第32章 骨の音と、誰も知らない未来のかたち
風が変わった。
冷たさを含んで、しかし刺すような冬の風ではない。
空気の底に、かすかな湿りと泥の匂いがある。
季節が動いているのだ、と少年は思った。
戦争が終わっても、季節だけはやめずに巡るらしい。
敗戦も、空腹も、焼け跡も、季節には関係がない。
少年は釜戸の前にしゃがみ込み、昨日の灰を少しかき寄せた。
火打ち石はまだ温もりを残していた。
“灰”というものは、すぐ冷たくなるものだと思っていたが、そうでもない。
どこかに、まだ赤い芯があるのだろう。
「……生きてる火みたいだな」
少年は、自分の言葉に微かに笑った。
火は人間より丈夫だ。
壊れても、燃えるものがあればまた息を吹き返す。
人間はそうはいかない。燃える前に、腹が空いて倒れてしまう。
少女が現れたのは、湯がようやく湯気を立て始めた頃だった。
「おはよう」
「おはよう」
「昨日、眠れた?」
「半分だけ」
「半分?」
「半分眠って、半分起きてた」
「……それ、生きてるってことだよ」
少女は、座り込んで釜戸の火を見つめた。
炎は細かったが、消えそうには見えなかった。
火が弱いとき、人はなぜか安心する。
炎が強く燃え上がると、逆に不安になる。
“もうすぐ燃え尽きるのでは”と考えてしまうからだ。
「今日は学校、行く?」
「行く」
「先生、変なこと言うだろうね」
「いつもだ」
「変なこと言う人は、死なない気がする」
「なんで」
「話すことで、自分の中の何かを、ずっと燃やしてるんだよ」
湯を飲みながら、二人は立ち上がった。
腹の中が少し温まり、足が軽くなる。
湯だけで人は死なない——いや、死ぬが、すぐではない。
今日一日ぶんの命が、今、身体に入った。
学校へ向かう途中、少年は足元に白いものを見つけた。
骨だった。
小さな動物の骨か、誰かの家庭の跡か、判別はつかない。
骨は乾いて、音を立てた。
カラ……コロ……
風に転がされて鳴る音——それは、どこかで聞いたことのある音だった。
魚の骨が皿を転がる音。
伯母の骨が焼けるときの音。
そして、焼け跡で壊れた建物が風に鳴る音。
骨の音は、いつだって「終わりの残響」だった。
「……拾う?」
少女が問う。
「拾わない」
「なんで」
「骨は、土に戻してやるほうがいい」
「そうかもしれない」
少女はしゃがみ込み、骨をそっと横にずらした。
風の道から避けるように。
音が、止んだ。
骨は静かになった。
それだけで世界が少し、落ち着いた気がした。
教室に着くと、今日は黒板の文字がいつもより多かった。
■火
■灰
■白
■墓
■順番
■名前
■骨
教員が、背を向けたまま言った。
「これが“おまえたちの戦後”だ」
誰も声を出さなかった。
ただ、子どもたちは息を呑んでその黒板を見つめた。
そこにある言葉は、どれも“今の自分たち”のかけらだった。
「では、今日はこれを書く」
教員は黒板の端に、新しい字を書いた。
——未来
教室がざわめいた。
未来。
初めて黒板に現れた言葉だった。
「未来など、ないと思っていた」
教員は言った。
「戦争中は、明日がないと思い、戦後は今日しかないと思った」
「だが、未来とは“今の続き”だ。勝手にやって来る」
少年は、信じられない気持ちで紙を見た。
未来を書く紙。
何を書けというのか。
「火を見た者は、未来を書け」
「灰を触った者は、未来を書け」
「墓を作った者は、未来を書け」
「骨の音を聞いた者は、未来を書け」
教員は chalk を置いた。
「未来を書くことだけが、生きることの“準備”だ」
紙が配られる。
少年は、鉛筆を握ったまま固まった。
未来とは、どんな形をしているのか。
生き残ることしか考えてこなかった身には、「その先」が見えない。
湯を沸かし、灰を崩し、火を起こし、芋を煮る。
それで一日が終わる。
未来というのは、「その次」を考えることらしい。
少年は、ゆっくりと紙に書いた。
——火のあるところに座る
——湯を飲む
——誰かと分ける
それは、未来というより「続き」だった。
でも、続きは未来だ。
「できた?」
少女がのぞき込む。
「……これしか書けない」
「いいじゃない。ちゃんと続いてる」
「そっちは?」
「私はね——」
彼女は、紙を見せた。
——ここで笑う
たった一行だった。
だが、そこには「未来」が入っていた。
笑うという行為には、必ず“時間”がある。
過去では笑えず、今は笑いきれず、それでも未来で笑おうとする。
「笑えると思う?」
「思わないよ」
「じゃあ、書いても無駄じゃない?」
「無駄じゃないよ。“笑いたい”と思ったところから始まるんだよ」
少年は、少しだけ目を伏せた。
“笑いたい”——そんな気持ち、どこに残っていたのか。
授業が終わったあと、教員はこう言った。
「その紙を、火に当ててもいい。土に埋めてもいい。持ち歩いてもいい」
「未来をどう扱うかだけは、おまえたちに任せる」
少年は、釜戸に戻ると、紙を火の端にかざした。
炎はすぐには燃え移らなかった。
未来は、そんなに簡単には燃えないらしい。
「燃やす?」
少女が聞く。
「分からない」
「燃やしても、書き直せばいいよ」
「じゃあ……まだいい」
「またそれ」
「だって、本当にまだいいんだ」
火を前に、二人は黙って紙を持っていた。
灰が舞い、風が吹き、骨の音が遠くで鳴った。
その音は、やがて止んだ。
止んだあとに、静けさだけが残った。
「ねえ」
少女が急に言った。
「未来ってさ……“生き延びた先”じゃなくてもいいんじゃない?」
「どういう意味」
「ただ、生きてるだけで“未来”って呼んでいい」
少年は考えた。
生き延びるという言葉には、いつも“過酷さ”が貼りついていた。
ただ生きている——それだけで未来だと言われると、負けたような気がした。
だが、同時に楽にもなった。
「じゃあ、おれも書き直す」
「何て書くの?」
「——生きてる」
少女は少し笑った。
「それ、未来じゃなくて“今”じゃん」
「今と未来の区別なんて、まだ分からない」
「それならきっと、合ってるよ」
夕暮れが焼け跡に落ちる。
紙に書いた言葉が、火に照らされて浮かぶ。
——生きてる
——ここで笑う
未来は、思ったより小さかった。
けれど、確かにそこにあり、
指先で触れることができた。
火は今日も消えなかった。
少年は思った。
——未来は「火」と「笑い」と「生きてる」のあいだにある。
誰も知らない未来のかたちを、
ようやく言葉が少しずつ囲み始めていた。
第33章 風の道と、声の行き先

朝、風が吹いていた。
昨日までとは違う風だった。
乾いてはいるが、冷たすぎず、どこか柔らかい。
戦中から戦後にかけて、風はずっと「何かを奪っていくもの」だったが、
今朝の風は、ほんの少しだけ「何かを運んでくるもの」に変わっていた。
少年は井戸に向かいながら、その風のことを考えた。
井戸の縄は少しほころび、桶の縁には泥がついている。
だが、水を汲み上げると、泥の味より先に風の匂いが混ざった。
風が味の中に入ってくるなど、今まで考えもしなかった。
釜戸に火を起こすと、湯気が風にさらわれていく。
それを眺めていると、ふいに「声」に見えた。
湯気が言葉の形になり、空へ流れて消えていくようだった。
少女が現れたとき、少年は湯飲みを二つ並べていた。
「今日は早いね」
「風が起きる前に起きた」
「風より早く起きるなんて、生きてるね」
少女は湯を抱え、ふっと笑った。
湯の匂いと灰の匂いと風の匂い。
それらは一緒になって、ほんの少しだけ生き物の匂いに変わる。
「昨日、書いた未来……どうした?」
少女が聞く。
「持ってる」
「燃やさなかったんだ」
「まだ、燃やせない」
まだ、という言葉が、もはや少年の呼吸の一部になっていた。
死なない、忘れない、終わらせない——
それら全部を「まだ」でつないでいる。
二人は学校へ向かった。
途中、前日見た骨のあった場所を通ったが、もうなかった。
誰かが埋めたのか、風で転がされたのか——
どちらでもいい。
骨が消えるのは、死に方が終わるということだ。
校庭に入ると、子どもたちが集まっていた。
ざわめきの気配がある。
黒板の前には、いつも通り教員がいる。
だが、その横に見慣れない木箱が置かれていた。
教員が口を開いた。
「今日は“声”について考える」
少年は瞬間、胸がざわついた。
声というものは、戦時中ずっと「奪われたもの」だった。
叫び声も泣き声も笑い声も、戦争は簡単に消してしまう。
声は最初に失われ、最後に戻ってくるものだ。
教員は黒板に書いた。
■言葉は紙に残る
■火は灰に残る
■声は——?
「声は、どこに残ると思うか」
教室は静かになった。
書くものではなく、耳で聞いて通り抜けるもの。
紙とも灰とも違う。
だから、戦争中、声は真っ先に消えた。
「声は風に残る」
教員は言った。
「聞こえなかった声は、風の中に漂っている」
そう言って、木箱のふたを開いた。
中には、古いラジオのような機械があった。
外側は焦げ、つまみは錆び、けれど形は残っている。
「戦争の終わりを告げた声だ」
教員は言う。
「この機械が、たしかに“音を残していた”。しかし——」
彼はスイッチを回した。
しかし、何も流れない。
音は出なかった。
「声は、もう消えている」
「だが、ここに“声の跡”がある」
跡。
声の跡という概念を、少年は初めて聞いた。
「今日は、“声の跡”を書く」
教員は紙を配りながら言った。
「聞こえなかった声を書け」
「叫ばれなかった言葉を書け」
「届かなかった言葉を書け」
紙は昨日よりさらに薄かった。
風が吹けば、それだけで破れそうだった。
少年は鉛筆を握った。
頭の中に、声が浮かぶ。
誰かの叫び。
伯母の息づかい。
幼いころの泣き声。
食べ物を乞う声。
呼ばれていたはずの自分の名前。
返せなかった返事。
声は、全部残っていなかった。
しかし、音にはならずとも“跡”はあった。
少年は、紙に書いた。
——呼ばれなかった名前
それは、自分のことだった。
そして、きっと誰かのことでもある。
少女の紙には、こう書かれていた。
——笑う前の息
声になる前の空気。
言葉になる前の温度。
「風」と「声」の間にあるもの。
教員が言う。
「声の跡は、消すこともできる。聞こえなかったことにすることもできる」
「だが……刻むこともできる」
「声は、未来に残すことができる唯一のものだ」
「紙も火も墓も、雨で消える。骨も砕ける」
「——声だけは、他人の息の中へ移せる」
少年は、手の中の紙を握った。
声を書いても音にはならない。
しかし——
その紙を誰かが読むとき、そこに“息”が宿る。
授業が終わると、子どもたちは外に出た。
風が吹いていた。
昨日より強かったが、冷たくはなかった。
「ねえ」
少女が言う。
「声って、どこに届くんだろう」
「分からない」
「届かない声は?」
「風になる」
「風になった声は?」
「……いつか誰かに当たる」
少女は風を吸い込んだ。
紙を胸に抱きながら。
「わたしの声、風になって飛んだらいいな」
「どこへ」
「ここじゃない場所へ」
少年は思った。
声には生き延びる力がある。
声には未来を動かす力がある。
声は、まだ死なない。
「おまえの声が風になったら、誰かが聞く」
「ほんとう?」
「ほんとうだ」
「じゃあ——」
少女は風に向かってほんの小さく息を吐いた。
声にならない、声の手前の息。
それはたしかに「跡」になった。
「……届け」
そう言って、少女は笑った。
風が彼女の髪を巻き上げる。
声と髪と灰が、同じ道をたどって空へ昇る。
少年も、風を吸い込んだ。
そして、自分の声にならなかった言葉の跡を思い出した。
——呼ばれたかった名前
——呼びたかった名前
紙を夜の火にかざしても、燃やすつもりはなかった。
声は火では消えない。
火を越えるもの、それが「声」だった。
風が吹いていた。
風の向こうに、まだ名のない未来があった。
そこに、まだ呼ばれていない声が届くかもしれなかった。
少年は思った。
——声の行き先は、未来の中にある。
火より遠く、灰より軽く、墓より自由で。
骨より丈夫で、名前よりも深く。
声はまだ、そこへ向かえる。
生きている限り。
(第三十四章につづく)

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