佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第三十六章・第三十七章

目次

第36章 雨の骨と、土に戻らない影

 雨はとうとう降り始めた。

 最初の一滴が校庭の端の石に落ち、次の一滴が焼けた瓦の破片に落ちた。

 その音は、誰かが深く息を吐いたような、疲れた静けさだった。

 雨が土を打つ匂いは、戦争の匂いと混ざって、町の全部を湿らせた。

 少年は釜戸の火を護るため、布をかぶせて灰をかき寄せた。

 火は雨に弱い。

 雨は火を殺す。

 でも、灰の下に潜った火は、雨ごときでは死なない。

 人も同じだ、と少年は思った。

 生き残った人は、灰の下で火を抱えている。

 少女がやってくると、髪が雨に濡れていた。

「降ってきたね」

「うん」

「火、消えない?」

「まだ大丈夫」

「まだ、って好きだね」

「便利なんだよ」

 少女は、濡れた手を火の前にかざした。

 湯気のようなものが立った。

 町のあらゆるものが、火と雨のちょうどあいだにあった。

「学校、行く?」

「行く。雨でも授業は止まらない」

「止まってほしい?」

「止まったら、どうしていいか分からなくなると思う」

 二人は、雨の中を歩いた。

 道には、水たまりと灰が混ざり、泥より軽く、石より深い色をしていた。

 雨が、過去と現在を一緒に溶かしているようだった。

 校庭に着くと、子どもたちが集まっていた。

 雨の中で、みんなが何かを見ている。

 そこには、昨日までなかったものがあった。

 ——土の上に、小さな白いものが散っていた。

「骨だ」

 少女が言った。

 少年は黙ってうなずいた。

 雨に濡れた骨は、光を吸わず、影だけを落としていた。

 教室に入ると、黒板には一字があった。

 ■骨

 教員は、濡れた肩のままそこに立っていた。

 雨の跡が服に広がっている。

 彼は、黒板を軽く叩いた。

「今日は“骨”について考える」

 誰も息を飲むことすら忘れて黙った。

 骨は、誰にも触れやすい。

 骨は、誰にも触れられやすい。

 そして、骨は誰よりも正直だ。

「骨は、死んだ者の“最後の形”だ」

「火で焼かれても残り、土に埋めても残る」

「だが——雨は骨を沈める」

 教員は窓の外を見た。

 校庭の骨が、雨粒に濡れている。

「骨は“残るもの”と思われているが、それは違う」

 彼は続けた。

「骨は、残らないように作られている」

 子どもたちはざわめきを飲み込んだ。

 残らないように作られている——そんなこと、誰も考えたことがなかった。

「今日は、骨を“読め”」

 教員は言った。

「書くのではない。読め」

 読め、と言われても、骨に文字はない。

 骨の表面に言葉はない。

 だが、教員は続けた。

「骨には“影”がある」

「影を読め」

「影の形が、死者の最後の言葉だ」

 少年は息を飲んだ。

 影は、雨でも消えない瞬間がある。

 影は、火より脆く、灰より固く、声より深かった。

 校庭に出るよう言われ、傘もなく子どもたちは雨に打たれながら並んだ。

 骨のそばに立ち、教員は言った。

「この骨の影を見ろ」

「影は、雨で薄れ、光で伸び、土に沈む」

「影は、死んだ者が“まだ残っている”部分だ」

 少年は、濡れた骨の影を見た。

 影は歪んでいた。

 雨が揺らし、風が引っ張り、地面が吸い込んでいた。

 だが、どんなに歪んでも、影は骨から離れなかった。

「影が骨の最後の声だ」

 教員の声は、雨の音に負けない強さがあった。

「最後の声は、聞こえない。

 聞こえないから、おまえたちが読め」

 影を読む。

 影とは、輪郭の奥にあるもの。

 影とは、形ではなく“痕跡”だ。

 少年は、骨の影を見ながら、心に浮かんだ言葉を書いた。

 ——消えなかった形

 少女は、自分の紙にこう書いた。

 ——名前のない影

 どちらも、人の最後に残るものだった。

 名前でも、声でも、火でも灰でもない。

 影だけが、最後に世界に触れている。

 教員は言った。

「影は、土に戻らない」

「だからこそ——読む価値がある」

 授業が終わるころ、雨は強くなっていた。

 雨粒が骨を濡らし、影を溶かし、形を変えていく。

 少年は、紙を服の中に入れて持ち帰った。

 濡らさないように。

「ねえ、影って死ぬの?」

 帰り道、少女が聞いた。

「分からない」

「じゃあ、生きてるの?」

「影は……多分、どちらでもない」

「どちらでもないのに、読める?」

「どちらでもないから、読めるんじゃないか?」

 少女は雨粒を指先で受けながら笑った。

「影って、石みたいだね」

「どうして」

「名前がなくても、そこにいるから」

 少年は立ち止まった。

 影は土にも空にも戻らない。

 自分も、名前のないまま、どこにも戻らずに生きている。

 影と自分は似ているのかもしれない。

「じゃあ、影が読めたら、自分のことも読めるかな」

「読めるよ。いつか」

「いつ?」

「まだ分からない」

 “まだ”という言葉は、雨の中でも濡れなかった。

 釜戸に戻ると、火は弱く揺れていた。

 雨が屋根を叩く音が、火の生きようとする音と重なった。

 少年は思った。

——火は消える

——骨は沈む

——声は風に乗る

——言葉は土へ戻る

——影だけは戻らない

 戻らないものを読むことが、生きるということなのかもしれなかった。

 雨は、止まなかった。

 だが、火も影もまだ死ななかった。

第37章 晴れ間と、泥に書かれた線

 翌朝、雨は嘘のようにやんでいた。

 空はきっぱりと晴れているのに、地面だけがまだ昨日を引きずっていた。校庭の土はじっとりと湿り、歩けば靴が吸われる。瓦礫と灰は泥に混ざって、戦争の名残をどろどろに溶かしている。空だけが図々しく“戦後”を装っていた。

 少年はいつものように井戸へ向かった。

 雨上がりの井戸の縁は滑りやすく、手をつくと冷たかった。水面には、灰色の雲の切れ端と、ぼんやりした自分の顔が映っている。雨水が混ざったせいで、水はいつもより澄んでいるようにも見えたし、余計に底が見えないようにも見えた。

 桶を沈めると、雨粒の残りがぱらりと縁から落ちた。

 ——骨の音に似ていた。

 昨日、校庭で見た骨は、朝の光の中にはもうなかった。雨と一緒に土に沈んだのか、誰かがどこかへ運んだのか。どちらにせよ、目には見えなくなった。見えなくなったものは、たいてい「なかったこと」にされる。だが、少年の胸の内では、まだ白い形のまま残っていた。

 釜戸の灰をかき寄せると、火種はかろうじて残っていた。

 雨の夜も、完全には消えきれなかったらしい。

 火は頑固だ。消しても消しても、どこかで赤い芯が踏ん張る。人間のほうがよほど諦めが早い。

 湯がぬるく温まりはじめたころ、少女がやって来た。

 髪は濡れていないが、裾の泥がまだ乾いていない。夜中、どこかを歩き回っていたのかもしれないし、単に家の床下の水が引いていないだけかもしれない。訊ねても、たぶんどちらも答えは返ってこない。

「晴れたね」

「地面は晴れてない」

「空だけ、勝手に先へ行くんだよ」

 少女は釜戸のそばにしゃがみ込み、火を覗き込んだ。

「雨、すごかったね」

「骨、見えなくなった」

「うん。……あれ、どこ行ったんだろうね」

「土の中か、誰かの中か」

「誰かの中?」

「踏んだり、蹴ったりすれば、粉になって身体に入るかもしれない」

 少女は、妙に真面目な顔で足元の泥を見た。

「じゃあ今、わたしたち、誰かの骨を踏んでるかも」

「踏まれてるかもな、反対側では」

 そう言って少年はかすかに笑った。

 反対側というのがどこなのか、考える余裕はなかったが、言葉にしてみると少しだけ楽になった。

 二人は湯を少しずつ分け合い、学校へ向かった。

 道のあちこちに、水たまりが残っている。

 その表面には空が映り、雲が逆さまになっている。

 足を入れれば簡単に壊れる空だ。

 校庭では、子どもたちが水たまりを避けたり、わざと踏んだりしていた。

 昨日の骨のあった場所は、丸く泥が盛り上がっているだけだった。

 そこに影はなかった。影になるほどの陽の光が、まだ地面に届いていない。

 教室に入ると、黒板には二つの字が並んでいた。

 ■線

 ■道

 教員が背を向けたまま言った。

「今日は“線”と“道”について考える」

 子どもたちは、まだ濡れた服のまま席についた。

 線と道。

 似ているようで、違う言葉だった。

「線は“引かれるもの”だ」

「道は“歩かれるもの”だ」

 教員は、黒板に一本の線を引いた。

 まっすぐでもなく、特別に曲がっているわけでもない、ただの線だった。

「戦争中、お前たちの人生には、勝手に線が引かれた」

「ここから先へ行くな。ここから向こうは敵だ。ここからは危ない。ここからは出るな」

 線は命令の形をしていた。

「今、この町には“道”が必要だ」

 教員は続けた。

「泥の上でもいい。瓦礫の上でもいい。とりあえず歩いた跡が道になる」

 少年は、自分の足の裏を意識した。

 昨日まで、それはただの足だったが、今は「どこかへ線を引くもの」に見えた。

「今日は、お前たちに“自分で線を引かせる”」

 教員は紙束を手に取った。

 雨で少し波打った紙だった。

「紙の上に、道を描け」

「上から命じられた線ではなく、自分の足で歩く道だ」

 少年は紙を受け取った。

 鉛筆を握り、何も考えずに線を引く。

 最初の一本は、まっすぐだった。

 二本目は、途中で曲がった。

 三本目は、丸くなって戻ってきた。

 紙の上の線は、どれも道には見えなかった。

 ただの傷跡のようだった。

「どう?」

 少女が覗き込む。

「道というより、……逃げた跡みたいだ」

「逃げたって、立派な道だよ」

 少女の紙には、細い線が一本だけ引かれていた。

 途中で何度か蛇行しながら、端から端まで伸びている。

「どこからどこへ?」

「ここから——まあ、どこでもいいところへ」

「どこでもいいところ?」

「うん。“ここじゃない場所”なら、どこでもいい」

 その言い方は、希望というより疲労に近かったが、少年には眩しく聞こえた。

 教員は、子どもたちの紙を見て回った。

 ぐちゃぐちゃの線。

 止まった線。

 消した跡だけが残る紙。

 少年の紙の前に来ると、教員はしばらく黙っていた。

「ずいぶん、迷った線だな」

「……道には見えません」

「迷った線は、たいてい“生き残った道”だ」

 そう言って、教員は紙を返した。

 次に少女の紙を手に取る。

「これは、長い道だ」

「どこへ行く道か、まだ決めてません」

「決めなくていい。道は“歩きながら決めるもの”だ」

 授業が終わる前に、教員は言った。

「放課後、校庭に出ろ」

「紙の上だけでなく、地面にも線を引く」

 放課後、雨上がりの校庭に子どもたちが集められた。

 教員は棒切れと石ころを配った。

「好きなところに線を引け」

「誰かの線と交わってもいい。消えてもいい。泥に沈んでもいい」

 少年は、棒切れを握りしめた。

 校庭の隅、昨日骨があった辺りの泥に、そっと線を引いた。

 すぐに水がにじみ出て、線はぼやける。

 それでも、泥は確かに動いた。

 少女は、校庭の真ん中から端まで、なるべく長く線を引いた。

 長い蛇のようにくねりながら、線は続いた。

 踏まれれば消える。

 それでも、一度そこを通った足跡だけは、地面のどこかに残る。

「これ、明日には消えてるね」

 少女が言う。

「消えてても、歩いたことは残る」

「どこに?」

「腹とか、胸とか……足の痛さとか」

 いつからか、少年は“見えない場所”のことばかり考えるようになっていた。

 骨の影も、声の跡も、未来も、道も——

 どれも、外からは見えないところで生きている。

 線を引き終えると、教員が言った。

「今日引いた線を、誰も覚えていないかもしれない」

「だが、自分だけは覚えていろ」

「おまえたちは、“ここから歩き始めた”ということを忘れるな」

 帰り道、雨上がりの空に薄い虹のようなものがかかっていた。

 本物の虹か、単に目の錯覚かは分からない。

 少年はそれを見上げて言った。

「空にも線があるんだな」

「届かない線だね」

「届かないから、安心して見ていられる」

 少女は笑った。

「地面の線は、すぐ踏まれるのにね」

「だから、踏まれる前に覚えるんだ」

 釜戸に戻ると、灰の中の火は、細くなりながらもまだ動いていた。

 少年はポケットから紙を取り出した。

 “濡れる前の火”“生きてる”“ここで笑う”——

 くしゃくしゃになった紙の上で、文字が泥と汗でにじんでいる。

「それ、どうするの?」

「どうしようか」

「道が決まるまで、持ってなよ」

「いつ決まる」

「歩き終わるときじゃない?」

 歩き終わるとき——それは死ぬときなのか、どこかへ辿り着いたときなのか、まだ分からない。

 少年はふと、少女の足跡を見た。

 泥だらけの足跡が、釜戸から外へ続いていた。

 さっき引いた校庭の線と、どこかでつながっているような気がした。

「なあ」

「なに」

「いつかさ、どこにも線が引けなくなったらどうする?」

「どういう意味」

「歩けなくなったら、とか」

「そのときは、誰かに引いてもらうよ」

 少女はあっけらかんと言った。

「石だって、誰かに転がされるでしょ」

「……そうだな」

 自分で道を選ぶことと、誰かに動かされること。

 その境目は、きっとそんなにくっきりしていない。

 戦争も、終戦も、敗戦も、誰かが勝手に線を引いた結果だった。

 それでも今、少年は自分の足で泥に線を引いていた。

 夜、雨はまた少し降った。

 だが、昼間ほど激しくはなかった。

 少年は釜戸の前に座り、耳を澄ませた。

 屋根を叩く雨音と、火の奥で小さく鳴る音と、遠くで聞こえる誰かの笑い声。

 それらが、とぎれとぎれの線となって、胸の中でつながる。

 ——火から灰へ

 ——骨から影へ

——声から風へ

 ——線から道へ

 引かれた線の上を歩きながら、

 それでもなお、自分なりの一歩を探そうとする足があった。

 晴れ間はもう閉じかけていたが、

 泥の中の線は、簡単には消えなかった。

 少年は思った。

 ——たとえ明日、校庭の線がすべて消えても、

  今日ここに引いた一本だけは、自分の中からは消えない。

 それが「生きる」ということなら、

 まだ、歩いてみてもいいかもしれない——と。

(第三十八章につづく)

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