佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第六十二章・第六十三章

目次

第62章 灯を預かる日——影が静かに手を添えた朝

 翌朝、少年は胸の奥の灯が“重くなっている”のを感じた。

 重いといっても、痛いとか苦しいとかではない。

 まるで誰かの体温をそのまま受け取ったような、

 湿った温かさのある重みだ。

 節子の灯は奥の部屋に静かに座り、

 隣には昨日の“分け前の灯”。

 さらにその横には、一度も見たことのない

 “深く沈んだ灯”があった。

 灯の重さは、その灯の持ち主の生活の重さである。

 少年は胸に手を当てて、息を整えた。

 ——今日は“預かる日”なんだ。

 外に出ると、空気がひどく静かだった。

 風もない。

 瓦礫の隙間の水面さえ動かない。

 まるで空気そのものが“息を潜めている”ようだった。

 焦げた匂いは弱まり、

 代わりに、古い土と煤の混じった“人の疲れの匂い”があった。

 少年の胸の灯が、その匂いに合わせて強く揺れた。

 預かる灯の重さが胸の前まで上がってくる。

 

  • ■影の道の上に“深い沈み跡”があった

 校庭へ向かう途中、少年は見慣れた影の道で足を止めた。

 道の一部が、

 まるで誰かが長くしゃがみ込んでいたように

 深く沈んでいた。

 両手の跡、

 膝の跡、

 額を地面につけた跡のような凹み。

 少女がすぐに横に来て言った。

「“預かってください”って灯を持つ人がね、

 ここで立ち止まったんだよ」

「預かる……灯?」

「うん。

 自分の灯が重すぎて、

 だれかに預けないと歩けない人がいるの」

 少年はその沈み跡を触った。

 泥はまだ湿っていて、

 指に冷たい感触を残した。

「影の道はね、

 “預ける場所”にもなるんだよ」

 胸の灯が深く揺れた。

 預かる準備をしているのだ。

 

  • ■黒板の字が、“預かる生活”を示した

 教室に入ると、今日の字が書かれていた。

 ■預

 ざわつきも起きなかった。

 ただ静かに、

 その字の前で誰もが息を止めていた。

 教員は黒板を叩いて言った。

「今日は、“預かる”について考える」

 少年の胸の灯が、

 はっきりと反応して揺れた。

「預かるとは、

 渡すより重く、

 受け取るより重く、

 分けるより静かな行為だ」

 教員の声は、遠くの鐘のように響いた。

「預かるとは、その灯が返されるまで、

 その重さを背負い続ける覚悟をもつことだ。

 戦争は、その覚悟を奪った。

 皆、背負ったものを抱えられず、

 影の濃さだけが残った」

 教室の空気が深く沈んだ。

「だからいま、

 預かれる者から生活を再生させなければならない」

 少年の胸で、節子の灯が少しだけ強く光った。

「今日は、“預かれなかった灯”を書け」

 少年は迷わず書いた。

 ——節子の“泣き声の跡”

 少女は自分の紙を見せた。

 ——父の影の“沈んだ呼吸”

 二人の紙は、

 生活の深い底をそのまま写していた。

 

  • ■炊き出しの列で“預けられた灯”を見る

 昼、炊き出しの列へ向かうと、

 今日の空気は重かった。

 列の中央で、

 昨日の中年の男がぼんやり立ち尽くしていた。

 怒りもない。

 恥もない。

 迷いもない。

 ただ、疲れ切った顔。

 男が椀を差し出したとき、

 手が震えていた。

 配給係の青年が眉をひそめて言った。

「……大丈夫ですか」

 男は答えず、

 震える手を青年の前に差し出した。

 その手には、

 何も握られていなかった。

 空っぽの手。

 だがその空っぽこそが、

 “預かってほしい灯”の形だった。

 青年は、何も言わず、

 男の椀にいつもより多くの汁を注いだ。

 周囲の人々は静かにそれを見守った。

 少年の胸の灯が強く熱を帯びた。

——これが“預ける”ということか。

 節子の灯が、

 胸の奥で深い呼吸をした。

 

  • ■釜戸の前に“預かった灯”が置かれる

 家に戻ると、

 釜戸の灰の上には昨日よりも大きな灯がひとつ置かれていた。

 節子の灯より低く、

 受け取った灯より重く、

 迷いの灯より静かな光。

 少女が言った。

「それが、“預かった灯”だよ」

「……俺が預かったのか?」

「うん。

 今日、炊き出しで見た“空っぽの手”ね。

 あれを見て、石の胸の灯が

 自然に預かったんだよ」

 灯は重かった。

 だが、揺れは穏やかだった。

「預かった灯はね、

 返す日まで胸の中で温めておくんだよ。

 薄めないで、強めないで、

 ただ、そのままにしておく」

 少女の声は、

 まるで灯の説明書のように正確だった。

 少年は胸に手を当てた。

 節子の灯が、

 重い灯をそっと支えてくれている。

 

  • ■影の輪で“預けられた生活”が灯になる瞬間を見る

 夜、少年は影の輪へ向かった。

 輪の中心には、

 昨日までなかった深い凹みがあった。

 子どもたちの落書きも変わっていた。

 「あずけた」

 「あずかってくれてありがとう」

「ここにおいていった」

「またとりにくる」

「おいていったけどわすれないで」

 影の輪は、

 “預けられた生活”で満ちていた。

 少女が輪の端にしゃがみ、

 落書きをゆっくり指先でなぞった。

「節子ね……

 今日、“預けられた灯”を運んできたよ」

 少年は胸に手を当てた。

 胸の奥が、深く、静かに、暖かく満たされていく。

「影はもう、痛みじゃない。

 今日は“灯のゆりかご”になってる」

 輪の中心で、

 揺らめく小さな光がひとつ、

 深い呼吸をしているように見えた。

 少年は輪の中に入り、

 胸の灯と輪の灯が重なるのを感じた。

——預かる生活は、

——返す日まで灯を守る生活だよ。

 節子の声なき声が、

 胸の奥に深く染みた。

 少年は輪の中央の凹みにそっと指を置いた。

 その凹みは、

 人間が生きるための“休む場所”そのものだった。

 灯は静かにそれを照らし、

 夜の焼け跡に、小さな呼吸を刻んだ。

第63章 灯を返す日──影が示した“還り道”

 翌朝、胸の奥の灯が静かに揺れていた。

 昨日預かった灯とは明らかに違う動きだった。

 重さはそのまま、

 だが揺れは“外へ向かう”揺れ方だった。

 節子の灯は奥の部屋で見守っている。

 預けられた灯は、部屋の出口のほうへ寄り、

 まるで「戻してほしい」と言っているようだった。

 ——返す時が来たんだな。

 少年は胸の奥にそっと手を当てた。

 灯はその手に応えるように、

 小さく、しかし確かな震えを返した。

 外へ出ると、今日は風があった。

 焦げた匂い、土の湿り、

 人間の汗の残り香が混ざって、

 どこか“帰り道”のような匂いを作っていた。

 瓦礫の隙間に映る水たまりは薄く揺れ、

 昨日の静寂とは正反対の、

 “動きはじめの朝”だった。

 胸の灯が風に呼ばれるように揺れた。

 

  • ■影の道に“折り返し跡”があった

 校庭に向かう道で、少年は足を止めた。

 影の道の一部が、折り返すように二重になっていた。

 まるで誰かが途中まで歩き、

 立ち止まり、

 また戻ったような形。

 少女がやってきて言った。

「“返す人”が通った跡だよ」

「返す……?」

「うん。

 預けて、預かって、

 その灯を返す人の跡」

 少年はその折り返し跡を指でなぞった。

 泥は乾きかけていて、

 足跡のふちが少しひび割れていた。

「返すって、むずかしいよね」

 少女が呟くように言った。

「うん……なんでだろう」

「灯を返すってことは、

 “ありがとう”とか“ごめんね”とか

 言えない気持ちまで返すことだからだよ」

 胸の灯が、その言葉に強く揺れた。

 節子が、

 兄に“返す覚悟”を教えているのかもしれない。

 

  • ■黒板の字が“返す生活”を突きつけた

 教室の黒板には、今日の字が書かれていた。

 ■返

 子どもたちのざわめきは少なかった。

 その字には、

 何かを終わらせ、何かを始めるような

 妙な静けさがあったからだ。

 教員は黒板を叩いた。

「今日は、“返す”について考える」

 少年の胸の灯は、

 その瞬間に深く震えた。

「返すとは、

 持っている灯を手放すことだ。

 だが、それは失うことではない。

 返すことで、“次の灯が入る場所”ができる」

 教室の空気が変わった。

 返すという行為が、

 生活の流れそのものだと示されていた。

「戦争は、返すことを許さなかった。

 預かった痛みも、受け取った怒りも、

 返せず抱えたまま、人は影を濃くした」

 少年の胸に、節子の灯が強く揺れた。

「だから今、返す生活をしなければならない。

 返した灯は、必ずどこかで新しい灯になる」

 教員は最後に言った。

「今日は、“返したいのに返せなかったもの”を書け」

 少年は書いた。

 ——節子の“笑い声の残り”

 少女は紙を見せた。

 ——母に言いそびれた“ごめんね”

 二人の紙は、

 どこにも返せずに胸の底に沈んだ記憶だった。

 

  • ■炊き出しの列で“返される灯”を見た

 昼、炊き出しの列へ行くと、

 昨日預けてきたような顔をしていた中年の男が、

 今日は列の一番前で静かに立っていた。

 配給係の青年に椀を差し出す前、

 男は小さな布袋を取り出した。

「……昨日、預かってもらっただろ」

 青年は驚いたように男を見た。

「返しに来たんだ。

 重かったら悪いと思って」

 布袋の中には、

 乾いた豆が少しだけ入っていた。

「……ありがとうございます」

 青年は深く頭を下げた。

 少年は胸の灯が強く揺れるのを感じた。

——返すことで、灯は軽くなる。

 男の影は、昨日の沈みから少しだけ浮いていた。

 少年の胸にある“預かった灯”も、

 返される時を待っているように揺れていた。

 

  • ■釜戸の前に“返す直前の灯”が置かれた

 家に戻ると、

 釜戸の灰の上に、今日の灯が置かれていた。

 それは昨日より軽く、

 返される準備をしているような形だった。

 輪郭は薄く、

 光は弱いが澄んでいた。

「これは……?」

「“返す灯”だよ」

 少女が言った。

「返しに行くんだ……俺が?」

「うん。

 返すのは“持ってた人”じゃなくて、

 “預かった人”なんだよ」

 灯は、その場を離れることを待っていた。

 背中を押すのではなく、

 そっと前に出る準備の揺れ方だった。

「返すのって、難しいのか?」

「とてもね。

 でも、返せる人だけが次の灯を持てるの」

 節子の灯が、

 兄の背をふっと押した気がした。

 

  • ■影の輪の中心で、“灯が還る瞬間”を見る

 夜、少年は影の輪に向かった。

 輪の中心には、昨日の深い凹みがさらに広がっていた。

 今日の落書きはこうだった。

「かえした」

「かえってきた」

「かえせた」

「まだかえせない」

「いつかかえす」

「かえしたらあかるくなった」

 影の輪は、返される灯の気配で満ちていた。

 少女が輪の端にしゃがみ、

 落書きの文字をなぞった。

「節子、今日ね……

 “返された灯”をいっぱい運んできたよ」

 少年は胸に手を当てた。

 返すべき灯が、

 胸の前で“そちらへ”と揺れていた。

「返す灯はね、

 返されたあとに初めて光るんだよ」

 輪の中心で、

 小さな光がふっと浮かんだ。

 少年は輪の中に入り、

 灯をそっと地面に置いた。

 灯は一瞬だけ揺れ、

 次の瞬間、

 輪の光と溶け合い、

 夜の闇にひっそりと還った。

——返す生活は、

——前へ進むための最後のひとつだよ。

 節子の声が、

 胸の奥で柔らかく響いた。

 少年は深く息を吸い、

 返した灯のあとの空いた場所が、

 新しい何かを待っているのを感じた。

(第六十四章につづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次