平岩弓枝を模倣し、「お玉ヶ池事件」を題材にした完全オリジナル長編小説『お玉が池』第七章・第八章

目次

第七章 影縫いの水底

 源海は、何度も目をこすった。

 昨夜見た光景が、夢でなかったことを否応なく認めざるを得なかった。

 池の底から浮かび上がった白い影。

 お玉を攝(と)ろうとするような、水の怒り。

 あれは、願いでも幻でもない――生きた意思だ。

 「池を、調べる必要がある」

 源海は朝まだきの寺を出て、池を囲む祠や古碑をひとつひとつ見て回り始めた。

 ひび割れた石、風化した文字。

 だがある碑だけが、不自然に新しい。

 《此処(ここ)に封じる 情の怨魂》

 その文字を見た瞬間、背筋に冷たい汗が伝った。

     *

 一方、お玉は気力が萎えたように家に籠もっていた。

 身体のどこかが、抜け落ちたようだった。

 「池の声が聞こえるのです」

 母の前では言えなかった言葉を、胸の奥で繰り返した。

 畳の目を見つめているだけで、心に黒い波が寄せてくる。

 ――沈め

 ――いっそ沈んでしまえ

 それは 池の声か

 自分の弱さか

 判別がつかなくなりつつあった。

 母が汁物の椀を置き、娘の背を撫でる。

 「無理して笑わなくていいよ」

 その声があたたかくて、涙が勝手にこぼれた。

     *

 夕刻、寺での祈祷を終えた源海の前に、住職が立ちはだかった。

 「池に近づいてはならぬ」

 「理由をお聞かせください」

 住職はしばし沈黙した。

 やがて、苦渋を噛んだ声が漏れた。

 「……過去に多くの者が、池に引かれた。

  恋に破れた女がひとり、名をお玉といった。

  その名は、池に縛られてしまったのだ」

 「お玉殿は……同じ名を持っています」

 住職は目を閉じた。

 「縁は、時に呪いになる」

 源海の胸に重石が落ちた。

 彼は深く頭を下げたが、心は逆方向へ走っていた。

 ――守らねば

 ――呑まれる前に

     *

 夜。

 池のほとりで、何かが動いた。

 羽織を揺らしながら歩いてきたのは、昨夜の武家・藤木清之助だった。

 清之助は池を鋭い目で観察していた。

「この池……人の生気を喰らっているな」

 武士の言葉は、迷いなく核心を射抜いている。

 源海は清之助の側へ立った。

 「頼みがある。

  もし池が、お玉殿を奪おうとするなら――」

 清之助は刀の柄に手を置き、頷いた。

 「斬る。たとえそれが、池そのものであろうとも」

 夜風が、ひときわ強く吹いた。

 水面がざわりと揺れる。

 池が聞いている、と二人は悟った。

     *

 その頃、お玉は家を抜け出していた。

 どこかに呼ばれるように。

 白い息を小刻みに吐きながら、

 池の闇へ、ただ吸い寄せられる。

 池は――静かだった。

 それが逆に恐ろしい。

 「来たのだな」

 水面から、かすかな声が上がった。

 女の声とも、風の声ともつかぬ囁き。

 お玉の足が、水辺に近づきすぎていた。

 ――あと一歩

 滑り出した足を、腕が掴んだ。

 「お玉殿!」

 源海が肩を抱え込み、後ろへ強く引いた。

 お玉ははっと我に返り、源海の胸に縋った。

 震えが止まらない。

 「もう大丈夫です……私がいます」

 その言葉に、池が怒り狂った。

 ばしゃあ――っ!

 水飛沫が牙のように二人へ襲いかかる。

 清之助が刀を抜き、水へ斬りかかった。

 斬られた波が叫びを上げるように弾け飛ぶ。

 「退け! この娘は渡さぬ!」

 清之助の声に、池の怒りはさらに昂る。

 水柱が立ち、悲鳴のような音が夜の空気を裂く。

     *

 暴れる水の前で、源海は叫んだ。

 「もう……お玉殿を苦しませるな!」

 池は言葉を理解したかのように、一瞬動きを止めた。

 そして――

 静かに沈黙を取り戻した。

 辺りには、夜風だけが残された。

 源海はお玉を抱いたまま、荒い呼吸を整える。

 お玉は涙で濡れた顔を上げた。

 「源海様……もし私が呑まれたら、その時は……」

 「言わせません」

 源海は言葉を遮った。

 「あなたは、この地に生きるべき人です」

 池が、それを聞き逃すはずがなかった。

 水底から、うっすらと女の影が立ち上がった。

 その顔には、深い哀しみと、嫉妬の色が混じっていた。

 ――これは、ただの怪異ではない。

 ――恋が濁り、怨となった影。

 源海は悟った。

 池を鎮める鍵は、

 この影の 未練 にある。

 雪が降りはじめた。

 白は浄化を示すのか、

 それとも、覆い隠すための白か。

 お玉と源海は、雪の音の中、ゆっくりと歩み始めた。

 池が凍る前に、

 真実を解かなければならない。

──第七章 了──

第八章 名に宿る影

 冬の夜が深まるほどに、池は静かに狂っていくようだった。

 表面は凪いだままなのに、水底では黒い波紋が渦を巻いている。

 そこに眠っているのは――名を奪われた、ひとりの女。

     *

 翌朝。

 源海は寺の奥にある文庫へ向かった。

 池についての古記録を探すためだ。

 住職は止めなかった。

 “知る覚悟があるなら、止めても無駄だ”

 そう悟ったのだろう。

 巻物を開くと、一通の古文書が目に止まる。

 薄い墨で、震えるような筆跡が記されている。

 ――寛永五年

 ――娘、お玉

 ――恋慕の果てに、池へ

 そこには短いながら、ひとつの人生が閉じ込められていた。

 娘が身を焦がした相手は、寺の若き僧だったという。

 身分違いというには、僧と町娘ではあまりにも隔たりが大きい。

 引き裂かれた恋。

 その末に、女は水へ自らの身を沈め――

 池は、その女の名を奪った。

 「お玉が池」。

 ――名は呪いとなり

 ――同じ名の娘を飲み込む

 源海は巻物を閉じ、拳を握りしめた。

 「同じ道を辿らせてはならぬ」

     *

 一方、お玉は体調を崩して寝込んでいた。

 夜ごと呼ばれる声に、心身が蝕まれているのだ。

 母は温かな粥を差し出しながら言う。

 「どんな闇でも、光があれば跳ね返せるんだよ」

 お玉は小さく頷いた。

 でも、自分の光はどこにあるのだろう。

 布団に横たわっていても、池の闇が胸を締め付ける。

 「源海様……会いたい……」

 切実な願いほど、池はそれを嗤うかのように囁いてくる。

 ――恋は泥

 ――泥は沈む

――沈めば楽

 お玉は頭を抱えた。

 その時、ふと視界の端で何かが揺れた。

 水鏡ではない。

 空気が、揺れている。

 「助けて……源海様……」

 泣き声は、風にさらわれた。

     *

 夕刻、源海は再び池のほとりへ向かった。

 隣には清之助がいる。

 彼は昨夜の騒ぎが気になって仕方ないらしい。

 「この池はただの怪ではない。

  人の情に取り憑いた、執念そのものだ」

 源海は静かに頷く。

 「では、その執念を断ち切るには――」

 「情を超えた情で立ち向かう他あるまい」

 清之助の言葉は、重く澄んでいた。

 戦場で生死を潜り抜けた者の言葉だ。

 源海は息を吸い、決意したように言う。

 「お玉殿を救います。どんな形でも」

 清之助は刀の柄に手を添えた。

 「俺も手を貸そう。情は剣より強いと証明してみせろ」

 池がぴしゃりと波を立てた。

 まるで嘲笑するかのように。

     *

 夜、家の外から声がする。

 「お玉殿!」

 源海の声だった。

娘は身体を起こそうとして、ふらついた。

 母が心配そうに支える。

 「少しでも外の空気を吸っておいで」

 夕月の下、二人は向き合った。

 源海の目には迷いがなかった。

 「あなたに伝えたいことがあります」

 お玉の心臓が早鐘のように打つ。

 その言葉を、どれだけ待ち望んだだろうか。

 「あなたを……守りたい。

  池がどれほどあなたを呼ぼうとも」

 その言葉が終わるか終わらぬうちに、池が唸った。

 ばしゃあっ……!

 水柱が、二人の間に割り込むように立ち上がった。

 水面が裂け、黒い腕のような波が伸びてくる。

 お玉が源海の腕にしがみついた。

 「どうして……わたしを……」

 泣き崩れるお玉を抱き寄せ、

 源海は池へ言い放つ。

 「過ちを繰り返させはしない!」

 池が唸り、

 白い影がゆっくりと姿を現す。

 それは、美しく、哀れで、そして憎悪に満ちた女。

 「わたしの名を……返して」

 影が口を開いた。

 お玉は瞳を大きく見開いた。

 ――それは、自分と同じ顔だった。

 「源海様……私……あの人に……飲まれる」

 源海は、お玉の手を強く握り返した。

 「飲まれさせません。

  お玉殿は、あなた自身を生きるのです」

 影は苦しげに歪み、波となって崩れ落ちた。

 池の底へ沈んでいく。

 夜風がふたりを包む。

 池は静寂に戻ったかのようだったが――

 源海は悟っていた。

 終わったのではない。

 始まったのだ。

 名に宿る怨が、

 ふたりを試しているのだと。

 雪が舞い落ちる。

 白は、救いか呪いか。

 「源海様……離れないで」

 「離れません。

  必ず……あなたを救います」

 白い雪の下で、

 影は確かにまた動こうとしていた。

──第八章 了──

(第九章につづく)

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