 ただ、拭く。

 整える。

 迎える前に、椅子を清める。

 少女も輪のふちに膝をついて

 椅子の線を拭いた。

「節子、今日ね……

 “整えの灯”を運んできたよ」

 少年は胸の空席がきゅっと狭まるのを感じた。

 くすぐったい痛みがあった。

「整えるってね、

 『来てくれていい』っていう無言の合図」

 少年は輪の中心に近づき、

 その椅子の線を慎重に拭った。

——迎える前に、

——席を綺麗にしておく生活。

 節子の声が、

 風より静かに胸に触れた。

 少年は拭いた椅子の前に座り、

 胸の灯を[整える側]として静かに抱いた。

第67章 灯のためらい──影が扉で立ち止まる

 翌朝、少年は胸に違和感を覚えて目を開けた。

 空席は整っている。

 埃も影も払った。

 しかし胸の奥に、

 “入りたがらない気配”があった。

 灯が来ようとしているのに、

 扉の外に立ち止まっている。

 節子の灯は奥の部屋で身じろぎもしなかった。

 まるで「まだよ」と言っているかのようだ。

 空席は用意した、

 迎える覚悟もある、

 だが——

 迎えられる側が来たがらない。

 その重みが胸に滞留していた。

 灯は光るだけではない。

 光らずに躊躇することもある。

 少年は喉が渇き、

 外の風を吸い込むように扉を開けて外へ出た。

 風は昨日より重く、湿っていた。

 焼け跡ではなく、“人の生活の残り香”が濃かった。

 濡れた灰の匂い、

 隠しきれない魚の腐りかけの匂い、

 怒りを押し込めた唾の匂い。

 迎えられる灯は、人の匂いに怯えていた。

 

  • ■影の道に“立ち止まりの跡”があった

 校庭へ向かう道で、少年は足を止めた。

 影の道の途中に、

 足跡が二つ重なり、

 その先に踏み込みの跡がなかった。

 誰かが途中まで来て、

 迷って、

 帰ろうとした跡。

「ここまで来たのに、帰ったのか?」

 少年が呟くと、

「帰ったんじゃないよ」

 いつの間にか少女が隣に来て言った。

「入れなかったの。」

「入りたくないのか?」

「迎えてもらうのは、こわいんだよ。

 自分が汚れていると思ってる人ほどね」

 足跡には指先で触れられるほどの震えが残っていた。

 影の泥が、

 “後ろめたさ”の形をしていた。

「迎えてほしいのに、迎えられたくない灯ってあるの」

 少年は胸を押さえた。

 本人が背負った影の汚れを、

 迎えられたくない灯は抱え続けている。

 迎えの灯は、人を試す。

 迎える覚悟が本物かどうか。

 

  • ■黒板の字が“ためらいの生活”を示す

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■躊

 教員は字の横に指を添えたまま、

 しばらく沈黙した。

 少年はその沈黙の意味が分かった気がした。

 迎える前に、来られない者の痛みに触れなければならない。

 教員が言った。

「今日は、“ためらい”について考える」

 子どもたちはめずらしくざわめかなかった。

「迎える覚悟があっても、

 迎えられる側の影が、それを拒むことがある。

 人は、自分が汚れたまま席に座るのを恥じるのだ」

 少年の胸の灯が深く揺れた。

 灯の形に見える“恥じらい”がそこに隠れている。

「戦争は人に影を刻んだ。

 影を持っている者ほど、

 『迎えられる」ことに耐えられなくなる」

 教員は、黒板に指で線を引いた。

「今日は、“迎えられそうで逃げた影”を書け」

 少年は書いた。

 ——節子が兄の腕を拒んだ夜

 少女の紙にはこう書かれていた。

 ——母が帰りかけて家に入らなかった朝

 二人の言葉は、

 迎えるより痛い拒絶を孕んでいた。

 

  • ■炊き出しの列で“拒まれた迎え”を見る

 昼、炊き出しへ向かうと、

 昨日戻ってきた若い母親が、

 赤ん坊を抱いて悶えていた。

 老婆が近づいて言った。

「席はあるよ。入んなさい」

 母親は涙をこらえたまま、

 言葉が漏れた。

「……顔向けできないんです」

 老婆は首を振った。

「顔なんか向けなくていいから戻っておいで」

 母親は赤ん坊を抱いたまま、

 胸の前に手を置き、うずくまった。

 迎えられたいのに、

 迎えられたくない。

 赤ん坊が泣き出すと、

 母親はその声に耐えられず、

 影の脇道に逃げ込んだ。

 老婆は追わなかった。

 追うことは迎えることではない。

 追わずに待つ。

 それが迎えなのだ。

 

  • ■釜戸の前に“拒んだ灯”が置かれていた

 家に戻ると、釜戸の灰の上に、

 とても弱い灯が置かれていた。

 光はあるのに、

 揺れようとしない灯。

 少女が言った。

「“ためらいの灯”だよ」

「来たのか?」

「来たけど、座りたくない灯。

 整った席を見ると、

 『自分は座れない』って思ってしまう灯」

 灯は震えることもなく、

 ただそこに“居づらそうに”置かれていた。

「迎える前に、灯のためらいを受け止めてあげないと」

 少年は胸を押さえた。

 節子の灯が、

 兄の腕を拒んだ夜の記憶を呼び戻していた。

 

  • ■影の輪で“座れない灯”の席を温める

 夜、影の輪へ向かった。

 椅子の落書きは拭き終わっているのに、

 輪の中心に灯は座らない。

 子どもたちは誰も座らず、

 椅子の周りに“手を添える”ようにしていた。

 触れず、乗せず、

 ただ席を温める。

 座らない灯のために、

 席をあたためる。

 少女が言った。

「節子、今日ね……

 “座れない灯”を運んできたよ」

 少年は胸の奥の空席が、

 痛みとあたたかさの両方で満たされるのを感じた。

「迎えるってね、

 席に座らせることじゃないの。

 座れるまで待つことなの。」

 少年はゆっくり膝をつき、

 椅子の落書きに手を添えた。

——灯が自分で座れるようになるまで、

——温めて待つ生活。

 節子の声が、

 焼け跡の夜に静かに響いた。

 少年は手を離さず、

 席の冷たさがほんのり温まり始めるのを感じた。

(第六十八章につづく)

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