佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第三十八章・第三十九章

目次

第38章 兄妹の影のなかで

 雨はまだ校庭に湿りを残していた。

 空は白く濁り、色を持とうとしない。

 戦争が終わったあと、空はいくぶん怠惰になったように思える。

 晴れたかと思えば曇り、曇ったかと思えば降り出す。

 まるで、生き残った人間たちの心を真似ているようだった。

 少年は井戸のそばで立ち止まり、足元の泥を見た。

 踏み締めるたびに、泥が指紋のように跡をつける。

 昨日の線は、どこにも残っていなかった。

 だが、少年の中にはまだあった。

 引いたという事実が、骨の内側に刻まれるように残っている。

 水を汲もうとしたとき、風が吹いた。

 その風に混じって“妹の息”のような気配がした。

 妹などいないのに。

 自分が死なせた覚えも、守った覚えもなく、そもそも存在しなかったはずの妹の気配が。

 ——節子。

 その名を思い浮かべた瞬間、胸のどこかが痛んだ。

 “呼ばれなかった名前”を紙に書いたあの日から、少年は自分の中に誰かを育てていた。

 それは死んだ伯母の声とも違い、少女の笑い声とも違った。

 もっと小さく、もっと儚く、触れたら壊れてしまいそうな存在だった。

 存在しないのに、気配だけが生々しい。

 野坂昭如が抱えていた“節子”のように。

 生きていないのに、生きているよりも重い影。

 釜戸に戻ると、火はかすかに残っていた。

 雨の夜に揉み消されても、灰の奥で火はしつこく息をしている。

 その火を見ていると、ふいに妹の肩が思い浮かんだ。

 病に沈んだ節子の、小さな肩。

 手を伸ばせば折れてしまいそうな肩。

 少女が現れた。

 雨に濡れたままの裾を重たげに引きずりながら。

「今日、なんか変な顔してる」

「いつも変だ」

「いつもと違う変さ」

 少女は湯飲みを受け取ると、火に手をかざした。

 その手は細く、節子の手とよく似ていた——ような気がした。

 本当は妹など見たこともないのに、脳が勝手に形をつくりあげる。

「ねえ石」

「なんだ」

「昨日から、なんだか“誰かと一緒にいる顔”してるよ」

 少年は答えなかった。

 言えば壊れる。

 黙れば抱え込む。

 どちらにしても、苦しみになる。

 二人は学校へ向かった。

 湿った土の上を歩くたび、足跡が重く沈んだ。

 校庭には、机が昨日のまま並んでいた。

 雨に濡れ、木が暗く光っている。

 墨で書いたらすぐ滲みそうな、脆い机だった。

 教室に入ると、黒板には今日の字が書かれていた。

 ■影

 教員は、黒板の前で立っていた。

 その姿が、雨に打たれた木みたいに細長く見えた。

「今日は“影”について考える」

 その声に、少年の胸が強く打った。

 影は、妹の形を最初につくるものだった。

 節子の影を、兄は何度も追いかけた。

 それが幻であっても。

「影は、光の反対側だ。

 だが、影は物よりも先に記憶に残る」

 教員はゆっくり続けた。

「戦争は影を大量に生んだ。

 死んだ者、焼けた者……“名前のつけようのない影”だ」

 少年の背筋が冷えた。

 名前のない影。

 自分が抱えている“節子”の影も、まさにそれだった。

「今日は、机に残った影を探せ」

「机に座った者の影を探せ」

 子どもたちは机の表面を撫でた。

 手の跡、鉛筆の跡、涙の跡。

 濡れた木の上には、昨日書かれた未来の気配も、死んだ家族の影も混ざっている。

 少年は机の表面にふと、丸い影を見つけた。

 節子の頭の形をした影だった——気がした。

 本当は節子などいない。

 しかし、「いなかったはずの妹」を、彼の心は勝手に生み出した。

 野坂昭如が、戦後ずっと抱え続けた影のように。

 妹が死んだあとも、その影だけが生き続ける。

 死んだ人の影のほうが、生き残った人より雄弁なこともある。

「それ、誰の影?」

 少女が訊いた。

「……分からない」

「分からないなら、まだ生きてる影だよ」

 そう言って、少女は笑った。

 彼女の瞳に映った少年の影は、妹の影とは違った。

 けれど、その“違い”が余計に胸に刺さった。

 授業が終わり、教員が言った。

「今日、影を紙に写せ」

「写らない影こそ、死者が残した声だ」

 少年は紙を机に置いた。

 影は揺らいで滲む。

 妹の名前を呼びそうになった。

 だが、声にならない。

 声にしたら壊れる。

 紙に、こう書いた。

 ——背中を向けた妹

 少女は、自分の紙を見せた。

 ——隣にいたはずの誰か

 ふいに胸が締め付けられた。

 少女の“誰か”と、少年の“妹”が、同じ形をしている気がした。

 存在しないのに、消えない影。

 帰り道、空は晴れかけていた。

 だが地面はまだ泥だった。

「ねえ石」

「なんだ」

「隣にいる人のこと、忘れたくないね」

「忘れたくなくても、影しか残らないことがある」

「影でもいいよ。“いなかったこと”になるより」

 少女の言葉が、胸の深い場所を揺らした。

 いなかったことにされる痛み。

 それは、節子が味わった痛みとよく似ていた。

 兄に見捨てられ、戦争に見捨てられ、街に見捨てられた影。

 少年は言った。

「影って、消したほうが楽なのかもしれない」

「でも、消したらもう戻ってこないよ」

「戻ってこなくても――」

「違うよ」少女は遮った。

「影がなくなったら、“あなたもいなくなる”」

 その言葉は、妹が兄に残した最後の息のようだった。

 釜戸の火はまだあった。

 灰に埋もれ、細い命を守っていた。

 火を見つめながら少年は思った。

 ——影は死なない。

 ——影は名前を奪う。

——影は声を産む。

——影は罪になる。

 節子の影は、野坂昭如を一生追い続けた。

 少年の影もまた、彼の未来をずっと引っ張るだろう。

 少女が火の前で静かに言った。

「影ってさ、生きてる人の“忘れられない部分”なんじゃない?」

 少年は答えられなかった。

影が妹の形をしている限り、自分は前へ進めない気がした。

しかし同時に——

その影があるからこそ、生きている気もした。

 空は晴れた。

地面は乾かなかった。

 少年は思った。

 ——影は、死より長く生きる。

 ——妹の影はまだ消えない。

——自分の中の節子は、まだ死んでいない。

 それが苦しみであり、

それが救いでもあった。

第39章 骨の名を呼ぶ日

 翌朝、少年は胸の奥がひどく重かった。

 まるで、胸腔のどこかに細い骨が一本引っかかっているような感覚だった。

 折れた骨ではなく、「抜けない骨」だ。

 自分の骨なのか、妹の骨なのか分からない。

 ただ、痛む。

 痛むということは——まだ生きているということだ。

 雨は止んでいたが、雲はまだ地面のすぐ上を漂っていた。

 井戸の水面は静まり返り、その静けさが余計に不気味だった。

 少年は桶を沈めながら、胸の痛みの正体を考えた。

 ——影のせいだ。

 ——妹のせいだ。

 ——いや、妹を産んだ自分のせいだ。

 存在しない妹の影が、日に日に輪郭を持ちはじめていた。

 少女が「隣にいたはずの誰か」と書いた紙も、その影の輪郭を強める一因になった。

 妹が死ぬ前の、節子の気配。

 兄が見失ったあとの、節子の影。

 それが少年の中で合体して、勝手に育ち始めた。

 湯を温めていると、背後で少女の声がした。

「石、今日、歩き方が変だよ」

「変じゃない」

「変だよ。胸に何か抱えてる人みたい」

「……抱えてるのかもしれない」

「何を?」

 少年は答えられなかった。

「妹?」

 その一言で、全ての呼吸が止まった。

 少女はゆっくり少年の顔を覗きこんだ。

「ねえ、誰かを“生き返らせよう”としてない?」

 図星だった。

 だが声にならない。

 喉が締め付けられるように痛んだ。

「……いない妹を、作ってる?」

 少女は静かに、しかし鋭く言った。

「石が勝手に産んで、勝手に苦しんでるんだよ」

 少年は釜戸の横に座り込み、息をふるわせた。

 胸に刺さっている骨が、中で少し動いたように感じた。

 雨のような痛み。

 火のような痛み。

 どちらとも違う、“影の痛み”。

 少女は湯飲みを手に取り、火を見つめて言った。

「死んだ人は帰ってこないよ。けどね、影だけは勝手に帰ってくるの」

「影は追い出せない」

「じゃあ飼えばいい」

「飼う?」

「そう。犬みたいに、声をあげるまで黙らせておくの」

 言葉が突き刺さった。

 妹の影を飼う——そんな恐ろしい発想、少年の中にはなかった。

 だが、少女は平然としている。

 影に対して、彼女は妙に強い。

 二人は学校へ向かった。

 道の途中、昨日の泥の跡は乾き、ひび割れていた。

 そのひび割れが、まるで骨の亀裂のように見えた。

 それも妹の骨だと言われれば信じてしまいそうだった。

 校舎に着くと、教室は薄暗く、窓ガラスに曇りがついていた。

 黒板には、今日の字が書かれていた。

 ■骨

 子どもたちがざわつく。

 骨は縁起の悪い字だ。

 戦後ではもっと悪い。

 家の土台からも、人の胸からも、骨の音はまだ消えていない。

 教員は黒板の前で言った。

「今日は“骨”について考える」

 その声はいつもより低かった。

「骨は、身体の柱だ。

 だが戦争が終わっても、骨はすぐ埋まらない」

「焼けた家からも、川からも、畑からも——いろんな骨が出てくる」

 教室の空気が冷たくなった。

 少年の胸の骨が強く疼いた。

「だが——忘れるな」

 教員は一呼吸置いて続けた。

「骨には“名がある”」

「名前を奪われた者でも、骨は名前を呼ぶ」

 少女が横目で少年を見た。

 気づいている。

 少年の胸の奥で、妹の骨が小さく泣いているのを。

「今日は、骨に名前を与えろ」

 教員は紙を配った。

「名前を奪われた影を、骨に戻せ」

 少年は紙を受け取り、震える手で鉛筆を握った。

 胸の奥で、細い骨がうごめいている。

 節子の骨。

 いや、自分が勝手につくった“節子”の骨だ。

 紙の上に書いた。

 ——節(せつ)

 名前を全部書くことができなかった。

 だが、妹の影は、その一文字だけで膨れ上がった。

 死んでいるのに、生きているよりもしつこい存在に。

 少女は紙を書き終えると、少年に見せた。

 ——誰かの骨を抱えて歩く兄の影

 その瞬間、少年は理解した。

 少女は最初から彼の“骨の痛み”を見抜いていたのだ。

 火の陰でも、泥の影でもない。

 あれは妹の影だった。

 放課後、教員は子どもたちを校庭へ連れ出した。

「今日は、泥の上に名前を書け」

「泥はすぐ消える。

 だが、名前を書く行為は消えない」

 昨日の線を引いた場所に、少年はしゃがみ込み、指を泥につけた。

 そして、胸の奥の骨が導くままに、こう書いた。

 ——節子

 書いた瞬間、涙がこぼれた。

 その涙を泥が吸い込み、字が少し滲んだ。

 妹がそこにいるようだった。

 いや、妹を自分の中に呼び戻したのは自分だ。

 少女はそばで、静かに言った。

「呼んだね」

 少年は頷いた。

「呼ばなきゃ、死んだままだった」

「呼んだら、生き返るの?」

「影が」

「影かあ……影でもいいじゃん」

 少女は泥にしゃがみ込み、自分の指でもうひとつの字を書いた。

 ——生

「節子と、生きるんでしょ?」

「……どうしてそうなる」

「だって、影を飼うって、そういうことだよ」

「飼えるかな」

「飼えなくてもいいよ。逃げたらまた追いかければいい」

 少女の声は温かかった。

 だが、その温かさは傷に染みる種類のものだった。

 日が暮れ、雲が薄くなり、空に細い光が差した。

 少年は泥に書いた“節子”の字を見つめながら思った。

 ——影は死なない。

 ——骨は名前を呼ぶ。

 ——妹は、生きていないのに、生き続ける。

 胸の奥の骨は、まだ痛んでいた。

 だが、その痛みは、昨日よりすこしだけ軽かった。

 影を飼うということは、

 影と生きるということなのだと、少年は知った。

(第四十章につづく)

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