第十六章 静かなる異端
「……講和を、探るべきだと思うのだ」
ラバウルの夕暮れ。
五十六は、古参の参謀・宇垣纒中将に、ぽつりと呟いた。
それは、明確な命令でもなければ、公式な戦略でもない。
ただの「私語」だった。
「戦争というものは、始めるより、終わらせる方が難しい。
特に、“勝てぬ”戦争ではな」
宇垣はしばし黙し、応えなかった。
だが、その言葉は、風に乗って広がっていった。
“山本長官、講和を望むらしい”――
噂は、意図せずして、司令部内の空気を変えていった。
数日後。
参謀本部より届いた文電には、いつになく強い調子があった。
《本戦遂行に疑義を呈するがごとき発言、士気に影響を及ぼす恐れあり》
《統帥上、慎言を要す》
言外に、“口を慎め”という命令だった。
五十六は、それを読みながら苦く笑った。
「……言葉も、また弾薬か」
隣にいた補佐官が、恐る恐る尋ねた。
「閣下……講和とは、本気で……?」
五十六は、すぐに答えなかった。
ただ、遠くを見つめながら言った。
「……俺たちは、戦っている。だが、国民は何も知らず、何も学ばぬまま、血を流させている」
「このままでは、滅びる」
「全てを失ってから“講和”を口にしても、国は何も得られぬだろう」
補佐官は黙り込んだ。
それは“正論”であり、“異端”だった。
この国においては、“終戦”を語る者が最も早く死ぬ。
――そして、陸軍が動いた。
南方軍司令部より届いた連絡は、あからさまだった。
《山本長官の意志に、一部疑義あり。現地状況と乖離の恐れあり》
それはすなわち、“現場を知らぬ空論”との非難である。
五十六は、地図を睨みながら苦笑した。
「……机上の者に、現場を乖離と呼ばれるとはな」
ラバウル基地では、士官の間に沈黙が漂った。
講和を語る者は、いつしか「敗北主義者」と呼ばれる。
だが、その沈黙の中にも、僅かな共感はあった。
若い飛行隊長が、密かに語った。
「閣下。俺たちは、勝ちたくて飛んでるんじゃありません。
ただ、無駄に死なせたくないだけです」
「自分の部下たちを、犬死にさせたくない。ただ、それだけです」
その言葉に、五十六は目を細めた。
「……それが、“勝つ”ということなのかもしれんな」
そして、ある夜。
彼は独り、手帳にこう記した。
《この戦、勝ち難し。いかに終わらせるか、いかに兵を残すか。
この道に、忠誠を尽くす》
そこには、「勝利」という語はなかった。
ただ、「責任」という言葉だけが、強く滲んでいた。
戦局はなおも、徐々に傾いていた。
南太平洋での“勝利”は、数値としては華やかでも、実態は「前線の疲弊の一時的隠蔽」にすぎなかった。
補給は断たれ、燃料は尽き、兵器も人も磨耗しきっていた。
それでも、作戦は止まらない。
それでも、命令は続く。
――そして、その命令を下す者は、今や孤立していた。
だが、五十六はなおも動き続けた。
孤独の中で。
そして、誤解の中で。
――それでも、「兵を守るため」に。
第十六章ー完ー
第十七章 征くべきか、逝くべきか
昭和十八年四月。
ブーゲンビル島は、南洋の熱気と静寂に包まれていた。
だがその深奥には、もう一つの気配――死の気配が忍び寄っていた。
「閣下、これは……あまりにも危険すぎます」
参謀の一人が、苦言を呈した。
「この時局、敵の暗号解読も進んでいると聞いております。
長官が前線に赴くなど、あまりに不用意にすぎます」
だが五十六は、その言葉に首を横に振った。
「現場を知らずして、命令は下せん。
指揮官は、兵より前に立つものだ」
それは、古い軍人としての信念だった。
そして同時に、それは“別の意味”でもあった。
――もし、ここで死ねば。
無益な戦の終息を、誰かが考え始めるかもしれない。
講和の声が、口にされるかもしれない。
それが自惚れであっても、五十六は、そう信じたかった。
夜、彼は書斎に一人残り、机に向かった。
筆は迷いなく進む。
《諸君。戦は、なお続く。しかし、いずれ終わる》
《その日を、生きて迎えてほしい》
《若き者よ。銃を持ったまま朽ちるな。ペンを持ち、道を描け》
その手紙は、机の引き出しにそっと収められた。
誰にも読まれぬかもしれぬ。
だが、それでよかった。
翌朝、搭乗機「一二一号」がラバウル飛行場の滑走路に姿を現した。
機体は老朽化し、操縦士たちも長距離飛行に不安を抱えていた。
「閣下、ご武運を――」
見送る参謀たちに向けて、五十六は微かに笑った。
「……武運が尽きるなら、それもまた運命ということだろう」
昇る太陽の中を、機体はゆっくりと滑走し、やがて空へと舞い上がった。
その姿は、まるで何かに引かれるように、南東へと向かっていった。
午前六時過ぎ、敵の戦闘機隊が発進した。
米海軍暗号解読班“マジック”が掴んだ情報は正確だった。
「連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島視察の途上」
その一文が、五十六の死を決定づけた。
午前九時すぎ。
ブイン近郊の上空。
哨戒機の報告も間に合わぬまま、P-38戦闘機群が襲来。
あまりにも急な、あまりにも正確な襲撃だった。
随伴の戦闘機が一矢を報いる間もなく、
「一二一号機」は銃撃を受け、炎を噴きながら、
静かにジャングルの樹海へと墜ちていった。
「……閣下!」
無線は混線し、応答はなかった。
木々の奥に、黒煙が昇る。
誰かが、呟いた。
「……撃たれた、のか」

その報は、すぐには伝えられなかった。
戦意を失わせぬよう、真相は数日間伏せられた。
だが、現地の兵士たちは知っていた。
――あの空へ、あの炎の中へ、
一人の指揮官が、歩み入ったのだと。
数日後、五十六の遺体は、ようやく収容された。
焼け爛れた機体の中に、燃え残った手帳が一冊。
表紙には、墨でこう書かれていた。
《我、志半ばにして死すとも、兵を生かすべし》
それは、彼の遺言であった。
そして、遺骨が本土へ戻ったとき、
帝国はすでに、静かな傾きを始めていた。
第十七章ー完ー
コメント