第60章 灯の受け皿——影が渡した“受け取る生活”
翌朝、少年は胸の灯が「受け皿」のような形になっていることに気づいた。
灯には形がないはずなのに、
胸の奥でゆっくり揺れているそれは、
まるで“何かを受け取るためにそこにある器”のように感じられた。
節子の灯は、兄の迷いを消さず、
寄る灯、拾った灯、怒りの灯……
どんな灯も受け止めて、
胸の中で“生活の灯”に変えていた。
——今日は、きっと“受け取る日”だ。
少年は、その予感を胸に抱いたまま外へ出た。
昨日の雨のせいか、地面はしっとりしていた。
瓦礫の隙間にたまった水たまりには、
濁った空が映っている。
ところどころ、油の虹色が浮かんでいた。
焦げた木材の匂いは薄れ、
代わりに、家庭の残り香のような匂いがあった。
小さく、ほのかで、人の息のような匂い。
胸の灯は、その匂いに呼応するように揺れた。
- ■影の道に“置かれたもの”が増えていた
校庭への道を歩くと、
影の道には“落ちているもの”ではなく、
“置かれているもの”が混じり始めていた。
紙に包まれた焦げた芋の端。
錆びた釘を布で巻いたもの。
破けた手袋の片方。
濡れたままの鉛筆。
どれも、明らかに“拾ってください”という形をしている。
少女がやってきて、それらをひとつひとつ見て言った。
「今日は“受け取る日”だね」
「受け取る……?」
「うん。
影の道に“置かれたもの”はね、
誰かが“受け取ってほしい”って思った証なんだよ。
落としたんじゃなくて、置いたもの」
少年は目を凝らした。
確かに、泥の跳ね方が違う。
落ちたものは衝撃の跡があるが、
置いたものは静かに土に触れている。
「置くってことはね、
“これは私の生活でした”って、誰かが差し出したってこと」
胸の灯が、深くうなずくように震えた。
——受け取れ、と言っている。
- ■黒板の字が、“受け取る生活”を示した
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■受
子どもたちは今日もざわついた。
受け取るという行為は、
戦後の生活では弱さとみなされることが多かった。
だが、教員は静かに黒板を叩いた。
「今日は、“受け取る”について考える」
少年の胸の灯が、慎重に耳を澄ませていた。
「受け取るとは、弱さではない。
受け取れる者は、渡された生活を
逃がさず抱えるだけの力を持つ者だ」
教室全体が、息を呑んだ。
「受け取ることができる者だけが、
生き残る。
それが生活だ」
少年の胸の灯が、小さく強く揺れた。
「戦争は、人から“受け取る力”を奪った。
皆、自分の分だけを握りしめ、
渡さず、受け取らず、
影ばかり濃くした」
「だから今は、その逆をしなければならない。
受け取り、渡し、また受け取り……
往復して、生活は戻る」
教員は最後に言った。
「今日は、“受け取れなかったもの”を書け」
少年は迷いながら書いた。
——節子から受け取れなかった“最後の声”
少女も紙を見せた。
——母がくれた“帰ってきてね”の言葉
二人は互いに紙を見つめ、その重さを感じた。
胸の灯が静かに震えた。
受け取れないものも、生活の一部なのだ。
- ■炊き出しの列で“渡される生活”を見る
昼、炊き出しの列へ行くと、
今日はいつもと様子が違った。
老婆が、列に並んでいた少年に、
小さな紙包みを差し出したのだ。
「これ……受け取ってくれないかい」
中には、砕けた麦が少しだけ入っていた。
少年が昨日拾い集めた麦の、
その一部だった。
「昨日のあんたの顔を見てね……
持っててほしいと思ったんだ」
老婆の影は薄かった。
泣きたさが影に変わらず、
ただ灯のように淡く揺れていた。
「……ありがとう」
少年は、手でそっと包み込んだ。
胸の灯が、一瞬だけ強く光った。
節子が喜んでいるのが分かった。
列の他の人々も、そのやりとりを見て、
少しだけ表情を緩めた。
渡す人がいる——
受け取る人がいる——
それだけで、生活は明るくなるのだ。
- ■釜戸の前に“受け取った灯”が置かれる
家に戻ると、釜戸の灰の上には、
今日の灯がひとつ置かれていた。
節子の灯より少し高く、
昨日の灯より丸く、
そして柔らかな光をしていた。
「これは……?」
少女が横から言った。
「“受け取った灯”だよ」
「受け取った?」
「うん。
人から渡されたものを受け取ると、
灯はこういう形になる。
細くないし、迷ってもいないし、
押しつけられてもいない」
灯は、
ただそこに置かれていた。
揺れるでもなく、
沈むでもなく、
消えそうでもなく、
はっきりと“居場所”を持っていた。
「受け取る灯はね、
生活の中心になっていく灯なんだよ」
少年は、その灯の意味を深く理解した。
節子が胸の中で揺れ、
一瞬だけ、兄の肩に手を置いたように温かかった。
- ■影の輪が“受け取った生活”で満ちていく
夜、少年は影の輪に行った。
輪のまわりには、今日もいくつもの落書きがあったが、
今夜は様子が違う。
「わたされた」
「うけとった」
「ここにおいてくれた」
「ありがとう」
「もらった」
「たしかにうけとった」
影の輪は、“受け取った生活”で埋まっていた。
少女が輪の端にしゃがみ込み、
指で落書きをゆっくりなぞった。
「節子、今日ね……
“ありがとう”って灯を持ち帰ったよ」
少年は胸に手を当てた。
胸の奥の灯が、今まででいちばん柔らかく揺れた。
「影が薄くなるとね、
“受け取る力”が大きくなるの。
生活は、受け取るところから始まるから」
少年は輪の中へ入った。
地面には、灯の形がいくつも光っていた。
それらは節子の灯と重なるように、
ゆっくり輪郭を揺らしていた。
——受け取りなさい。
——渡しなさい。
——また受け取って生きなさい。
節子の声なき声が、
今夜はとくに明るかった。
少年は輪の中心から小さな紙片を拾い、
胸の灯の前にそっと置いた。
灯はそれを静かに受け取った。
第61章 灯の分け前——影が示した“分ける生活”

翌朝、少年は胸の奥が“二つに揺れている”ことに気づいた。
灯の揺れが二つの速度で、
ひとつは節子の灯、
もうひとつは昨日受け取った灯のように感じられた。
節子は胸の奥の部屋に静かに座り、
もうひとつの灯は部屋の入口あたりで、
まるで「ここから出たい」と言っているように揺れていた。
——分けようとしているのか?
そう思うと、胸の奥で灯の揺れがひときわ早くなった。
外に出ると、今日の空気はざらついていた。
焦げた木の匂いではなく、
人間の体温に近い“ほこりの匂い”。
焼け跡に血肉が戻りつつある証だった。
瓦礫の隙間には乾ききらない泥があり、
そこに足跡が入り乱れていた。
一つひとつの足跡が、
昨日の喜びや、今日の迷いや、
誰かのささやかな生活を証明していた。
胸の灯は、それらの足跡を照らすように揺れた。
- ■影の道に“分けられた跡”があった
校庭に向かうと、影の道が二つに分かれていた。
まっすぐ伸びる本道と、
横にふらりと逸れた細い道。
細い道には、小さな手の跡が続いていた。
まだ幼い子が泥の上に手をつきながら歩いた跡だ。
「分け道だね」
少女がいつの間にか隣にいた。
「誰が歩いたんだ?」
「“誰かに分けてあげた”って灯を持つ人だよ」
「分けてあげた……?」
「うん。
生活が増えてくるとね、灯も増えるでしょ?
灯が増えると、どこかで“分けてあげたい”って思うの。
それが、この道」
少年は細い道の入口にしゃがみ込み、泥を指で触った。
泥は柔らかく、昨日の夜の雨をまだ吸っていた。
胸の灯の片方が、その方向へ揺れた。
——分けたい、と節子が言っている。
- ■黒板の字が、“分ける生活”の核心を突きつける
教室に入ると、黒板には今日の字があった。
■分
教室がざわついた。
分けるとは、失うことでもあるからだ。
だが、教員は黒板を叩いて言った。
「今日は、“分ける”について考える」
少年の胸の灯が一度ぴたりと静まり、
次に、ゆっくり揺れだした。
「分けるとは、手放すことではない。
分けるとは、自分の灯を増やすことだ。
渡したぶんだけ、自分の生活が広がる。
受け取ったぶんだけ、他人の生活が胸に入る」
教員の言葉は、
戦後の生活ではめったに聞けない種類の肯定だった。
「戦争は“奪う”生活だった。
だから、今日からは“分ける”生活に変えなければならない。
分ける者だけが、影の痛みを灯に変えることができる」
少年の胸に、
節子の灯が強く揺れた。
「今日は、“分けたかったもの”を書け」
少年はゆっくり書いた。
——節子と食べた、あの薄い粥の温度
少女は紙を見せた。
——帰ってきて、と言えなかった声
二人はなんとなく、同時に息を吸った。
- ■炊き出しの列で“分けてもらう声”があった
昼、炊き出しの列へ向かうと、
昨日とは逆のことが起きていた。
中年の男が、
列の後ろから来た幼い子に、
自分の椀の中の芋のかけらをそっと分けていた。
「ほら、ちょっとだけどな。
腹の足しになるよ」
子どもは驚いたように男の顔を見たが、
すぐに笑ってそれを受け取った。
周囲の影が、
その一瞬だけ淡く揺れた。
少年は胸の奥の灯が、
「見てごらん」と言うように強く揺れるのを感じた。
——分ける生活は、影を薄くする。
男の影は、昨日ほど濃くなかった。
怒りの灯の残滓はあるものの、
灯がそれを薄めはじめている。
少年は胸の灯をそっと押さえた。
節子が、自分に“何かを分けなさい”と促している。
- ■釜戸の前に“分け前の灯”が並ぶ
家に戻ると、釜戸の灰の上に、新しい灯が置かれていた。
節子の灯が中心に。
昨日受け取った灯がその横に。
そして今日は、
その灯よりもさらに淡い、“分け前の灯”があった。
「これは……?」
少女が言った。
「“分けてあげられなかった灯”だよ」
「分けてあげられなかった……?」
「うん。
今日、石は何かを分けるつもりだった。
でも、まだ勇気が足りなかった。
その“分け損ね”が灯になるんだよ」
灯は、恥ずかしさの形に似ていた。
揺れようとして揺れず、
強くなりたいのに強くならない。
しかし少女は微笑んだ。
「でもね、分けられなかった灯が最初に灯るんだよ。
分けられる人間になるために、
胸の中で種みたいに育つの」
少年は胸の灯が、
「そのとおりだ」と優しく揺れているのを感じた。
- ■影の輪の中心で、“分けられた灯”を見る
夜、少年は影の輪に行った。
今日も子どもたちの落書きが多い。
「わけてもらった」
「ありがとう」
「すくなかったけどあったかかった」
「きょうはわけた」
「わけそこねた」
影の輪は、生活の“分け前”で満ちていた。
少女が輪のふちにしゃがみ、
落書きの上をひとつひとつなぞった。
「節子、今日ね……
“分けてもらった灯”を運んできたよ」
少年は胸に手を当てた。
胸の奥の灯が、二つ、三つと重なるように揺れた。
節子が、誰かの“分けてもらった生活”を
兄のところへ持ち帰ったのだ。
「影はもう、痛みを運ぶんじゃないよ。
生活の灯を運んでる」
少女の声は、どこか誇らしげだった。
少年は輪の中心へ進み、
小さな灯の形の落書きに触れた。
胸の灯がそれに応えるように揺れた。
——分けてもらった灯は、
——いつか分ける灯になる。
その声なき声が、
少年の胸の奥に深く染みた。
少年は輪の中心に落ちていた小石を拾い、
今日の“分け前の灯”の横に置いた。
灯は静かに光を返し、
その小石を包み込むように揺れた。
(第六十二章につづく)

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