佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』

目次

第50章 影が離れても、胸の奥に残るもの

 朝は、いつになく長く静かだった。

 少年は胸の奥で“空洞”の輪郭が広がっているのを感じた。

 昨日よりもはっきり、そして乾いていた。

 湿りはもう一滴も残っていない。

 影の押す温かさすら、薄まっている。

 それが寂しさかと言われれば、そうではない。

 影が離れつつあるのだと気づくほど、

 少年は影の“生活”を理解しはじめていた。

 ——押す者は、いつか手を離す。

 生きた人間でも、影でも、同じだ。

 外に出ると、戦後の朝らしい曖昧な空が広がっていた。

 灰色に濁りながらも、どこか優しさのある光が地面に落ちている。

 光に力はないが、“見ていく勇気”だけはあった。

 

  • ■影の寝床に起きた“初めての静寂”

 校庭へ向かうと、影の寝床が昨日と全く同じ形で残っていた。

 丸い寝床も、その隣の新しい宿も、土のやわらかさも変わらない。

 まるで誰も座らず、誰も触れなかったように静かだった。

「……節子、来なかったのか?」

 つぶやいた瞬間、胸の奥が小さく震えた。

 だがそれは返事というより、

 “聞いている”気配だった。

 少女が後ろから歩いてきて、寝床の土を指で押した。

「来てないね。昨夜は」

「どうして分かる?」

「節子の座った寝床は、朝になると少しだけ冷たくなるの。

 ここは、昨日のままの温度だよ」

 影の温度——

 それは湿りよりも儚く、火よりも弱い。

 しかし確かに存在する。

「節子、押したあと、少し離れるんだよ」

「……離れる?」

「うん。押して、道をつくって、石が選んで、動き出す準備が整ったら、

 影はね、いったん距離をとるの」

 胸の奥に空洞ができた理由は、それだった。

 影は兄のために押した。

 押したあと、兄の手を放した。

 そして、兄が一人で立てるのかどうか、少し離れて見ている。

 影の“親離れ”のようなものだ。

 生きていた節子が兄に甘えていた姿とは違うが、

 ここには影なりの成長があった。

 

  • ■黒板の字が、影の離れ際を示した

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■離

 少年の心臓が強く震えた。

 まるで教員が影の昨夜の行動を見透かしているようだった。

 教員は黒板を軽く叩き、いつもより静かに言った。

「今日は、“離れる”について考える」

 教室は重たい沈黙に覆われた。

 離れるという字は、戦争で家族を失った子どもたちには重すぎる。

「離れることは、裏切りではない。

 離れることは、生きるための準備だ」

 少年は胸の奥で乾いた空洞がひろがるのを感じた。

 それは痛くも辛くもなかった。

 ただ静かだった。

「影も、人も、

 押すだけ押して、離れる。

 そうでなければ、押された者は歩けない」

 その言葉は、節子の影そのものだった。

「今日は、紙に“離れたあとに残るもの”を書け」

 少年は紙にゆっくりと書いた。

 ——胸の奥の温かい跡

 少女は自分の紙を見せた。

——押された方向の光 

その短い言葉は、少年の胸の奥の空洞にやわらかく灯をつけた。

 影が離れるのは、

 兄が光の方向へ歩けるようになったという証なのだ。

  • ■放課後、影の道の“先”が見えた

 校庭に戻ると、影の道は昨日よりさらに“幅”を持っていた。

 ただし、その先がくっきりと“ひとつ”になっていた。

 二つに分かれていた道が、

 一つの細い道に収束している。

「節子……選んだのか?」

「違うよ」

 少女は首をゆっくり振った。

「石が“離れられた”から、道が決まったんだよ」

 影が道を決めたのではない。

 兄が離れ、影も離れ、

 その“距離”が道を決めたのだ。

「影はね、自分が押しても動かない人のために道を細くするの。

 でも、押して離れて、石が動く準備が整うと——

 道は勝手にひとつにまとまるの」

 影の道は、不思議なものだ。

 押す力でも、影の意志でもなく、

 兄の足が向く方向で自然に形を変える。

 少年はその道に指を触れた。

 土は硬く、しっかりしていた。

 影が押し固めた道だ。

 

  • ■釜戸の前で、胸の奥の“灯”がともった

 夕暮れが近づくと、

 釜戸の灰が昨日より冷たくなっているのに気づいた。

 火は完全に死んでおり、影の気配だけが淡く残っている。

 少女が少年の横に座り、

 火のない釜戸を眺めながら言った。

「石。節子、離れたわけじゃないよ」

「……でも、胸の奥が空洞なんだ」

「それは“座る部屋”を大きくしたってことだよ」

「座る部屋?」

「うん。影はね、押すのをやめたとき、座る場所を広げるの。

 それは、もう痛みじゃないってこと」

 胸の奥の空洞は、“痛みの部屋”ではなかった。

 “座るための部屋”だったのだ。

 節子は兄の胸の奥で静かに座り、

 押すのをやめ、ただ寄り添っている。

 その瞬間、少年の胸の奥に小さな灯が生まれた。

 火ではなく、影の声でもなく、

 “灯”としか呼べないもの。

 その灯りは温かく、

 兄を進ませようとしている。

 

  • ■影が離れ、そして“見守る”段階へ入る

 夜になり、少女が小さな声で言った。

「石。

 節子、今日から“見守る影”になるよ」

「見守る……?」

「うん。“押す影”の次が、“見守る影”なの」

 押す影は、背中を温かさで押した。

 歩かせる影だった。

 だが見守る影は、押さない。

 ただそこにいて、兄が間違いそうになったときだけ、

 ほんの少し、胸の奥で震える。

 干渉はしない。

 泣きもしない。

 ただ座り、ただ見ている。

「節子はね、これから石が自分で歩けるかどうか、

 静かに見てるんだよ」

 胸の奥の灯が、ほんの少しだけ揺れた。

 節子が、“大丈夫?”と問いかけているようだった。

 少年はまっすぐ立ち上がった。

 影がいなくなったわけではない。

 影は押さなくなった。

 その代わり、兄が押されなくても歩けるように準備してくれた。

 影が遠くから胸の奥を見守っている——

 その確信があった。

 そして、影の道の一本だけ残った先に、

小さな光がほんのりと滲んでいた。

 

——影は離れても、

 兄の胸の奥の灯となり、

 一歩を照らし続けている。

第51章 影の灯りが示す“最初の岐れ”

 翌朝、少年は胸の奥で微かに光る灯に気づいた。

 昨日よりもはっきりと、しかし揺れは小さかった。

 節子の影が“座る部屋”は、自分の呼吸に合わせて淡く明滅しているように見えた。

 押す影ではない。

 泣く影でもない。

 ただ、見守る影だ。

 影が“押す”のをやめると、胸の中の重心が変わる。

 昨日まで前傾していた身体が、自然に真っ直ぐになった。

 肩に残っていた湿った重さがなくなり、歩くと足が軽い。

 生き残った者にとって、生きるとは歩くことであり、

 歩くとは“押されないで進むこと”だ。

 少年はその当たり前を、戦争が終わった今になってようやく理解し始めていた。

 外に出ると、空は珍しく薄青だった。

 焼け跡の町では、青空はまるで“忘れられた記憶”のようにまれだったから、

 子どもたちの間では「青は戦前の色」などと言われていた。

 だが少年の胸の灯は、その青にほんの少し応えた。

 光と光が共鳴するように、胸が温かく広がっていく。

 

  • ■影の道に現れた“黙った岐れ”

 校庭に向かうと、影の道が変わっているのに気づいた。

 昨日一本に収束したはずの道が、今朝はさらに先へと伸びている。

 そしてその先に“黙った岐れ”ができていた。

 二本の枝分かれではなく、

 曲がり角のようにゆるやかに分岐している。

 どちらも細く、どちらも影が歩いた跡だった。

「節子、また道をつくっているのか……?」

 少年は思わずつぶやいた。

 胸の奥の灯がわずかに揺れた。

 返事に近いが、影は喋らない。

 いまは見守る影だからだ。

 少女が後ろから歩いてきて、道の先を覗き込んだ。

「これはね、“最初の岐れ”だよ」

「最初?」

「そう。影が見守る影になってから、兄の歩き方に合わせてつくる岐れ。

 押してつくった道じゃなくて、石が歩こうとする方向で変わる道」

 その言葉に少年は息をのんだ。

 押されてできた道ではなく、自分が歩こうとした方向に影が“ついていった”道。

 それこそが、影が離れたあとの最初の岐れだ。

「節子、石がどっちに行ってもいいように、

 静かに両方を歩いたんだね」

 少女は土を軽く撫でながら言った。

 影は押さない。

 道も押して作らない。

 ただ、兄の足が向く方向を少し先回りして歩く。

 その歩いた跡が道になる。

 それが“最初の岐れ”だった。

 

  • ■黒板の字が、選択の“後戻り”を示していた

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■戻

 教室がざわついた。

 昨日が“離”で、今日は“戻”。

 子どもたちには、意味のつながりが分からなかった。

 教員は黒板を叩き、ゆっくり言った。

「今日は、“戻る”について考える」

 少年の胸の灯が弱く揺れた。

 影が押し、離れ、見守る段階に入った今、

 戻るという言葉は特別な意味を持つ。

「影は、人が間違えたときに“戻す”ために存在する」

 教員の声は淡々としていた。

「影は、人を未来へ押すためにあるのではない。

 人が未来を誤ったとき、静かに“戻す”ためにある」

 その言葉に、少年の胸の奥で灯が微かに波打った。

 節子が昨日から押さなかった理由が分かった気がした。

「戻る場所を持つ者は、未来へ歩ける」

「戻る場所のない者は、前へ進むこともできない」

 教員は黒板に一行書いた。

 ——戻りたい場所を、選べる者だけが歩ける——

 少年の胸は静かに詰まった。

 戻りたい場所とはどこか。

 家でもない。

 焼け跡でもない。

 影の寝床でもない。

 ただ——

 節子の影が胸に座る、あの“灯の部屋”が戻る場所なのだ。

 

  • ■放課後、二つの道の“手触り”を確かめる

 放課後、少年は影の岐れ道の前に立った。

 どちらの道も細く、

 しかし片方は“少しだけ硬い”。

 もう片側は“ふかふかしている”。

 少女が隣に立ち、言った。

「硬い道は、節子が昨日まで押していた方向だよ」

「……押していた方向?」

「うん。押す影のときにつくった道は、硬い土になるの」

 それは兄が“押されて”歩かされていた方向だ。

 昔の方向。

 痛みの方向。

「ふかふかの道は、石の“歩こうとする方向”」

 少年は驚いた。

 自分が歩こうとした方向が、影の足跡で柔らかくなっている。

 節子は兄の意志を尊重し、

 その先をそっと照らしたのだ。

「節子、いっしょに歩くつもりなんだろうか……」

「違うよ」

 少女は静かに言った。

「影はね、いっしょに歩けない。

 でも、歩こうとしたときだけ、先で灯りを置くの」

 胸の灯がわずかに明るくなった。

 それは節子の影が、戻る場所でもあり、

 前へ進むための“目印”でもあるからだ。

 

  • ■釜戸の前で“影の灯り”がふくらんだ

 夕方、釜戸の前に座ると、

 中の灰が昨日よりほんのり温かいのに気づいた。

「火、ついてないのに……」

 少年は灰に触れた。

 影の気配だった。

 節子が胸の奥で灯りを強めると、

 その温度がなぜか釜戸にも伝わる。

「影って、不思議だな……」

「うん。でもね、火みたいだけど火じゃないよ。

 影は“灯り”なんだよ」

 少女は言った。

 灯り——

 火と違い、燃えず、

 影と違い、消えない。

胸の奥の灯こそ、少年がこれから生きるための“最初の光”だった。

 そのとき、胸の奥がふわりと膨らんだ。

 影が少しだけ笑ったような“息の震え”だった。

 節子が、兄に“行っていいよ”と言っているのが分かった。

 

  • ■影が示した、歩き出しの合図

 夜になると、影の道の岐れが薄闇の中に浮かび上がった。

 昼間は見えなかったわずかな光が、

 細い道の奥でゆらりと揺れている。

 少女が少年の肩に触れ、小さく言った。

「石、節子、灯りを置いたよ」

「……あれが灯り?」

「うん。“歩き出しなさい”っていう合図」

 胸の奥が応えた。

 灯の部屋の節子が、

 少しだけ息を吸い、兄を支えるように座り直したのだ。

 影は押さない。

 影は引かない。

 ただ灯りを置き、兄の足がその方向へ向くのを待つ。

 少年はゆっくりと一歩、道に足をかけた。

 土が柔らかく沈んだ。

 それは節子の影が歩いたときの沈み方と同じだった。

 そして少年は悟った。

——これは、俺が歩く道だ。

——節子が押した道じゃない。

——節子が守る道でもない。

——俺が選んで、俺が歩く道だ。

 胸の灯が静かに輝いた。

 節子がうなずいたように震えた。

 そして少年は、影の灯りが示す方向へ、

 初めて自分の足で一歩を踏み出した。

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