プロローグ「私の見た町」
この町は、いまはきれいに舗装され、犬も神妙に散歩している。昔は土が剥き出しで、雨が降るとすぐ泥になった。泥は正直で、ついた足跡のとおりに人が生きた。戦があった年、空から火が降って、家は軽く燃え、親は重く沈んだ。
私は長生きしてしまったから、語る番が回ってきたらしい。覚えは確かではない。けれども、確かなもの・たとえば飴の缶が床を打つ音――それは忘れない。
缶はからん、と鳴って止まる。中身は少ない。少ないものほどよく響く。人の心も同じだ。
少年は此の町にいた。目だけがぎらぎらして、腹はいつもからっぽだった。からっぽは不幸か、と問われれば、時と場合による。からっぽは夢を入れる余地にもなる。だが、その頃のからっぽは、夢より先に空気しか入らなかった。空気では腹は張らない。そんな当たり前のことを、大人たちは理屈で上塗りした。節度、勤勉、家の恥。立派だが、空腹には勝てない。
この話は、私のものでも彼のものでもある。生き残った者は皆、語る義務を持つ。黙っていてもいいが、黙れば灰になる。灰は軽い。軽いものは風に負ける。だから、私は喋る。これが私のささやかな抵抗だ。
第一章「灰の味」

火が落ちる音は、じつに単純だった。ごう、と鳴って、家が紙のように薄くなる。紙の家は燃えるために建っていたのかもしれない。あとで誰かがそう言ったが、その誰かは安全なところから言ったのだと思う。安全な場所にいる者はよく語る。危険の只中にいる者は、黙って走るしかない。
少年は走った。妹の手は驚くほど軽い。軽い手は、離れやすい。握る側の責任が重くなる。少年の責任は年齢に似合わず大きい。背丈よりも長い影を引いて、彼は路地を抜けた。
川べりに出ると、風の匂いが変わった。焦げと油と、遠くの潮。空は黒い花でいっぱいで、花は落ちるたび音を立てて咲いた。咲いては終わる。終わるのに、しぶとく咲く。世界はこういう矛盾を平気でやる。
「兄ちゃん」
妹の声は、折れやすい箸のようだった。使い慣れているのに、ふとした拍子に割れてしまう。
「走る」
少年は言った。言葉は短い方がいい。長い言葉は腹の足しにならない。
二人は川の土手へ上がった。土は乾いて、靴の裏がざらついた。人がたくさんいて、誰もが自分の荷物にだけ目を落としていた。戦は、人を小さくする。小さくなれば守れるかといえば、そうでもない。小さくなったぶん、寒さに負ける。
少年は缶を抱えていた。赤い字の印刷は煤でくすみ、角が少しへこんでいる。中にあるのは知っている。いくつかの飴。いくつかは多くない。多くないものほど、価値は騒がしくなる。妹は缶の音で機嫌を直す。からん、と揺すれば、目が光る。飴は希望の形に似ている。手触りが軽く、口に入れるとあっさり消える。
叔母の家に身を寄せる話は、空襲の前から出ていた。大人が決めることはいつも遅い。遅い決定は、だいたい正しくても時機を外す。時機を外した正しさほど人を傷つけるものはない。
叔母は正しい女だ。正しい女は嫌われる。だが、家という船は、そういう正しさでなんとか浮く。少年はわかっている。わかったうえで、気に入らない。気に入らないからといって、空腹は止まらない。人間は不便だ。
川面に、小さな灯がゆれた。あれは蛍ではない。火の粉だ。火の粉は、遠くから見れば美しい。近づけば熱い。美はだいたい遠くにある。近づくと現実になる。現実は、歯で噛むと血の味がする。
「兄ちゃん、喉かわいた」
妹は正直だ。正直は美徳で、同時に脅迫になる。少年は頷く。缶のふたを回す。抵抗は少しあって、からりとあいた。一粒、掌に転がす。赤い。赤はなぜこんなに人を慰めるのか。
妹は舌の上で転がす。目を閉じ、しばらく黙る。この沈黙は、たぶん幸福だ。幸福は説明を嫌う。説明すると薄くなる。
その夜、町はほとんどの言い訳を燃やした。燃え残ったのは癖の強い現実ばかりで、人々はそれを拾い上げ、平然と暮らしに戻した。人間は強い、という言い方は信用しない。強くならざるをえないときに、なっただけだ。
朝。
火はやっと飽き、空は灰色の顔をしている。灰色は中立に見えるが、実は冷たい側に寄っている。冷たい色は感情を遠ざける。遠ざければ、泣かずに済む。泣かずに済めば、動ける。
叔母の家は河口のほうだ。歩く。道は不自然に広く、家は低くなった。瓦の破片はよく切れる。子どもの足はよく切れる。血が滲む。少年は止まらない。止まれば腹が鳴る。腹の音は、残酷な太鼓だ。
叔母は戸口で待っていた。髪を後ろで固く結い、目は計算に長けた人の目だった。計算は悪くない。家計は計算の別名だ。
「生きていたのね」
言葉が簡潔で助かる。生きたか死んだか。間はない。生きているなら、配給表、米びつ、鍋。叔母の正義はそこから先へ行かない。行かないことが、時に救いになる。
「上がりなさい。手を洗って。無駄に食べるなよ」
無駄とは何か。子どもには定義が難しい。おとなにも難しい。戦の最中は、定義が人を刺す。少年は頷く。妹の手を洗う。水は冷たい。冷たさは清潔の証明だと言い聞かせる。
居間の隅に、缶を置く。置く音が床を伝って、家じゅうの神経を鳴らした気がした。叔母がちらと見た。目が言う――それは贅沢だ。少年の目も言う――これは命だ。贅沢と命は、ときどき同じ容器に入る。
昼、叔母は働き、少年は手伝い、妹は昼寝をした。寝息は軽い。生きている証拠は、いちばん静かなところに出る。
夕刻、隣家の女が来て、噂を置いていった。噂は戦に強い。爆風よりしつこく残る。誰が何を持って逃げたか、誰が誰の鍋を借りたか。叔母は頷き、頷き、必要なところで眉を寄せた。眉は家の警報器だ。
その夜、少年は眠れなかった。缶が気になった。音を立てずに蓋を開け、指で数える。三。数は無慈悲だ。三は三であって、四にはならない。
彼は思った。
――書かなければ、これは消える。
別に紙と鉛筆の話ではない。あれは後のことだ。いまは、心の肉に刻む話だ。刻み損ねると、翌日には綺麗に忘れる。忘れる才能は生き延びるのに役立つが、忘れすぎると、人は薄くなる。薄い人間は、風に負ける。
翌朝、叔母は言った。
「働けば食べられる。働かなきゃ痩せる。世の中は簡単だよ」
簡単は強者の言葉だ、と少年は思った。だが口には出さない。言葉は腹の足しにならない。彼は外へ出た。港の匂いがした。焦げの匂いはまだ勝っていたが、潮が負けていない。潮はしつこい。しつこいものだけが、季節を越える。
彼は背筋を伸ばした。伸ばすべき理由はない。けれども、伸ばすと寒さが少しだけ遠ざかる。そういうことは、身体が先に知る。
道の端に、小さな光があった。蛍だ。季節外れの。季節外れは、だいたい悲しい。でも、光は光だ。彼は立ち止まった。妹が横に来て、同じものを見た。
「きれい」
その一言で、夜が少しだけ柔らかくなった。柔らかさは贅沢だ。贅沢は罪か。戦時は罪だ。だが、子どもの罪は、たいてい赦される。赦されないときのことは、あとで書けばいい。あとで書く――それが少年の、まだ名前のない救いだった。
(第二章につづく)

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