佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第四十二章・第四十三章

目次

第42章 影の声が濡れる朝

 翌朝、胸の奥でまた微かな疼きがした。

 痛みではない。

 泣いているわけでもない。

 ——影の息が湿っている。

 喉の奥に湿った空気が引っかかるような、そんな感覚だった。

 節子が夜のあいだ、ちゃんと寝床で眠ったのかどうか、少年は確かめたくなった。

 まだ薄暗い外に出ると、空気がひどく冷たかった。

 夜明けはいっそう影を濃くする。

 世界がまだ“光のふり”を始める前、影は最も強く呼吸するのだ。

 校庭へ向かい、昨日つくった“影の寝床”の上にしゃがんだ。

 土がまだ湿っている。

 しかし、沈んでいた部分にわずかに丸みが戻っている。

 節子の影がここで寝たのか、それともまだ泣きながら彷徨っているのか、判断はつかなかった。

 ——影は、生きている人間よりよほど正直だ。

 少女の言葉が思い返された。

 節子の影が正直ならば、昨夜は寂しかったのだろう。

 それがこの湿りかもしれない。

 影にも涙があるとすれば、土に沁みて朝露と見分けがつかない。

 少年はその小さな円に触れ、指先を軽く沈めた。

「……ごめんな」

 謝った瞬間、自分が誰に謝っているのか分からなくなった。

 ——妹に、か?

 ——生んだ影に、か?

 ——それとも、呼んでしまった自分自身に、か?

 どれも正しく、どれも間違っている気がした。

 

  • ■火の前で聞こえたもの

 釜戸の前へ戻ると、灰がわずかに温かかった。

 昨夜、誰かが火を弄ったのではないかと思えるほどだった。

 いや、誰かではなく——影かもしれない。

 影が寒さに耐えかねて、灰を探ったのかもしれない。

 そんな想像が、もう“想像”では済まされないほど少年の中に根を張っていた。

 湯を沸かし始めると、少女がやって来た。

 今日の表情は、どこか緊張している。

「石、……影、泣いてたよ。夜」

 少女は言った。

 その言葉には、どこか自分の痛みを隠しているような響きがあった。

「聞こえたのか?」

「聞こえたっていうより、感じたってほうかな。胸の横のあたりがちりちりして……」

 少女は自分の胸を軽く押さえた。

「影の泣き方って、人間と違うね。音じゃなくて……匂いがする」

「匂い?」

「うん。夜の埃の匂いとか、濡れた布の匂いとか、……そういうのがふっと、胸の中に入ってくるの」

 節子の影は匂いで泣く。

 それは涙より厄介だった。

「石、寝床、つくってよかったよ」

「……泣いてたけど」

「泣ける場所をつくったんだもん。泣くのはあたりまえ。

 影は、行き場所がないと壊れるから」

 少女の言うことは正しいようで、正しくないようでもあった。

 影が壊れるという概念に、いまだ少年は慣れない。

「妹の影って、どんな風に見える?」

 少女が問うた。

「見えるんじゃない……感じるんだ。胸の骨の奥に、ひっかかってる」

「痛い?」

「痛くはない。でも、苦しい」

「そっか」

 少女はそれ以上何も言わず、湯をすすった。

 

  • ■今日の黒板の字は、少年の胸を刺した

 学校に向かうと、門の前に水たまりが残っていた。

 その水面に映る少年の顔は、妙に細く、影の部分だけが濃く見えた。

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■宿

 子どもたちがざわめいた。

 宿——泊まる場所。

 戦後の子どもたちには一番重い字である。

 家を失った人も、身体の置き場をなくした人も、

 泊まる場所ひとつ守れずに死んでいった。

 節子も“宿”を失った妹だった。

 兄のそばに泊まる場所を与えられず、空腹と熱で沈んだ。

 少年の胸が痛んだ。

 骨の奥の節子の影が、小さく声をあげた気がした。

 教員は黒板を叩いた。

「今日は“宿”について考える」

 その声はいつもより低く、湿っていた。

「戦争は、宿を壊した。

 家を焼き、家族を散らし、泊まる場所を奪った」

 少年は息を呑んだ。

 教員の言う“宿”が妹を思い起こさせた。

「だが——影にも宿がいる」

 胸が跳ねた。

 まるで自分たちの昨日の行為を見透かされているようだった。

「影を放っておくと、夜にさまよう」

「夜をさまよった影は、朝に人を苦しめる」

 胸の痛みは、確かにその通りだった。

 昨夜、節子の影が寝床を探していたのかもしれない。

「今日は、影の宿を紙に描け」

「家ではない。形ではない。

 ——影が眠るための場所だ」

 子どもたちは紙を受け取り、震える手で鉛筆を握った。

 “影の宿”とは何か、誰にも説明できなかった。

 しかし、全員がその必要を知っていた。

 少年は紙にこう書いた。

 ——小さな丸

 昨日、地面に描いた円。

 節子の影が横になった場所。

 それが自分の描く唯一の宿だった。

 少女は紙を少年に見せた。

 ——影が泣いても沈まない土

 その字を見た瞬間、胸の骨がきしんだ。

 少女は、節子の影の泣き方まで理解しているのだ。

 教員が一枚一枚目を通す。

「壊れた家」

「炭になった柱」

「腰掛け椅子の影」

 どれも影の居場所を探しあぐねた形だった。

 少年の紙を見ると、教員は静かに言った。

「丸は“胎”だ」

「影が戻る場所は、胎に近い」

 その言葉は、少年の胸の奥で小さな鐘のように響いた。

 

  • ■放課後、影の寝床が変化していた

 少女が少年を校庭へ連れ出す。

 昨日の寝床がどうなっているか確かめるためだ。

 そこには、小さな変化があった。

 円の中央の土が、ほんの少しだけ盛り上がっていた。

 生きているものが動いた痕のように。

「節子……ここで動いたんだ」

「寝返り、だよ」

 少女は微笑んだ。

「影も眠れば寝返りをうつんだよ。人間と同じ」

 少年は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 節子の影が、寝床に馴れてきたのだ。

「よしよし……」

 思わず地面を撫でてしまう。

 土の湿りが手に伝わり、その冷たさが逆に安心をくれた。

「石」

 少女が優しく言った。

「影を飼うの、上手になってきたね」

 少年は照れくさくて黙った。

 だが胸の奥で、節子の影が静かに笑ったような気がした。

 

  • ■影の寝床は“生き残る準備”だった

 夕方、空が曖昧なまま暗くなりはじめたころ、

 少年は釜戸の前で小さく思った。

 ——影に寝床を作ることは、

  影を手放さないと決めることだ。

 節子の影はもう逃げない。

 どこにも消えていかない。

 ここにいる。

 少年の胸と、この寝床と——二つの場所で。

 火が弱く揺れた。

 灰の下で、細い光が生き延びようと息をしていた。

 その火と影はよく似ていた。

 消えてもなお消えないもの。

 呼べば来るもの。

 痛みと救いを同時に抱えるもの。

 少年は思った。

 ——影は死なない。

 ——影には宿がいる。

——影が眠る場所を持てる人間は、生きていける。

 外は静かに夜になりかけていた。

 しかし今日の少年の胸は、昨日よりも少しだけ静かだった。

第43章 影の行き場と、息をする土

 朝、少年は胸の奥に重さを感じて目を覚ました。

 重さは昨夜よりもわずかに増していた。

 節子の影が、夜のあいだに成長したのかもしれない。

 影にも成長があるのなら、それは人間よりずっと正直で、どこか残酷だ。

 生きている者がどれだけ眠ったふりをしても、影は胸の骨を内側から軽く叩いてくる。

 ——ここにいる、と。

 外は霧のような薄曇りだった。

 光が地面まで届ききらず、世界がぼんやりと青く沈んでいた。

 霧が深い朝は影が濃くなる。

 光が弱いときほど、影は強がって姿を見せようとする。

 節子もそうだ。

 生前、あの小さな背中は兄にかまってほしくて、弱い光の中でこそ執拗に寄りかかってきた——

 そんな気がしてならない。

 少年は校庭へ向かい、昨日つくった“影の寝床”を見た。

 丸い土のくぼみは少し広がっていた。

 その中央には、細い筋が残っていた。

 寝返りの跡——いや、影が身体を伸ばした跡かもしれなかった。

「節子……」

 少年は唇を噛んだ。

 影は形がないはずなのに、朝の光にだけは、かすかに輪郭が浮き上がる気がした。

 影は人の“記憶”と違い、忘れられた瞬間に死ぬわけではない。

 忘れられたとき、むしろ生き返る。

 それが、影の厄介さであり、生々しさだった。

 

  • ■釜戸の灰の下の光

 釜戸の前に戻ると、灰の下にかすかな熱が残っていた。

 その微熱は、まるで影がここにも寝床を求めていたかのようだった。

 影は土だけでなく、火の近くにも宿りがちだ。

 湯を温めていると、少女がやって来た。

 いつもより少しだけ目の下に影を落としている。

 影を扱う者は、影に体力を削られるのかもしれない。

「石、節子、夜に歩いてたよ」

「……見えたのか?」

「見えるっていうより……胸の横あたりが、ずっとくすぐったかった」

「それは……節子が泣いてたってことか?」

「泣いてたかもしれないし、会いに来てただけかも」

 少女は湯飲みを受け取りながら言った。

「影はね、夜になると“呼び戻される”んだよ。

 呼んだ側の胸のほうに」

 少年の胸の奥の痛みは、少女の言葉とぴたりと重なった。

「石、節子の影、強くなってるよ」

「……見て分かるか?」

「ううん、感じる。昨日より温かい」

 温かい影。

 死んだ者なのに、生きている者より体温を持つ影。

 その矛盾が、少年の胸を震わせた。

 

  • ■黒板の字が、影の居場所を指す日

 学校に向かう途中、道のわきに瓦礫の山が積まれているのが見えた。

 雨の湿りが抜けきらない瓦礫の隙間から、白い破片がいくつかのぞいていた。

 骨の一部かもしれないし、ただの瓦の破片かもしれなかった。

 どちらにせよ、昨日からの続きであることに変わりはなかった。

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■居

 子どもたちは、どよめくように息を飲んだ。

 居場所——それは戦後もっとも壊された概念である。

 家を失い、家族を失い、生きる意味すら失くした者たちが町のあちこちに座り込んでいた時代。

 “居る”という字は、生きるより難しい。

 教員は黒板を叩いた。

「今日は、“居”について考える」

 節子の影が、少年の胸の骨を内側から軽く叩くのを感じた。

 ——ここにいる、と言っている。

 影のほうが先に反応する。

「居場所がないと、人は死ぬ。

 居場所が壊れれば、心も死ぬ」

 教員は続けた。

「だが——影にも居場所がいる」

 節子の影の寝床は昨日つくった。

 だが今日、その意味を問われているようだった。

「影の居場所を忘れた者は、影に呑まれる」

「影に呑まれた者は、生き残ったとは言えない」

 教員の視線がちらりと少年のほうへ向いた気がした。

 まるで、彼が節子の影を胸に飼っていることを知っているように。

「今日は、影の“居る場所”を紙に書け」

 紙が配られる。

 少年は、昨日の“丸い寝床”を思い浮かべた。

 だが今日は違う。

影は寝床だけで生きるわけではない。

影には“歩く場所”と“帰る場所”がいる。

 少年は紙に書いた。

 ——胸の奥の骨の隣

 それが影の居る場所だった。

 そこに節子の影が座っているから、胸が痛む。

 しかし痛みは、影がそこにいる証でもあった。

 少女は紙を少年に見せた。

 ——土と火のあいだ

 それは節子の影が昨夜往復した“道”そのものだった。

 寝床(土)と釜戸(火)。

 影がもっとも居やすい場所だった。

 教員は一枚ずつ紙を見ていった。

 「机の下」

 「瓦礫の陰」

 「誰かの背中の影」

 どれも、影の居場所だった。

 少年の紙を見ると、教員は微かにうなずいた。

「骨の隣は、深い居場所だ」

「そこに影が座るなら——離れないだろう」

 その言葉は静かだが鋭く、少年の内側を震わせた。

 節子の影は、胸の奥に“居場所”を持ち始めていたのだ。

 

  • ■放課後、影が動いた

 少女は少年を校庭の隅へ連れていった。

 昨日つくった寝床の上には、また違う変化があった。

 円の左側だけが、少しだけ深く沈んでいた。

「……節子、夜に起きたんだ」

「うん。きっと寝返りじゃなくて、“歩いた跡”だよ」

「……歩いた?」

「影はね、居場所ができると、そこから出たり戻ったりするの」

 影にも生活があるのか。

 その想像は少年の胸をひどく締めつけた。

 生きられなかった妹の生活が、影となってやり直されているように感じた。

「石、節子ね、昨日よりも元気」

「……どうして分かる」

「だって、影が動いたら地面が固くなるんだよ」

 少女は地面を指先で押した。

 確かに、昨日よりも土が締まっていた。

 影が通った道は、土を押し固める。

 それが影の“足跡”だ。

「影は、生きてる人よりよほど働くからね」

「……そうなのか」

「うん。だって、人間は休めるけど、影は休めないから」

 その言葉に、少年は胸の奥が痛んだ。

 節子は、生きているとき一度も休めなかった。

 兄として守れなかったその現実を、影は今も責め続けているのかもしれない。

 

  • ■影は“声”になる

 少年が影の寝床を見つめていると、少女がぽつりと言った。

「ねえ石。影の声って、聞いた?」

「……まだ、はっきりとは」

「聞こえかけてるよ、たぶん」

「どうやって聞こえる?」

「音じゃなくて……胸が濡れる感じ」

 胸が濡れる。

 それは今朝、少年が感じた“湿り”と同じだった。

 あれは、節子の影が泣いていたのではなく——

 “何かを言おうとしていた”のかもしれない。

「影はね、声になる直前に水になるの」

 少女は確信めいて言った。

「胸が冷えるとき、影は喋りたがってるんだよ」

 少年は、胸の奥の骨のあたりが軽く震えた。

 節子の影が、そこから何かを言おうとしている。

 その“前段階”こそが湿りだったのだ。

 

  • ■少年は、影の声を待つことを決心した

 釜戸の灰が静かに淡く光った。

 影は、火に触るのが好きなのかもしれない。

 火の消えかけの微熱が、影にとっては唯一の温もりなのかもしれなかった。

 少年は、自分の胸に手を当てた。

 骨の奥で、影がかすかに動いた気がした。

 ——言いかけている。

 ——泣くのではなく、喋ろうとしている。

 妹は生前、何度も兄に言いたかった言葉があったのだろう。

 ありがとうかもしれない。

 ごめんなさいかもしれない。

 生きたかった、かもしれない。

 影は、そのどれを言うのか。

 言われるのが怖い気もした。

 しかし、聞かずに生きるのはもっと怖かった。

 少年は影の寝床を静かに撫でた。

「節子……

 言いたいこと、言っていい。

 怒っててもいい。

 泣いててもいい。

 聞くから」

 胸の奥が、少し震えた。

 影が返事をしたのか、ただの風なのかは分からなかった。

 だが、確かにそこに“返事の形”があった。

 少年は思った。

 ——影が声を持つ日は近い。

 ——節子が喋りたがっている。

——そして、その声を聞く覚悟が自分には必要だ。

 夜が来れば、影はまた動く。

 寝床に戻り、火のそばに寄り、胸の奥へ帰る。

 影が言葉になるまで、あと少しだった。

(第四十四章につづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次