佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第二十七章

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第27章 配給の列と、薄い白い液体

 配給というものは、戦争中も戦争後も、たいして品のよくならない行事である。列を作って待ち、怒鳴り声かため息かのどちらかを聞かされ、ようやく手にした袋の軽さに肩を落とす。違うのは、戦争前には多少なりとも「次はもっとマシだろう」という期待があったのに比べて、今は誰もそんな期待を抱かないことくらいだ。

 その朝、少年は学校に行く前に、配給所の前に立っていた。

 元は町役場だった建物は、壁が剥がれ、窓ガラスも半分以上割れている。その前に、子どもから年寄りまで、形ばかりの列ができていた。列というのはいつでも「国」の顔だ。国家が何をしているか分からなくても、列を見ればその国の具合が分かる。

 少年の腹は、からっぽだった。

 からっぽなのに痛まない。痛みすら出すエネルギーが残っていないのだ。からっぽが日常になると、人間は「空腹」という言葉を忘れる。ただ、身体のどこかがずっと軽いような、同時に重いような、妙な感覚に慣れてしまう。

 少女が列の少し後ろから歩いてきた。

「ここだったんだ」

「うん」

「何がもらえるの?」

「知らない。……知らされてない」

 知らされていなくても人は並ぶ。

 「何かもらえる」という事実だけが、十分な情報になる。

 それが戦後というものだ。

 前のほうで、大人たちが何やら言い争っている。

 「順番がどうだ」「子どもが先だ」「いや病人が先だ」

 声はそれぞれに正しい。

 正しさ同士がぶつかると、かえって物事は進まない。

 戦争は、理不尽が暴力として降ってきたが、戦後は正しさが鈍器になる。

 しばらくして、列がようやく少し動いた。

 役場の戸口に、汚れた白衣を着た男が現れた。白衣と言っても、もはや白ではなく灰色に近い。その男が、木箱から何かを取り出し、ひとりひとりに渡している。

 男の後ろでは、大きな缶がいくつも並んでいた。

 缶の口から、白い液体のようなものが覗いている。

「……ミルクだと」

 誰かが囁いた。

 その声には半信半疑と、信じたい気持ちと、羨望と諦めが混ざっていた。

 少年の番になった。

 白衣の男が、空き瓶を差し出す。

「子どもだな。口開けてろ」

 少年は、瓶を持っていない。

 ただ、自分の両手と、布の袋しか持っていなかった。

 男は一瞬眉をひそめ、それから溜め息をついて、ほんの少しだけ缶の中身を器に注いだ。

 白い液体は、どこか薄汚れていた。

 牛乳なのかどうかも分からない。

 底に粉のようなものが沈んでいる。

「ありがと」

 少年が言うと、男は面倒くさそうに手を振った。

「次!」

 少女も小さな器を受け取り、少年の横に戻ってきた。

 二人の器には、同じ量の白い液体が入っているように見えた。

 “同じ量”というのは、戦後ではほとんど奇跡だ。

「……これ、本当に飲んでいいのかな」

 少女がかすかな声で言った。

「飲まないと怒られるかもしれない」

「誰に?」

「腹に」

 少年は、器を両手で抱えたまま歩き出した。

 学校に向かう道の途中、壊れた塀の陰で足を止める。

 少女も黙って隣に腰を下ろした。

「先に飲む?」

「一緒に」

 器を傾け、そっと唇をつける。

 白い液体は、意外にもぬるかった。

 甘さはほとんどない。

 粉っぽい味と、かすかな脂の匂いと、鉄のような味が混ざっている。

 うまいかと聞かれれば、うまくはない。

 しかし、ひどくまずいとも言い切れなかった。

 ただ、生温い。

「……変な味」

 少女が顔をしかめた。

「でも、身体のなかに入っていく感じがする」

 少年は自分の腹を手で押さえた。

 からっぽの胃袋に何かが触れた感覚がする。

 それだけで、ひどく現実に引き戻される。

「白ってさ」

 少女が器を見つめて言った。

「きれいなものだと思ってたけど」

「ぜんぜん、きれいじゃないな」

「うん。……でも、生き物の中に入るときは、だいたい汚いのかも」

 その理屈が正しいかどうかは知らない。

 ただ、血も骨も脂も、どこか生臭い。

 生きていくということは、その生臭さをいちいち飲み込むことだ。

 少年は器を空にして、かすかな後味を舌の上で確かめた。

 砂糖の甘さに比べれば、はるかに頼りない。

 しかし、砂糖はもうほとんど手に入らない。

 代わりに、この薄い白がやってきた。

 学校の教室に入ると、今日も子どもたちがばらばらの机に座っていた。

 窓からの光は強く、埃が浮かび上がる。

 埃は白い。

 白い点々が、教室の空気の中で忙しなく踊っている。

 教員は、いつものように黒板の前に立っていた。

 顔の色がいくぶん悪い。

 戦争が終わったからといって、誰も急に健康にはならない。

 むしろ、張り詰めていた糸が切れて、一気にあちこちが壊れ始める。

「今日は“食べもの”の話をする」

 教員がそう言うと、教室の空気が目に見えて変わった。

 子どもたちの視線が一斉に前へ向いた。

 戦争中、“国のために”だの“皇国”だの言われている間は、食べ物の話はほとんど禁句だった。

 食べ物が足りないのは、おまえたちが我慢して国家を支えているからだ、と言われ続けてきた。

 今、国家は一応、負けたらしい。

 負けたあとでも、腹は減る。

「米はない」

 教員はあっさり言った。

「白い飯は、当分、おまえたちの口には入らない」

 子どもたちの顔に、落胆よりも、あきらめの色が濃く浮かんだ。

 最初から期待していないものを失っても、落胆はしない。

 ただ、「やっぱりな」と思うだけだ。

「だが……」

 教員は話を続けた。

「食べ物がないからといって、考えることまでやめてはいけない」

 教室が、変な静けさに包まれた。

 腹が鳴る音だけが、時折聞こえる。

「今日、おまえたちは、何かを口にしたか?」

 教員は黒板に“食”と大きく書いた。

 少年は、薄い白い液体の味を思い出した。

 少女も、さっきの器を見つめるような目をしていた。

「何を食べた?」

 教員が問いかける。

 誰も答えない。

 答えたくないのか、答えられないのか。

 戦争のさなかなら、正直に「何も」と言えたかもしれない。

 今はもう、言えない。

 何もないはずはない、と言われてしまいそうだからだ。

 少女が、おそるおそる手を挙げた。

「……白いのを、少し」

「白いの?」

「配給で。……薄くて、変な味でした」

 教員は小さくうなずいた。

「そうか。それでいい」

 それでいい——。

 その言い方が、少年には妙に引っかかった。

 最近、大人たちはやたらと「それでいい」と言う。

 よくもないのに、そう言う。

 そう言わないと、やっていけないのだろう。

「おまえたちは、これからもしばらく、“うまくないもの”ばかり食べることになる。臭いもの、変なもの、形のないもの……それでも、おまえたちの身体は、それでできていく」

 教員は黒板に“身”と書き、“食”と“身”の間に線を引いた。

「身体は、食べたものでできている。じゃあ、心は何でできていると思う?」

 誰かが小さく笑った。

 こんな質問を、戦争中にする大人はいなかった。

 心の話など、腹の足しにもならない。

 少年は、ふいに伯母の顔を思い出した。

 魚の腐った匂い、干し芋の甘さ、薄い湯の温度。

 それら全部が、自分の心の材料になっているような気がした。

 教員は、自分で答えを言った。

「心は、覚えていることと、忘れたふりをしたことと、その両方でできている」

 覚えていることと、忘れたふり——。

 少年は、腐った魚を焼いて分け合ったあの日を思い出し、胃のあたりがぐらりと揺れた。

 あれは、たしかに「覚えている」ほうに入る。

 だが、忘れたふりをしたい出来事でもあった。

「今日からノート代わりに、これを使う」

 教員は、破れた包装紙や、使い古しの帳簿から切り取った紙切れを配り始めた。

 紙の質も大きさもばらばらだ。

 だが、「何もない」よりはずっとましだった。

 少年の前にも、薄く罫線の残った紙片が置かれた。

 インクの染みがまだ残っている。

 そこには、かつて別の誰かの生活が書き込まれていたのだろう。数字や名前や、もう意味のなくなった予定表——そういうものが、微かに透けて見える。

「そこに、今日食べたものと、そのときの気持ちを書け」

 教室にどよめきが走った。

 食べたものならまだしも、「気持ち」とは何だ。

 人間は、腹が減っているとき、自分の心の状態など考えたくない。

 だが、教員は静かに続けた。

「字が書けない者は、絵でもいい。線でもいい。何か“しるし”を残せ」

 少年は鉛筆を握った。

 指先が震える。

 “白い液体”と、“変な味”と、“胃の重さ”と、“少女の顔”。

 それらが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざった。

 紙の中央に、“白”と書こうとした。

 だが、手は勝手に別の字を書き始めた。

 ——“灰”。

 少年は自分で驚いた。

 書こうと思っていなかった字が、紙の上に現れた。

 灰。

 毎日見ている色。

 毎日触れている温度。

 家の跡、釜戸の跡、伯母の記憶、魚の匂い——全部、灰にまみれている。

 隣で少女が、紙に何かを書いている。

 横目で見ると、見慣れない形の絵のようなものだった。

 丸い器と、その中に揺れる白いもの。

 器の横に、小さな人の影。

「何、書いたの?」

 授業が終わったあと、少年は小声で聞いた。

「秘密」

「ずるい」

「じゃあ、そっちも見せてよ」

 少年は自分の紙を見下ろした。

 “灰”と書かれたその字は、歪んでいたが、消したくはなかった。

「……これは、見せたくない」

「なんで?」

「見られると、本当になりそうだから」

 少女はしばらく黙って紙を眺め、それから言った。

「じゃあ、いつか見せて。灰じゃなくなるときが来たら」

 そんな時が来るのかどうか、少年には分からなかった。

 だが、不思議と「絶対に来ない」とも言い切れなかった。

 放課後、二人で釜戸の前に座り、紙片を灰の上に並べた。

 灰の上に“灰”という字を書いた紙を置くというのは、なかなか性格の悪い行為だ。

 自分でやりながら、少年はそう思った。

「燃やす?」

 少女が聞いた。

「まだいい」

 少年は首を振った。

「もう少し、置いとく」

 灰の白と、紙の薄い白と、ミルクのような白と——それらが、風に揺れる。

 白は、やはりきれいではない。

 きれいではないが、そこに何かを貼り付ける余地だけは残してくれる。

 夕方、丘に上ると、海がかすかに光っていた。

 昨日より波の音が強い。

 配給の白い液体は、もう腹の底で形を失っている。

「明日も、書くのかな」

 少女が呟いた。

「たぶん」

「何を書こう」

「何か食べないと、書けないな」

 腹の中身と紙の上身——どちらも、まだ貧しい。

 それでも、今日の紙は昨日より少し重く感じられた。

 少年は、ポケットの中で火打ち石を握りしめた。

 硬く冷たい感触が、掌に残る。

 灰の味と、白い液体の味と、紙の手触り。

 それらが混ざり合って、何か名前のつかないものになりかけている。

 ——いつか、この“灰”が別の字に書き換えられる日が来るのだろうか。

 答えはまだ遠かった。

 だが、遠いからこそ、少年はその日を少しだけ想像してみる気になった。

 風が、白い布を揺らし、灰を舞い上げた。

 世界は相変わらず汚く、生臭く、貧しかった。

 それでも、紙の上の一文字だけは、はっきりとそこにあった。

 少年は、それを無意識のうちに、指でなぞっていた。

(第二十八章につづく)

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