佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第三十章・第三十一章

目次

第30章 拾われた言葉と、まだ燃え残る火

 戦後の朝は、どこかで必ず煙が上がっている。

 炊事の火か、瓦礫を焼く炎か、誰かが失ったものを弔うための火か。

 どれがどれだか分からないまま、人はその煙の匂いを吸い込む。

 煙を吸うということは、この町の空気を食べているのと同じだった。

 少年は、夜明け前に目を覚ました。

 身体のどこも痛むわけではなかったが、重たかった。

 重たさとは、生き残っている者の重さだった。

 死んだ者は軽い。灰になって風に飛ぶ。

 生きている者だけが、重く沈むのだ。

 釜戸の灰をかき分けると、まだ火が残っていた。

 火というものは、あきらめの悪い生き物だ。

 一度宿ると、わずかな酸にも寄り添い、息をしながら待っている。

 火は死なないのではない。

 人よりも死ぬのが遅いだけなのだ。

 少年は井戸へ向かった。

 空は昨日より青く、昨日より遠かった。

 水を汲む縄は、さらにほつれ、桶はさらに傾いている。

 修理すべきものを前にして、修理できる体力も材料も残っていない。

 それでも、井戸はまだ水を差し出す。

 ただし、生き残れる保証はしない。

 少女が姿を見せたのは、湯をかけた瞬間だった。

「今日も学校?」

「行く。……たぶん」

「たぶん?」

「昨日、“順番”を書いたから、今日も何か書かされる」

「書かされる」という言葉に、少女はかすかに微笑んだ。

「書かされるうちは、生きてるってことだよ」

「そう思えるほど頭が回らない」

「頭じゃなくて、胃袋で生きてるんだよ、みんな」

 湯を分け合いながら、ふたりは黙った。

 黙っていても会話になる沈黙というものは、じつは貧しい生活の中でしか育たない。

 満腹な世界は、黙る必要がない。

 空腹な世界では、黙らなければ気力を節約できない。

 学校へ行くと、教室の様子が違っていた。

 黒板には何も書かれていない。

 代わりに、机の上に何かが並べられていた。

 紙だ。

 破れた紙片、古い帳簿の切れ端、包装紙……

 それが重ねられて、山になっている。

 教員がそこに立っていた。

 顔はいつもより険しかった。

「今日は授業をやらない」

 その言葉に、ざわめきが走った。

「今日は——“拾う”日だ」

 拾う?

 子どもたちは顔を見合わせた。

 拾うはずのものなど、この町にはもう残っていないと思っていた。

 教員は静かに言った。

「おまえたちの書いたものを拾う」

 一瞬、空気が止まった。

 紙の山は——昨日までの文字の残骸だった。

 “気持ち”

 “忘れること”

 “順番”

 それらが、雑に積み上げられていた。

「生きるために書いたものを、今度は生き残すために拾う」

 少年は、混乱しながらも理解し始めた。

 昨日書いた紙——“灰”と書いた紙も、この山のどこかにあるのだ。

 教員は言った。

「人は、拾わないと忘れる。忘れっぱなしになる」

「拾ったものだけが、“生き残った記憶”になる」

 紙の山を前に、子どもたちはひとりずつ前へ出た。

 机の上に手を伸ばし、自分の紙を探す。

 ある者はすぐに見つけ、

 ある者は何度も探し、

 ある者は見つからないまま座り込んだ。

 少女は、静かに自分の紙を探し当てた。

 器と、火と、手が描かれた絵だった。

 その火は、昨日よりも強く見えた。

「あった?」

「うん」

「……燃やす?」

「まだいい」

 ふたりのやりとりは、もうそれだけで通じる合図になっていた。

 少年は、自分の「灰」を探した。

 紙をめくり、破片を拾い、指先で字の跡を確かめる。

 手が粉で白く染まる。

 灰かチョークか区別はつかない。

 ようやく、自分の紙を見つけた。

 そこには、確かに“灰”と書いてある。

 ただし、昨日より滲んで見えた。

 湿気か、涙か、わからない。

 子どもたち全員が座り直すと、教員が言った。

「その紙は、今日から“持ち帰るもの”だ」

「ここに置いていくな。風にさらすな。土に埋めるな」

「持ち歩け。失くすな」

 誰かが手を挙げた。

「……どうして?」

「失くさずにいることは、“意思を持つ”最初の証拠になる」

 少年は息を呑んだ。

 少女の指が、自分の紙の欠片をそっと押さえている。

「では……教室を出ろ」

「今日は授業はしない。代わりに、町を歩け」

 町を歩け?

 それを授業と呼ぶのか?

「生きている町を見ろ。書く言葉を探せ。拾う言葉を作れ」

 教員は黒板を叩いた。

 そこにはまだ、何も書かれていない。

 その空白が、やけに清潔で残酷だった。

 教室を出ると、子どもたちはばらばらに散った。

 誰も、どこへ行けばいいのか分からない。

 だから、好きに歩くしかない。

 少年と少女は、焼け跡の道を歩いた。

 瓦礫の上を越え、人の声のない角を曲がり、誰かの家の跡を抜ける。

「……何もないね」

「あるよ」

 少女は足元を指差した。

「骨がある」

 土に埋もれた白い欠片。

 それが本当に骨なのか、陶器なのか、白木なのか——誰にも分からない。

 ただ、“名前を失った何か”がそこにあった。

「拾う?」

「拾う必要のあるものなら、拾う」

「これは?」

「……分からない」

 分からないものは、まだ拾わない。

 拾うことは、選ぶことだからだ。

 風が吹き、生乾きの洗濯物のように灰が揺れる。

 紙片が一枚、風にのって飛んだ。

 少女が走ってそれを追った。

 拾い上げて戻ってくると、そこには文字があった。

 ——「いきる」

 たった三文字だった。

 まっすぐで、震えのない字だった。

「誰かの字だね」

「生きてる字だ」

 生きてる字というものがある。

 書いた人間が死んだあとでも、文字が死なない。

 それは、戦争が教えた皮肉のひとつだった。

「どうする?」

「持っていく」

「燃やさない?」

「まだいい」

 少年は笑った。

 本当に、そればかり言っている。

 少女は笑い返した。

「“まだいい”って、何かを信じてる言い方だよね」

 少年は、自分の“灰”と、紙の“いきる”を並べて持った。

 両方とも灰色の風に揺れる。

「灰と、生きる……どっちが先かな」

「順番考えるのやめたら?」

「やめたら?」

「一緒に持てばいい」

 それは、妙に納得できる答えだった。

 順番は、大事だ。

 でも、それだけがすべてではない。

 ふたりは歩き続けた。

 町にはまだ、言葉の残骸が散らばっている。

 覚えている言葉、忘れたふりをした言葉、拾われないまま風に消えた言葉。

 夕方、丘に上ると、今日の火が見えた。

 誰かが紙を燃やしていた。

 その火は、まだ赤々としていた。

 少年はその火を見て思った。

 ——火が消えるのは、まだ先だ。

 手の中の紙が風に揺れる。

 ひとつは“灰”。

 もうひとつは“いきる”。

 ふたりは、その紙を灰に埋めた。

 どちらも、燃やさなかった。

 どちらも、捨てなかった。

 火は、消えなかった。

第31章 名前のない墓と、名を持たない子ども

 戦争が終わってからどれくらい経ったのか、少年は数えていなかった。日にちを数えるというのは、腹が満ちている人間の贅沢な習慣だ。腹が空いているとき、人間は「今日」と「昨日」と「たぶん明日」くらいしか気にしない。

 その「たぶん明日」が、最近ようやく少しだけ現実味を帯びてきた。

 空襲のサイレンは鳴らない。

 爆音もしない。

 代わりに、遠くでトンカンと金属の音がする。

 誰かが何かを建て始めたらしい。

 少年は、井戸から釜戸へ水を運びながら、その音を聞いた。

 再建の音なのか、単に壊れたものをまた壊しているだけなのかは分からない。

 どちらにせよ、その音は「まだこの町をあきらめていない人間」がいる証拠だった。

 火打ち石で火を起こしながら、少年はふと気づいた。

 ——自分には、まだ“本当の名前”がない。

 学校では「石」と呼ばれている。

 少女も、教員も、子どもたちも、皆それで呼ぶ。

 呼ばれれば振り向く。

 出席をとられれば返事をする。

 石という名は、もう十分“自分”になりかけていた。

 だが、戸籍というものがどこかにあるのなら、そこに「石」とは書いていないはずだった。

 伯母が一度だけ、夜の火のそばで本当の名前を呼んだ気がする。

 けれど、その音は爆音と一緒に飛んでいった。

 火の粉みたいに散って、もう戻ってこない。

 湯がわずかに沸き始めたころ、少女がやってきた。

 手には、いつもの破れた紙切れを持っている。

「おはよう、石」

 彼女は何の疑問もなくそう呼ぶ。

 少年も、何の抵抗もなく返事をする。

 名前に文句を言えるほど、人間に余裕はない。

「今日はね、学校で“墓”の話をするんだって」

 少女が言った。

「墓?」

「うん。先生が言ってた。“名前のある墓と、名前のない墓”だって」

 少年は、湯気の奥で目を細めた。

 名前のある墓と、名前のない墓。

 名前のない墓のほうに、自分は似ている気がした。

 二人で湯を少し飲み、学校へ向かう。

 校庭の片隅に、昨日まではなかった小さな土盛りができていた。

 誰かが手で固めたような、粗末な盛り土だ。

 その上に、折れた板切れが一本突き刺さっている。

 墨で何か書いてあるが、雨でほとんど流れている。

「誰か……埋めたのかな」

 少女が言う。

「人か、犬か、猫か」

「分からない?」

「分からせないように、してあるんだよ」

 人間は、分からないほうが楽な死をときどき作る。

 名を覚えれば、いちいち悲しまなければならない。

 名前のない墓は、悲しみを節約するための仕組みでもある。

 教室に入ると、教員はすでに黒板の前に立っていた。

 黒板には「墓」と一字だけ書かれている。

 太い線で、やけに重たく。

「今日は、死んだ者の話をする」

 教員は、あっさりと言った。

 生きている者の授業に、死んだ者を持ち込むのは、たいてい大人の都合である。

「墓には、名前が書かれる。だが、名前が書かれない墓もある」

 教員はチョークを握ったまま、少し黙った。

 その沈黙に、戦地の匂いが混ざる。

 彼は、そこから帰ってきた人間だった。

 帰ってこなかった名前を、山ほど背負っている。

「名前のある墓は、悲しまれる。名前のない墓は、忘れられる」

「でも——」

 教員は黒板を叩いた。

 粉が舞う。

「この町には、墓すら作られない死が、いくつもあった」

 子どもたちは息を呑んだ。

 誰もが、ひとりやふたり、顔の浮かぶ人間を思い出している。

「今日は、お前たちに“墓標の代わり”を書かせる」

 教員は続けた。

「名前のある誰かでもいい。名前のなかった誰かでもいい。失くしたものでもいい。

 墓の代わりになる言葉を、ひとつだけ書け」

 教室の空気が、重たく沈んだ。

 紙片が配られる。

 昨日より少し大きい紙だった。

 墓石に見立てるには、ちょうどいい大きさだった。

 少年は鉛筆を握りしめた。

 “墓の代わりになる言葉”——。

 そんなものが、世の中に本当にあるのか。

 彼の脳裏には、伯母の姿が浮かんだ。

 灰まみれの手。

 釜戸の火。

 井戸の縄。

 折れた杖。

 魚の骨。

 干し芋。

 声。

 墓はない。

 名前も、きちんとした形で残っていない。

 だが、匂いと温度だけは残っている。

 紙の上に、少年はそっと書いた。

 ——火

 ただ一字。

 伯母の名前でもなく、自分の名前でもなく。

 けれど、その人をいちばんよく表す一文字。

 隣で、少女も紙に何かを書いていた。

 彼女は悩む時間が短かった。

 すぐに鉛筆を走らせた。

「何て書いたの」

 少年が聞くと、少女は紙を胸に当てて隠した。

「まだだめ」

「またか」

「墓ってね、人に見せるより先に、自分の目に慣らさなきゃいけないんだよ」

 言っていることは理屈に合わない。

 だが、妙に納得してしまう。

 墓だけは“納得できないまま終わってはいけないもの”だ。

 教員は、子どもたちの書いた紙を一枚一枚眺めていった。

 「母」「妹」「家」「ご飯」「犬」「海」——

 言葉はどれも短く、どれも重たかった。

 少年の紙の前で、教員は立ち止まった。

 “火”と書かれた一字。

「それは、誰の墓だ」

 教員が問う。

 少年は少し考えてから答えた。

「……伯母の」

「そうか」

 教員は、何も書き足さなかった。

 ただ、小さくうなずいただけだった。

 少女の紙の前に行くと、教員は少しだけ眉を上げた。

 そこには、こう書かれていた。

 ——まだ

 教員は読み上げなかった。

 他の子どもたちにも見せなかった。

 ただ、その紙をそっと机の上に戻した。

「いい言葉だ」

 少女は、少しだけ顔を伏せた。

 授業が終わると、教員は言った。

「その紙は、今日から“墓標”だ。捨てるのも、燃やすのも、お前たちの勝手だ。

 ただ、どちらにするか決めたとき、その人間は“今度こそ死ぬ”」

 子どもたちは、紙を握りしめた。

 死んだ者をもう一度殺すかどうか——そんな選択を、こんな年で迫られるのは、どう考えてもおかしかった。

 しかし、戦争はとっくに正常の基準を焼き払っている。

 放課後、少年と少女は、校庭の隅の土盛りの前に立った。

 名前のない墓。

 板切れの文字は、ほとんど読めない。

「ここに、置く?」

 少女が言った。

「置いたら、その人の墓と混ざるかもしれない」

「混ざったら、困る?」

「困るかどうかも、分からない」

 分からないことが多すぎて、いちいち困っていられなかった。

 少年は、自分の“火”の紙を見つめた。

 少女は“まだ”と書かれた紙を見つめた。

「なあ」

 少年が言った。

「おれ、本当の名前、覚えてないんだ」

「知ってる」

「知ってたのか」

「顔を見れば分かるよ。自分の名前を忘れてる顔だもん」

 妙なことを言う。

「教えてほしい?」

「……分からない」

「なら、まだ聞かないほうがいいよ」

 少女は、土盛りの前にしゃがみ込んだ。

 指で小さな穴を掘る。

 そこに、自分の紙を半分だけ埋めた。

 “まだ”の文字の上半分だけが土から出ている。

「半分だけ埋めるの?」

「うん。半分だけ死んでもらう」

「そんなの、ありか」

「ありだよ。生きるか死ぬかの二つしかないって決めたの、大人でしょ」

 半分死ぬ、という発想は、妙に戦後らしかった。

 身体は生きているが、心のどこかは諦めている。

 夢は死んでいるが、胃袋は生きている。

 どれもこれも、半分死んで半分生きている。

 少年は、自分の“火”の紙をどうするか迷った。

 全面を埋めるか、燃やすか、持ち歩くか。

 選択肢は三つもあるのに、一つも選びたくなかった。

「おれは……まだ、持ってる」

 少年は言った。

「伯母さん、もう一回くらい、生きててもいい気がするから」

 少女は、土で汚れた指を見つめながら笑った。

「じゃあ、その人は“まだ”のほうだね」

 “火”と“まだ”。

 どちらも、終わらせない言葉だった。

 夕方、釜戸の前に座り、少年は火を起こした。

 紙は燃やさなかった。

 火打ち石だけが、灰の中で小さく光る。

「石」

 少女が呼んだ。

 その声は、以前より少し、名前らしく聞こえた。

「なに」

「いつかさ、本当の名前を思い出しても、ここでは“石”でいてね」

 わけの分からないことを言う。

「どうして」

「名前が増えるのは、悪いことじゃないから」

 少年は、よく分からないままうなずいた。

 分からないままでも、うなずけるなら、それは多分正しい。

 火が暗くなり始めた町を照らす。

 煙が空へ昇っていく。

 名前のある死者も、名前のない死者も、灰になればみんな同じ空に混ざる。

 その下で、名を持たない子どもが、

 紙切れ一枚を胸に抱きながら、

 “まだ終わらない生”を、静かに続けていた。

(第三十二章につづく)

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