第64章 灯の空白──影が触れずに残した席
返す灯を影の輪に置いた翌朝、
少年は胸の奥に“穴のような静けさ”を感じた。
灯が消えたわけではない。
節子の灯も、小さく息づいている。
昨日まで重さを主張していた預かりの灯も、
返す灯もなくなり、
そこにぽっかりと“空席”が生まれた。
空っぽの席。
そこには何かがいたはずの形だけが残っている。
灯の温度の記憶、
揺れた速さの残像、
重さの名残り――
それだけが残り、
中身はもう無い。
少年は胸に触れた。
空白は痛みではなく、
むしろ“あたたかさの影”だった。
外へ出ると、風は穏やかだった。
昨日の帰り道の匂いは薄れ、
かわりに焦げと土の匂いに、どこか甘い匂いがまざっていた。
焼け跡の間に咲いた、
名前の分からない草の花の匂いだった。
胸の灯が、その花の匂いに合わせて揺れた。
空白は、死でも喪失でもなく、
次の灯を入れるための場所だと示すように。
- ■影の道に“空白の踏み跡”があった
校庭へ向かう道で、少年は奇妙なものを見た。
影の道の一部が、ほとんど踏まれていない。
まるで誰もそこを通らなかったような白い跡。
周囲の泥が踏み固められているぶん、
そこだけがぽっかり残されていた。
少女が後ろから言った。
「“空白の跡”だよ」
「空白……?」
「うん。
誰も通らなかったんじゃなくて、
“通るはずだった人”が通らなかった跡」
少年は泥の白い部分を触った。
そこには、人の体温だけが抜け落ちたような
不思議な冷たさが残っていた。
「生活の中には、歩けなかった道もあるでしょ?」
少女は言った。
「影にも灯にも変わらない、
“そのままの空席”みたいな場所」
胸の灯が、
その言葉に呼応して揺れた。
——埋めなくていいよ。
——そのまま空席でいいんだよ。
節子の声が、
胸の奥に優しく届いた。
- ■黒板の字が“空白”の意味を教えた
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■空
ざわつきはほぼ無かった。
子どもたちは昨日の続きとして、
この字を受け入れる準備ができていたからだ。
教員が黒板を叩き、言った。
「今日は、“空(から)”について考える」
少年の胸の灯がゆっくりと揺れた。
空白は灯と影のあいだに生まれるものだからだ。
「空とは、欠けたところではない。
新しい灯が入る場所を作るための
“生活の椅子”だ」
教室が静かになった。
「戦争は、人から生活の椅子を奪った。
空を空として残せず、
影で埋めようとした。
痛みで埋めた者もいた」
教員は黒板の字を指し、言った。
「だが空白は、そのままでよい。
空白は、灯のための部屋だ。
埋めなくていい」
少年は胸の空白が、
なにか肯定されたように温かくなった。
「今日は、“埋めようとして埋められなかった空白”を書け」
少年は書いた。
——節子が笑った午後の席
少女は紙を見せた。
——母が座るはずだった夕飯の席
二人は互いに紙を見つめた。
返す灯よりも深い影がそこにあった。
- ■炊き出しの列で見た“空席の器”
昼、炊き出しの列へ向かった。
列の途中に、ひとつだけ空いた場所があった。
誰もそこに入らない。
近づかない。
避けるように列が曲がっていた。
少年が近づき、少女も隣に立った。
「ここ……誰の席なんだ?」
「“来られなかった人”の席だよ」
「亡くなったのか?」
「分からない。
でも、昨日までいたのに今日は来られなかった。
だから空席が残ったの」
少年は胸の灯が静かに揺れるのを感じた。
「空席ってね、
誰かがそこで“待っている”っていう印なんだよ」
少女は言った。
列の前のほうで、老婆が空席を見て涙ぐんでいた。
誰のためでもなく、
誰かのためにそこを“空けておく”。
それが、灯を返したあとの生活なのだ。
- ■釜戸の前に“空席の灯”が置かれる
家に戻ると、釜戸の灰の上に、
ほとんど光を持たない灯がひとつ置かれていた。
光は弱く、
輪郭も淡く、
揺れはほとんどゼロ。
ただ、そこに席を作るために置かれた灯。
「これは……?」
「“空席の灯”だよ」
少女が言った。
「空席……灯なのか?」
「うん。
灯はね、光るだけが役目じゃないの。
“ここに席があった”と教える灯もある」
灯の柔らかな影が、
釜戸の灰の上に丸く落ちていた。
「空席の灯は、
誰かが帰ってくるまでの椅子なの」
少年は胸の灯が
その空席を認めるように小さく揺れるのを感じた。
- ■影の輪で見た、“灯の椅子”のはじまり
夜、少年は影の輪に向かった。
輪の中心には、今まで見たことない形の落書きがあった。
丸い輪の中に、
椅子の形が描かれていた。
「まってる」
「またくる」
「ここにすわっていいよ」
「まだあいてる」
「いすをのこす」
影の輪は、
“灯の椅子” で満たされていた。
少女が輪の端にしゃがみ、
その椅子の形を指でなぞった。
「節子、今日ね……
“空席の灯”を運んできたよ」
少年は胸に手を当てた。
空白が、あたたかい座布団のように落ち着いていた。
「空白は悪いことじゃないの。
誰かのための席が残るっていうことだから」
輪の中心で、小さな灯が静かに揺れた。
空席の灯は、
いつか帰ってくる灯のための“先に置かれた椅子”だった。
少年はそっと輪の中に入り、
椅子の落書きのそばに膝をついた。
——空席を残せる人が、
——次の灯を迎えられる人なんだよ。
節子の声なき声が
胸に深く、静かに染み込んだ。
少年は影の輪の中心に指で“椅子”の形を描き直し、
その前に胸の灯をそっと重ねるように座った。
第65章 灯を迎える日──影が扉を開けた夕暮れ

翌朝、少年は胸の奥に昨日とは違う気配を感じた。
空席だった場所に、
風のような空気の塊が触れた気がしたのだ。
灯ではない。
影でもない。
ただ“誰かが扉の前に立っている”ような、
そんな予感。
節子の灯は奥の部屋にいて、
笑っているようでもあった。
迎えることを知っている人間の笑い方だ。
少年は胸を押さえた。
その空席の周りだけ、
温度がゆるやかに上がっている。
——来るんだ。
——迎える灯が。
少年は胸の奥の微かな震えを確かめてから外へ出た。
今日の風には、焦げも土も混じらず、
ただ夕立あとのような湿った透明さがあった。
風が焼け跡の道を静かに撫でていった。
瓦礫の隙間に光の粒が落ちていて、
少年はその粒を胸の灯が吸い込むように揺れるのを感じた。
- ■影の道に“迎える跡”があった
校庭へ向かうと、影の道に見慣れない跡があった。
一本道の途中で、
左右へ向く足跡が交互に連なっている。
まるで誰かが誰かを迎えるために、
左右を見渡しながら歩いた跡。
少女が隣に来て目を細めた。
「迎えに行った人の跡だね」
「迎えに……?」
「うん。
誰かが来ると分かっていて、
でもどこから来るか分からないと、
こうやって左右を見ながら歩くの」
少年はその足跡の間に足を置いてみた。
泥はまだ柔らかく、
誰かの“待ちきれない焦り”まで残していた。
「迎えるのって、大変なのか?」
「とても。
迎えるって、“許す”と似てるから」
胸の灯が強く震えた。
迎えることは、突きつけ合ったままの記憶も、
泥だらけの生活の残りも、
抱えたまま誰かを迎え入れるということ。
迎える灯は、
影よりも痛く、灯よりも静かなのだ。
- ■黒板の字が“迎える”の意味を示した
教室に入ると、黒板には今日の字が大きく書かれていた。
■迎
子どもたちの顔に戸惑いが走った。
迎えるという行為は、
戦後の生活においてもっとも苦しい性質を持つからだ。
教員が黒板を叩いた。
「今日は、“迎える”について考える」
少年の胸の空席が、
その言葉を待っていたかのように揺れた。
「迎えるとは、
自分の空席を他人の生活に開くことだ。
影でも、灯でも、痛みでも、
入り込む余地を作る行為だ」
子どもたちの呼吸が重くなった。
「戦争は“迎える席”を奪った。
誰も誰のためにも席を空けず、
逆に席を奪い合った。
だから、迎えることが一番怖い」
教員は続けた。
「迎えるとは、
“相手が来るまで待つ強さ”だ」
少年は胸の灯が深呼吸するのを感じた。
節子が、迎えることの痛みと温かさを知っているのだ。
「今日は、“迎えられなかった人”を書け」
少年は書いた。
——節子を迎え直せなかった兄の自分
少女は紙を見せた。
——母が帰る席を作れなかった私
二人の言葉は、
迎える前の静けさで満ちていた。
- ■炊き出しの列で見た“迎えの手”
昼、炊き出しへ向かうと、
列の前方で小さな変化が起きていた。
昨日空席だった場所に、
ひとりの若い母親が立っていた。
赤ん坊を抱き、
涙をこらえた顔をしている。
老婆がそっと近づき、
母親の肩に手を置いた。
「……戻ってきたね」
母親はうつむいたまま、小さくうなずいた。
「席はずっと空けておいたよ」
老婆の声は、
戦災と飢えの中で唯一残っていた“迎える声”だった。
少年は胸の灯が大きく揺れるのを感じた。
空席の意味が、
ここでようやくひとつ結ばれたのだ。
母親は赤ん坊を抱きしめ直し、
老婆に深く頭を下げた。
「……ありがとう」
その瞬間、
周囲の影が淡く揺れ、
焼け跡の空気が少し明るくなった。
迎える生活は、
ただ席を残すだけではなく、
席に帰ってきた人を“抱きしめる生活”でもあるのだ。
- ■釜戸の前に“迎えの灯”が置かれた
家に戻ると、
釜戸の灰の上には、新しい灯がひとつ置かれていた。
弱い光でもなく、
強い光でもなく、
ただ“ゆっくり近づいてくる光”。
少女が言った。
「“迎えの灯”だよ」
「迎え……の灯?」
「うん。
空席があるとね、
灯のほうから寄ってくるの。
返された灯じゃなくて、
“迎えられに来た灯”」
灯は釜戸の灰の上で、
息をつくように揺れていた。
「迎えるのって、こわいのか?」
「とても。
迎えるってことは、
自分の胸の中の空白の形を見せることだから」
節子の灯が胸の奥で優しく震えた。
迎える痛みを知っている者の震え方だった。
- ■影の輪で“迎えの席”が光る
夜、少年は影の輪へ向かった。
輪の中心には、昨日の椅子の落書きが、
今日になって光の跡をまとっていた。
椅子の線が二重になり、
その横に新しく“足跡”が描かれていた。
迎えに来た者の足跡だった。
少女が輪のふちにしゃがみ、
その足跡を指でなぞった。
「節子、今日ね……
“迎えに来た灯”を運んできたよ」
少年は胸に手を当てた。
空席が温かく広がる感覚があった。
「迎えに来た灯はね、
まだ名前がないの。
誰の灯になるか、
“座ってから”決まるんだよ」
輪の中心で、追い風のような気配が揺れた。
迎えに来る灯の気配は、
影と灯のあいだの“まだ名のない揺れ”だった。
少年は椅子の落書きの前に膝をつき、
胸の灯が空席へそっと寄るのを感じた。
——迎える生活は、
——胸の空白を“入口”に変える生活だよ。
節子の声が、
夜の焼け跡に深く響いた。
少年は椅子の前に指を置き、
その空席をそっと守るように目を閉じた。
(第六十六章につづく)

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