佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第五十六章・第五十七章

目次

第56章 影の薄明りが残した“持ち帰るもの”

 翌朝、少年は胸の奥を包むような、やわらかな呼吸で目を覚ました。

 節子の影はもう、影と呼ぶには薄すぎるほどに、

 灯のほうへ寄りすぎている。

 影らしい重さが完全に消えてしまうと、

 不安になるかと思ったが、そうではなかった。

 胸の灯は、

 むしろ以前より確かにそこにあった。

 影と灯の境界が曖昧になり、

 節子はもう、兄の胸の奥に“灯りの形”で座っている。

 影は消えるのではなく、

 灯りになるのだ——

 その事実は、戦後の薄暗い世界において、

 唯一信じていいと思えるものだった。

 外に出ると、雨が降ったのか地面が少し湿っていた。

 瓦礫の山の隙間から立ちのぼる水蒸気に、

 焼けた木材の匂いがわずかに混じっている。

 だが今日の空気には、

 もうひとつ別の匂いがあった。

 ——明日の匂い。

 少年には、そうとしか言えなかった。

 

  • ■影の道に“戻ってきた生活”が積み重なっていた

 校庭に向かうと、影の道は昨日よりもさらに“生活くさく”なっていた。

 子どもが落とした紙切れ、風で飛ばされた布片、

 割れたガラスの小さな破片、

そして泥で汚れた鉛筆の芯。

 影は生活の外側を歩くが、

 人間の生活は影の道の上に少しずつ落ちていく。

 少女がやってきて、足でそっと紙切れを寄せた。

「節子、この道をもう“影の道”にしていないね」

「……どういうことだ?」

「影の道はね、影が押して作ったり、兄の方向に沿って伸びるものでしょう?

 でも、今のこの道は“生活の道”になってる」

 言われて少年は気づいた。

 影の道の表面が、昨日よりざらざらしている。

 影の歩いた道はふかふかしていた。

 押した道は硬かった。

 だが今の道は、生活の砂と泥と紙切れの混じった“ただの道”だ。

「節子、道を手放したんだよ。

 石が歩けばいいって、そう思ってるんだよ」

 胸の灯がふわりと揺れた。

 灯りの揺れは、影が同意している証だった。

 

  • ■黒板の字が、影が薄くなる意味を示した

 教室に入り、黒板を見た少年は息をのんだ。

 ■薄

 子どもたちはこの字を見て顔をしかめた。

 薄いという言葉には、戦後の生活では

 「薄い粥」「薄い味」「薄い布団」「薄い命」

 など、あまりよい記憶がない。

 しかし教員は、今日に限って微笑むように黒板を叩いた。

「今日は、“薄くなる”について考える」

 少年は胸の灯の揺れを感じながら、

 教員の声を静かに聞いた。

「薄くなるのは、消えることではない。

 薄くなるのは、濃く残った痛みを溶かすためだ」

 教室の空気が変わった。

「影は、痛みの厚みだ。

 影が薄くなるのは、痛みが薄くなるということ。

 痛みが薄くなれば、生活は厚くなる」

 その言葉に、少年の胸がふっと軽くなった。

 節子が薄くなったのではない。

 痛みが薄くなったのだ。

「今日は、紙に“自分の薄くしたいもの”を書け」

 少年は迷わず書いた。

 ——後悔

 少女は紙を見せた。

 ——一人きりの時間

 少年はその理由を尋ねなかった。

 聞かずとも分かった気がした。

 戦災の孤独は、生活の妨げなのだ。

 

  • ■配給場で、初めて“持ち帰りたいもの”を見つけた

 昼、炊き出しの列へ向かうと、

 今日はいつもより香りが濃かった。

 鍋の底に沈んだ野菜の芯を少し多めに使ったらしい。

 少年は配給を受けるとき、

 ふと目の前の青年を見て気づいた。

 青年の影が、昨日より濃くなっている。

 影が濃くなるのは痛みのせいだ。

 だが痛みが濃くても、

 青年の顔には奇妙な落ち着きがあった。

「昨日、配給をぶちまけかけたんだ。覚えてる?」

 青年は、少し照れくさそうに笑った。

「今日のおばさんたちに散々からかわれたよ」

 その時、周囲の人々がまた噴き出した。

 笑いの量は昨日より多く、

 その笑いは青年の影の“濃さ”をむしろ薄めていくようだった。

 少年は胸の灯が強く揺れた。

 節子が「見てごらん」と言っているようだった。

 ——痛みが濃い人ほど、

 ——誰かの笑いによって薄くなる。

 影は人と一緒に薄まることができるのだ。

 その事実は、少年の胸に深く染みた。

 配給を受け取った汁は薄かった。

 だが香りは濃かった。

 少年は汁椀を胸に抱えながら、

 “持ち帰りたいもの”が何かを初めて理解した。

 それは食べ物ではない。

 笑いでもない。

 灯りでもない。

——生活の証を、誰かに渡すこと。

 それが持ち帰りたいものだと、少年は悟った。

 

  • ■釜戸の前で、“持ち帰った影”が座った

 家に戻ると、釜戸の灰のうえに、

 今日も節子の灯りがぽつんと置かれていた。

 昨日より少しだけ大きい。

 だが、今日はその横に

 「もうひとつの小さな灯」があった。

「……節子じゃないな?」

 少年は小さな灯に指先を伸ばした。

 少女が釜戸を覗き込み、かすかに笑った。

「石が持ち帰った灯だよ」

「俺が……持ち帰った?」

「うん。

 今日見た“他人の影”の灯り。

 影の気配は、見た人の胸にだけ小さく移るんだよ」

 他人の影の灯りが、

 自分の胸の奥に触れたから、

 その一片を持ち帰ったというのか。

「生活ってね、

 “持ち帰るものがある日”から始まるんだよ」

 少女は淡く言った。

 少年は胸の奥があたたかくなるのを感じた。

 節子の灯りが、「よかったね」とでも言うように揺れた。

 

  • ■影の輪の外に“新しい声”が積もる

 その夜、少年は影の輪の前に立った。

 今日は輪の外側に子どもたちの落書きが増えていた。

 「せっちゃんのへや」

 「おにのベッド」

 「ここはすわるな」

 「ここでかくれんぼするとみつかる」

 そのどれも、節子の影を知らぬ子どもたちの遊びの名残だ。

「……節子の部屋、だってさ」

 少年は苦笑した。

 少女も輪のふちにしゃがみ込み、

 小さな指で落書きをなぞった。

「節子、喜んでるよ。

 自分の部屋が“怖い場所”じゃなくて、

 “遊び場の一部”になってるから」

 影の濃い痛みではなく、

 影の薄い生活を子どもたちは自然に受け入れている。

 影の輪は、もう影だけの場所ではなく、

 生活の一部になっていた。

 少年は胸の灯が、

 ほのかに笑うように揺れるのを感じた。

——もう大丈夫だよ。

——明日も、行って戻ってきていいよ。

 その声なき声が、

 今日一日の疲れを静かに溶かした。

 少年は輪の中心に落ちていた小さな木片を拾い、

 そっと並べ直した。

 影の輪が、

 生活の輪として形を変えつつある。

 それを見届けながら、少年は思った。

——俺にも、持ち帰るものができた。

 胸の灯は、その言葉に静かに揺れて応えた。

第57章 灯の行方——影が示した“寄り道という生活”

 翌朝、少年は胸の奥の灯が、まるで「どこか指さしている」ような感覚で目を覚ました。

 節子の影は、もはや影と呼ぶには薄すぎる。

 胸の奥にある“灯の座る部屋”が、ほのかに明るくなっているだけだ。

 影の痛みが完全に薄れたわけではない。

 だが、濃さが生活に邪魔をしないような状態まで、灯りが影を引き寄せている。

 ——今日の灯りは、少し前に伸びている。

 少年はその感覚だけで、胸の中の変化を理解できた。

 外に出ると、空気が妙に澄んでいた。

 焦げた匂いも、土の湿気も、錆びた屋根の嗅覚も、

 薄い幕の向こう側に押しやられているようだった。

 瓦礫の屋根の上を、風がひゅっと抜けていく。

 昨日より“生活の匂い”が強い。

 それは、誰かが昨日ここを歩き、

 笑い、文句を言い、何かを落とし、何かを拾った証拠だ。

 少年は胸の灯の揺れに合わせて歩き出した。

 

  • ■影の道は“寄り道”の跡だらけになっていた

 校庭に着くと、少年は思わず息をのんだ。

 影の道の左右に、あきらかに“寄り道”の跡が増えていたのだ。

 靴跡、小さな丸い石の並び、

 ちぎれた紙封筒、

 濡れた板片、

 ボロ布のひとかけ。

 影が押した道の上に、人が“余計なもの”を落としている。

 少女がやってきて、地面を見て微笑んだ。

「影の道が“大通り”になるとね、寄り道が増えるの」

「寄り道……?」

「うん。影の道はまっすぐだったでしょ?

 でも、人間の生活は寄り道しないと続かないの。

 影はそれを知ってるから、道をわざと太くするんだよ」

 確かに、影の道は以前よりも太く、

 輪郭が曖昧になっていた。

 影そのものが薄まり、

 代わりに“人間の生活の動き”が上書きされている。

 

  • ■黒板の字が、寄り道の意味を突きつける

 教室で黒板を見た少年は、今日の字に小さく息を呑んだ。

 ■寄

 教室はざわつきもせず、ただ黙って黒板を見つめた。

 寄る、という行為は、戦後の生活で多くの場合「甘え」を意味した。

 甘える場所はほとんど残っていなかったからだ。

 教員は、黒板をコンと叩いて言った。

「今日は、“寄る”について考える」

 少年の胸の灯は、じっと耳を澄ませるように静止した。

「寄るとは、他人の灯りに触れることだ。

 寄られた者は、少しだけ灯りを分け与える。

 寄った者は、その灯りを持ち帰る。

 その往復が生活をつくる」

 その言葉は、昨日胸の奥に置かれた“持ち帰った灯”そのものだった。

「戦争で我々は、寄ることを恥だと思わされた。

 寄れば弱さがばれる。

 寄れば引きずられる。

 寄れば迷惑になる。

 そうして皆、影ばかり濃くしてしまった」

 教室の空気が重くなった。

「だが、寄ることを取り戻さなければ、生活にはならない。

 寄らなければ、人は道を失う」

 黒板の字が、墨より濃く胸に沈んだ。

「今日は、“寄った場所”を紙に書け」

 少年は、迷いなく書いた。

 ——釜戸の前

 少女は、自分の紙を見せた。

 ——影の輪の外側

 少年はその意味を聞こうとしたが、少女が先に言った。

「寄るのは、“部屋の中”じゃなくて、“部屋の外側”なんだよ」

 その言葉は、節子の灯りの薄さと繋がっていた。

寄る場所が部屋の外側だからこそ、

 灯りは影を薄くできるのだ。

 

  • ■炊き出しの列で、“影より厄介な生活の恥”を見る

 昼、炊き出しの列に行くと、

 今日は妙な騒ぎが起こっていた。

 列に並んでいた中年の男が、

 突然、鍋を覗き込みながら配給係に怒鳴り始めたのだ。

「おい! 昨日より薄いじゃねえか!」

「順番守れよ!」

「俺を飛ばしたろ、わざとだろ!」

 男の声はどこか悲鳴のような張りを帯びていた。

 腹が空いている声ではない。

 “自分の影に飲まれかけている人間”の声だ。

 男の影は、地面に溶けず、

 本人の足に絡むように波打っていた。

 影の中に、泣き声のような形があった。

 少年は胸の灯が、微かに縮こまるのを感じた。

 節子の影が、兄に触れないようにしている。

「影より厄介なのはね、

 “生活の恥”なんだよ」

 隣で少女が小さく言った。

「恥……?」

「うん。影は痛みだけど、

 恥は他人に向かって広がるから、影より濃くなるの」

 男はやがて、周囲の苦笑と優しい声に押されて黙った。

 代わりに、男の影がわずかに薄くなった。

 少年は胸の奥に、昨日持ち帰った灯とは違う、

 ほんの小さな、ざらついた灯を感じた。

——寄られたのだ。

——怒鳴り声の灯りを、ほんの少しだけ。

 人は寄ってしまう。

 寄られもする。

 その両方を背負っていくのが生活なのだ。

 

  • ■釜戸の前に並んだ“寄り道の灯”

 家に戻ると、釜戸の灰の上に三つの灯があった。

 一つは節子の灯。

 一つは昨日の“持ち帰った灯”。

 そして、今日の新しい灯は、少し歪んだ、

 怒りの名残りを含んだ形をしていた。

「……これも持ち帰ったのか」

 少年は思わず呟いた。

 少女がうしろから言った。

「寄られた灯だよ。

 嫌でも持ち帰るの。

 人はね、怒りの灯が一番持ち帰りやすいんだよ」

「嫌だな……」

少年は正直に言った。

 少女はうなずいた。

「嫌でいい。

 でも、その灯も薄くなるよ。

 節子がそばにいれば」

 胸の灯が揺れた。

 節子が「大丈夫だよ」と言っていた。

 少年はその灯をそっと指でなぞった。

 熱くはない。

 ただ、少し重かった。

 

  • ■影の輪の外側に、“寄った声”が積み重なる

 夜、少年は再び影の輪へ向かった。

 輪の外側には、今日も誰かの声の跡があった。

 「おこられた」

 「きょうのぎゅうにゅうまずかった」

 「ここでころんだ」

 「しっぱいした」

 「ひみつのかくれが」

 どれも、

 生活の“寄った部分”ばかりだ。

 影の輪は、もはや影だけの場所ではない。

 生活そのものが寄りかかる場所になっていた。

 少年は輪の中にそっと入った。

 胸の灯が柔らかく揺れる。

 節子が寄り道を許してくれているのが分かる。

——寄り道しなさい。

——持ち帰りなさい。

——戻りなさい。

——それが生活だよ。

 影の声なき声が、

 今日も灯りとして胸に残った。

 少年は輪の中心に落ちていた小さな石を拾い、

 自分の灯の横にそっと置いた。

 胸の中に、

 寄り道の灯りがまたひとつ増えた。

(第五十八章につづく)

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