佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第二十六章

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第26章 白い布と、壊れた机を囲む子どもたち

 翌朝、少年は、昨日とは少しだけ違う気持ちで目を覚ました。

 釜戸の灰はまだ冷たく、湯気ひとつ出ていない。

 だが、その冷たさがいやに素直に身体に馴染んだ。

 人間というのは、火のない朝にも慣れる。慣れてしまったあとで、急に火を求める。そういう勝手な生き物だ。

 床と呼べるほどの床もない地面から立ち上がり、井戸の方へ向かった。

 風の匂いが昨日よりも乾いていた。

 乾いた風というのは、焼け跡にとってはありがたいのかもしれない。生臭さを少しだけ薄めてくれるからだ。しかし、薄まったところで匂いの出どころが消えるわけでもない。匂いは、戦争の影みたいなもので、人が生きている限りどこかにへばりついている。

 井戸の縄は、昨日よりまた少しほどけていた。

 まったく、ものというのは修理されるより崩れる方が早い。

 人間も同じで、治る前に壊れる箇所のほうが多い。少年はそう思いながら、割れた桶をゆっくり下ろした。

 水音が小さく響く。井戸の底で、その音が反射する。

 音だけは清潔で、澄んでいる。

 実際の水は濁っているのに、音だけが昔のまま澄んでいるというのは、なんとも皮肉な話だ。

 水を釜戸に置き、火打ち石を探そうとして、ふと気づいた。

 ——火打ち石が、灰に埋まったままだった。

 取り出そうとして、灰に指を沈めた瞬間、胸の奥に古い痛みが走った。

 伯母の指のかたち、声、呼吸の間隔まで甦ってくる。

 こういう記憶というのは、しぶとい。

 食べ物の味より、血の匂いより、灰の温度よりもしぶとい。

 火は、なかなかつかなかった。

 火花が散っても、昨日より弱い。紙屑が湿っている。

 ——湿っているのは紙か、気持ちか。

 三度、四度と石を叩いたころ、ようやく細い炎が立ち上がった。

 少年は小さく息を吐いた。

 まるで生き返ったかのように、火は灰の底から“まだやれる”と言わんばかりに身体を曲げて燃えている。

 湯が沸く頃、少女が現れた。

 昨日と変わらぬ疲れた顔。

 だが、昨日と違って、袖の先をほんの少しだけ折り返していた。

 その折り返しに意味があるのかないのか、少年には分からなかった。

 分からないままでも、いいような気がした。

「今日は、来てくれないかと思った」

「来たよ。眠れなかったけど」

「眠れないのは、生きてる証拠だよ」

 少女はそう言い、湯に手をかざした。湯気を吸い込み、目を細める。

「今日は、学校も人が多いかもしれないよ」

「……どうして?」

「白い布が、掲示板に貼られてた」

 白い布。

 戦争中、“白”は降伏の色だった。

 戦争後の白は、何の色にもなれず、中途半端に浮いている。

白い布がひとつ掲げられると、人間はその意味を勝手に作り始める。

 希望だとか、始まりだとか、休息だとか。

 実際には、その布をくくりつけた誰かが、ただ“そこに布があったから”貼っただけかもしれないのに。

 二人は湯を少し飲み、学校へ向かった。

 校庭では、思いのほか多くの子どもが集まっていた。

 十人、二十人……中には見たことのない顔も混ざっている。

 昨日よりも、空気がざわついている。

 終戦のざわめきというものは、子どもの顔に出る。大人の顔より、子どもの顔のほうが正直だ。

 校舎の前に、白い布がひらりと揺れていた。

 文字は書かれていない。

 ただの白。

 ただの布が、瓦礫の中で妙に清潔に見える。

 少女が布を指差した。

「ね、言ったでしょ」

「……何のつもりなんだ」

「分かんない。でも、人が集まる理由にはなるみたい」

 教室に入ると、昨日の痩せた教員がいた。

 出席簿を開き、目を細める。

 彼の顔には疲労が濃く刻まれている。

 戦時の疲れと戦後の疲れは別物だ。戦後の疲れは終わりがない。

「静かに座れ」

 教員が言うと、子どもたちは半ば反射的に席についた。

 戦争は、人間を従順にはしなかったが、“怖い声に反応する身体”だけは残した。

 授業が始まった。

 今日は「白」という字だった。

 教員は黒板に大きく“白”と書いた。

 チョークの粉が舞い、光に照らされる。

 その粉だけが、綺麗だった。

「白には、多くの意味がある」

 教員が言った。

「降伏、始まり、終わり、無垢……そして、“空っぽ”だ」

 空っぽ。

 その言葉が、少年の胸の奥で重たく響いた。

 空っぽであることが悪いわけではない。

 空っぽであれば、何かを入れられる。

 しかし、何を入れたらいいのか分からないのが、戦後の子どもたちの困りごとだ。

 板に字を書く作業が始まる。

 少年は“白”の字を板に書いた。

 昨日よりも、少しだけ線がまっすぐだった。

 少女の“白”は、強かった。

 線に迷いがない。

 迷いがないというのは、必ずしも自信があるわけではない。

 迷っている余裕がないだけだ。

「いい字だ」

 教員が少女を褒める。

 少女は目を細めた。

 少年の方をちらりと見た。

 少年の“白”は、どう見ても歪んでいた。

 だが、少女は笑った。

 その笑みには、昨日よりやわらかい温度があった。

「おまえの“白”は、生きてるみたいだね」

「どこが?」

「歪んでるから」

 歪みは、隠せない生だ。

 きちんとした線を引ける子どもより、曲がった線を書く子どものほうが、戦争では生き延びる。

 授業が終わり、子どもたちが教室から出ていく。

 少女が少年の袖を軽く引いた。

「ねえ」

「何だ」

「白ってさ……何に見える?」

 少年は考えた。

白は、これまで何度も見てきた。

焼け跡の灰の白。

火の後に残る薄い白。

骨の白。

死者の包帯の白。

そして、今日の掲げられた布の白。

「……何にも見えない」

 少年は言った。

「だから、怖い」

 少女は静かにうなずいた。

「何にも見えないから、変えられるのかも」

「変えられる?」

「うん。空っぽなら、入れればいいんだよ」

 少女は瓦礫の上を歩きながら言った。

「でも、誰が入れるんだろうね。大人じゃなさそう」

 少年は答えられなかった。

 答えるほど未来を見ていない。

 未来を見るには、腹がまだ空きすぎている。

 二人は釜戸の前に戻った。

 灰は白く乾き、風が吹くたび舞い上がる。

 灰の白は、死の白か、それとも生の白か。

 少年には判別がつかなかった。

 少女が灰を指でさわり、ぽつりと言った。

「ねえ、“白”ってこんなに汚いんだね」

「汚い白もあるんだ」

「でも、白だよ」

 風が吹いて、灰がふわりと空に舞い上がる。

 その瞬間だけ、灰は雪のように見えた。

雪に見える灰は、実際は骨の名残だ。

 骨の名残が風に舞う世界で、少年と少女は静かに立っていた。

「明日も学校、来る?」

 少女が尋ねた。

「……行くよ」

「じゃあ、“白”の続きを見ようよ」

 少女は笑った。

 少年も、ほんの少しだけ笑った。

 白い布は、風に揺れていた。

 空っぽで、意味がなく、ただそこにある。

 だが、その“意味のなさ”が、いちばん強かった。

 空っぽだからこそ、何かを入れられるのだ。

 少年は思った。

 ——明日、その“空っぽ”の続きを探してみよう。

 白い布と、壊れた机たちと、灰の中の火。

 それらを結ぶ線の先に、

 まだ名前のない未来が、静かに揺れていた。

(第二十七章につづく)

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