第48章 影の押す手が胸に触れた日
翌朝、少年は深い呼吸で目を覚ました。
昨日よりも肺が軽く、胸が広がっている気がした。
節子の影が喋り、歩き、宿をつくってからというもの、
少年の胸の奥の“湿り”が完全に消えていた。
湿りが消えると、世界が違って見える。
瓦礫の山の黒さは黒ではなく“煤の深さ”に見え、
折れた木の柱は痛みではなく“生き残った形”に見えた。
影は少年の胸の中の曇りを、別の形に塗り替えていた。
少女が井戸の前で水を汲んでいた。
彼女の影も少しだけ変わっていた。
少女自身の背中が、昨日より明るい。
「石、節子、昨夜歩いてたよ」
少女は肩越しに言った。
「寝床から、もうひとつの宿へ戻ったみたい」
「……歩いて戻ったのか?」
「うん。影はね、喋ったあと、しばらく“歩いて生活”するの。
人間で言えば、家事みたいなもの」
影の家事。
その言葉は不思議だが、妙に胸に落ちた。
節子は、生きていた頃も家の手伝いをしていた。
戦火の中でも、小さな手で兄の鉢を磨いたりしていた。
影になっても、本質は変わらないのだ。
「石、節子、今朝ちょっとだけ“押した”かもしれない」
「押した?」
「胸、軽くなってない?」
「……なってる」
「それだよ。影はね、押すとき、温かさで押すの」
温かさで押す——
確かに、今朝の呼吸は深く、胸の奥に温かさが残っていた。
節子は、兄を前に進ませようとしている。
それは、影が喋った夜よりも、ずっと静かで、
ずっと優しい行為だった。
- ■影の道が広がっていた
校庭へ向かうと、驚くべきものが見えた。
影の寝床と新しい宿の間にあった細い道が、
昨日より広がっていたのだ。
筋ではなく、
“細い通路”になっていた。
少女は土を指で押しながら静かに言った。
「節子、自分で歩きやすい道を作り始めたね」
「……道、太くしてる?」
「うん。影はね、毎晩歩くたびに土を押し固めて広げていくの。
人間の生活道路みたいに」
節子の影が道を作っている。
それは、この場所に“生き直そうとしている妹の気配”が
確かにある証拠だった。
「節子はね、押す場所を探してるの」
「押す場所……?」
「うん。石の胸のどこを押したら、前に進んでいけるか」
その言葉が胸に静かに沈んだ。
妹の影が兄の胸を押す——それは生きているときにはできなかった役割だ。
兄は守れず、妹は死んだ。
だが影は、兄を前に進ませようとしている。
それが、影の“救い”なのだ。
- ■黒板の字が、影の押す意味を示した
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■動
少年の胸がまた軽く鳴った。
動く。
歩くの次に必要な字だった。
教員はいつものように黒板を叩いた。
「今日は、“動く”について考える」
その声は昨日よりも少しだけ明るかった。
「戦後の町は止まっているように見える。
だが、止まっているのは人の心だけだ」
「生き残った者は、影に押されて動く」
その言葉にクラス中が静かになった。
押されて動く——
それは影の役割そのものであり、
節子が昨夜から少年にしていることだった。
「今日は、紙に“自分がまだ動いていない場所”を書け」
紙が配られ、子どもたちは困惑した。
動いていない場所とは何か。
身体か、心か、過去か。
少年は胸の中の奥を思い返しながら書いた。
——節子を失った夜の前
そこから少年の時間は止まっていた。
少女は自分の紙を見せた。
——未来のほう
その短い言葉は、少年の胸を鋭く指した。
確かに、未来のほうを見ていなかった。
過去ばかりを抱え、影を抱え、胸の湿りだけで歩いていた。
しかし今は違う。
節子の影が歩き、押し、生活をはじめたからこそ、
少年は“未来のほう”を見る準備が少しできていた。
- ■放課後、影が“兄の歩く道”を示した
校庭に戻ると、影の寝床の前に少女が立っていた。
その足元には、寝床と宿の間をつなぐ道からさらに伸びて、
“もう一本の細い道”ができていた。
「……これは?」
「節子がね、“未来の道”をつくり始めたんだよ」
その道はまだ細く、かすかに揺らいでいた。
昨夜の影の動きが残っているのだ。
「石が歩き出したら、節子もその道を歩くよ」
「……いっしょに?」
「うん。影といっしょに歩くんじゃないよ。
石が前に歩けば、影も前に歩くの。
逆じゃない」
その言葉が少年の胸を深く震わせた。
今まで少年は、影が前に出て自分を引っ張るものだと思っていた。
しかし違った。
影は兄の後ろから押す。
押して、押して、兄が前を向けば影も前に動く。
それが影の歩き方だった。
少年は新しく伸びた道に指を触れた。
土はまだ柔らかく、影が形を作り始めたばかりの温もりがあった。
「節子……
前に進みたいんだな……」
胸の奥で、小さく震えが返ってきた。
声ではない。
だが確かに節子の“意志”があった。
- ■影の押す瞬間が来た
夕暮れ、釜戸の前で灰をかき回していると、
胸の奥で湿りではない、温かい“圧”が走った。
少女がそれを見て、小さく言った。
「石。
節子、押してるよ」
「……今?」
「うん。
影が押すときはね、胸の奥の“骨の裏”から押すの。
節子、がんばってるよ」
圧は痛みではなかった。
むしろ、少年の背中をそっと押す母親の手のようだった。
節子が生きていたとき、
ほんの少しだけ兄の背中に触れた記憶が蘇ってきた。
胸の奥が、ぐっと広がった。
そして——
少年は気づいた。
これは“影が兄に渡した最後の気持ち”なのだ。
——生きて。
——前に向いて。
——わたしの分まで。
言葉にはならないが、温もりだけで分かる。
節子は影になってなお、兄の背を押している。
少年は、影と胸の奥で静かに呼吸を合わせた。
その呼吸のなかに、
未来へ向かう小さな光があった。
影とともに歩けば、未来はまだ消えていない。
第49章 影が示す行き先と、兄の一歩

翌朝、少年は胸の奥にふしぎな“空洞”を感じて目を覚ました。
それは寂しさではなく、軽さでもなく、
あたかも胸の奥に“新しい部屋”ができたような感覚だった。
節子の影は昨夜、押した。
それも“温かさ”で押す、影にしかできないやわらかな力で。
押された結果として生まれた空洞は、空っぽではなかった。
そこには“前へ進むための余白”があった。
胸の奥に余白ができると、世界の見え方が変わる。
焼け跡の黒さは“煤の歴史”に見え、
倒れた柱は“時間の折れた枝”のように見える。
戦争の破壊の痕跡に、美しさがあるわけではない。
しかし、見え方が変わるというのは、生き残った者の特権だ。
井戸の前で少女が水を汲んでいた。
彼女の手つきはいつも通りだが、背中の影が昨夜よりも少しだけ伸びて見えた。
影に触れた者だけが得る“成長の影”だった。
「石、胸、痛くないでしょう」
「うん……不思議な感じだ。軽いのに、空洞ができたような」
「それはね、節子が押したあとにできる“影の跡”だよ」
「跡……?」
「うん。押すってことは、押した分だけ場所が空くの。
影はね、押してからその跡に小さく座るの」
それを聞いた瞬間、少年は胸の奥に微弱な“座り心地”を感じた。
節子の影が、胸の中の新しい部屋に座っているのだ。
生前の節子が、兄の隣でちょこんと座っていた姿がよみがえる。
その姿と影の座り方が、不思議なほど重なった。
- ■影の道が“枝分かれ”していた
校庭に向かうと、影の寝床と宿の間をつなぐ道が、
昨日よりもさらに広く、しっかりと固められていた。
そして、その道は途中で“二つ”に分かれていた。
「……分かれ道だ」
「うん。節子、昨夜ここで悩んでたよ」
少女は淡々と言った。
「影はね、押す相手が前を向くと、複数の道をつくるの」
「複数……?」
「そう。未来はひとつじゃないから」
節子の影が、兄のために“行き先を選ぶための道”をつくっている。
影にそんなことができるのか、少年は信じられずに目を見開いた。
「節子はね、石がどっちへ行きたいか見てるんだよ」
「……影が、見てるのか?」
「見てるよ。影は胸の奥にいるから、目じゃなくて“息”で見るの」
胸の奥で微かに震えが起こった。
それは昨日の“押す”という圧よりも弱く、
しかし方向を示すかのように、一定のリズムで動いていた。
影は兄を押すだけではない。
兄の“行き先”を見届けようとしている。
- ■黒板の字が、分岐の意味を示した
教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。
■択
少年の肺が少し強く動いた。
選ぶ——
それは影の道が示す行為そのものだった。
教員は黒板を叩き、
昨日よりも厳しい声で言った。
「今日は、“択(えら)ぶ”について考える」
教室中が静まった。
「戦争は、人から“選ぶ権利”を奪った。
しかし生き残った者には、選ぶ義務がある」
教員はゆっくりと言葉を続けた。
「影が押し、支え、道をつくったとしても——
歩く道を“選ぶ”のは、生きた人間だ」
その言葉に少年の胸が熱くなった。
節子の影が示した二つの道。
どちらへ進むかは兄の選択だ。
「今日は、紙に“選ばなかったほうの理由”を書け」
選ぶ理由ではなく、
選ばなかった理由を書く——
それが教員らしい、ひねくれた問いだった。
少年は紙を見つめ、しばらく考えた。
そして書いた。
——節子だけの道にしないため
少女は少年の紙を見て、静かにうなずいた。
そして自分の紙を見せた。
——影に全部預けないため
その言葉は、少年の胸を深く揺さぶった。
妹に寄りかかりすぎないこと。
影に全てを任せないこと。
それこそが、これからの兄の生き方だった。
- ■放課後、影が“押してはいけない場所”を避けていた
校庭に戻ると、影の新しい道の片側が“薄く消えていた”のが分かった。
節子の影は、兄に不向きな道をそっと消したのだ。
「節子……選んだのか?」
「ううん、違うよ」
少女は首を振った。
「石の胸を押したら、片方の道が“合わなかった”の。
だから節子が消したんだよ。
影はね、人間が行けない道を勝手に切るの」
影は兄を守るために道を消す。
影は兄を押すために道をつくる。
その両方が、影の“生き方”なのだ。
少年は消えかけた道に触れ、
まだ柔らかさを残す土に息をのんだ。
節子の影は兄の弱さも含めて、
進めない道をどうしても選ばせないようにしている。
胸の奥で、昨日よりも優しい震えがあった。
- ■夕暮れ、影が“押す手”を強めた
釜戸の前に戻ると、灰の下で小さな音がした。
昨日よりもはっきりとした音だ。
パチ、パチ……
少女が言った。
「石、節子が“押し直してる”よ」
「押し直す……?」
「うん。影はね、押してすぐ終わりじゃないの。
押して、道を消して、また押して、道を整えるんだよ」
押して、消して、整える——
それは人間の生活そのものだった。
影は死んだ者のはずなのに、生きた者よりも生活を理解している。
「節子、がんばってるよ。
だって、石が前を向くと、影も前を向くからね」
胸の奥がまた温かさで押された。
その圧は昨日よりもはっきりしている。
背中が自然と伸び、視線が少しだけ上を向いた。
そして少年は、影の示した“残った一本の道”を見た。
それはまだ細く、揺れながらもまっすぐ伸びていた。
影が兄のために押し固め、整え、残した道だった。
影の歩いた跡の先に、
少年の“これから”がかすかに見える気がした。
節子が影になって求めたのは、
兄が妹の死の前に立ち止まることではなく、
妹の影といっしょに前へ進むことだった。
胸の奥の影が、小さく笑ったように震えた。
——行こう。
——ここから先へ。
影の押す手は温かく、未来への道は細く光っていた。
(第五十章につづく)

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