第五章 縁を結ぶもの、断つもの
冬の足音が近づくにつれ、池の気配はいよいよ濃くなっていった。
水面はいつもより黒く沈み、風が吹くと、底で何かが蠢いているように見える。
お玉はその前を通るたび、胸の奥に冷たい指が触れるような感覚を覚えた。
――呼ばれている。
――連れて行かれる。
そのふたつの声が、日に日に混ざっていった。
*
火事の夜を境に、源海とお玉の距離は縮まった。
とはいえ、僧である源海は決して軽はずみに娘のそばへ近寄れない。
お玉もそれをわかっていた。
恋は相手の立場を踏みにじるためにあるものではない。
ただ、想いを抱える心が、どこへ向かえばよいのかわからないだけだ。
朝、お玉が店先で母を手伝っていると、遠くに源海の姿が見えた。
荷を運び、町人に頭を下げ、丁寧に言葉を交わしている。
――いつか、あの人は私の視界から消えてしまうのだろうか。
想像しただけで、胸がきゅうっと縮む。
視界の片隅で、池の水が小さく波打った。
風は吹いていない。
だが水面はなぜか、揺れていた。
*
ある昼下がり、寺を訪れた近所の娘が、源海と話し込んでいるのを見かけた。
娘は楽しげに笑い、源海は優しい笑みで応える。
「……そうですか」
小さな嫉妬が、お玉の胸を刺した。
自分でも驚くほどに。
「いけない……私だけのものではないのに」
そう言い聞かせても、嫉妬は消えてくれない。
娘は走り去るようにその場を離れた。
池へ向かう足が止められない。
水面は、こちらを待っている気がした。
「どうして……どうしてこんな気持ちになるの……」
声は風に溶け、返事はない。
ただ、水の底で何かが笑った気がした。
*
夜。
源海は読経を終え、灯明を落とそうとしたところで、背後に気配を感じた。
「源海殿、少しよろしいか」
住職の声には、悔しさと心配が混じっている。
源海は静かに座り直した。
「お玉殿との噂が立っておる。
何事もなければよいのだが……」
源海の心が揺れる。
「何事も……なければ」
それは嘘になる。
心に宿ってしまった情は、隠せない。
住職はため息をついた。
「情を持つことは、人として間違いではない。
だが僧としては、迷いの種となる。
いずれ誰かを深く傷つけることになる」
源海は目を閉じた。
その忠告が、最も痛いところを突いていたから。
――お玉殿を傷つけるわけにはいかない。
そのために、自分はどうすべきなのだ。
迷いは夜をさらに深くした。
*
数日後。
お玉が歩いていると、近所の老婆が呼び止めた。
「娘さん、最近よく池に行くねぇ」
老婆の声には、からかいではない、どこか怯えがあった。
「昔、この辺りでね……一人の娘が恋に破れて池に沈んだんだよ。
そしたら池は、その娘の名前をもらった。
『お玉が池』さ」
お玉の心臓が凍り付く。
まるで自分の未来を暗示するような話だった。
老婆は続けた。
「名は、重い。
名前が引き寄せる縁もある。
そして断つ縁もある」
お玉は震える唇で言った。
「わたしは……沈みません」
老婆は静かに頷いた。
「沈まぬようにな……気をつけるんだよ」
娘はその場を離れたが、足元が重かった。
池は遠ざかっているはずなのに、なぜか近づいてくる気がした。
*
夜。
池の水が、にわかに騒ぎ始めた。
風もないのに、波紋が集中して一箇所へと集まっていく。
その中央に、白い影が浮かんだ。
人影。
長い髪。
ゆらゆらと水の上を漂う女の姿。
お玉は叫びもせず、その場に立ち尽くした。
影はお玉の方へ、ほんの少しだけ近づいた。
「わたしの……」
その声は、誰にも聞こえない。
だが、池は聞いていた。
ふいに、後ろから肩を掴まれた。
「お玉殿!」
源海だった。
その声で、お玉の意識は現実に戻された。
「いけません……ここは、危ない」
源海の手が、震えている。
お玉も震えていた。
恐怖か、安堵か、それとも恋か。
僧は娘を抱き寄せる寸前で、その手を止めた。
戒律が、彼を引き戻す。
だが、一度揺れた心は戻らない。
お玉の瞳が、源海だけを映した。
「源海様……どうか……離れないでください」
源海は苦しげに目を閉じた。
「離れたいと思ったことは、一度もありません」
池が、微かに波を立てた。
まるで、ふたりの言葉を聞いているかのように。
*
その帰り道、源海は何度も振り返った。
池がふたりを飲み込んでしまいそうで恐ろしかった。
――お玉殿を救わねば。
そのためには、自分もまた救われねばならない。
だが、救いとは何だ。
僧にとって。
ひとりの男にとって。
答えは、まだ見えていない。
*
池は、静かに沈黙を貫いていた。
だが、その沈黙は決して安らかではない。
呼び寄せる縁。
断ち切られた縁。
どちらも、池の中で渦を巻いている。
お玉が池を見つめるたび、
その暗闇は少しずつ、娘を飲み込んでいく。
水面の揺れは、心の揺れ。
心の揺れは、運命の揺れ。
そして、運命は決して優しく漂うものではなかった。
──第五章 了──
第六章 水底に結ばる縁

寒さが本格的に訪れた。
町の空気は乾き、肩をすぼめて歩く人々の白い息が朝の通りを淡く彩っている。
冬は人の孤独を際立たせる季節だ。
だからこそ、人は何か温かいものへすがりつきたくなる。
お玉にとって、その温もりは――源海だった。
池の底には、別の温度が潜んでいる。
闇と濁りの、湿った呼吸のような温度。
それは日に日に増し、表面へ滲み出ようとしていた。
*
火事の夜以来、お玉は眠れぬ夜を何度過ごしただろう。
布団の中で指先を握りしめ、まぶたを閉じても、浮かぶのは源海の眼差し。
「私は、恋をしている……」
その言葉を心の中で形にするのに、随分かかった。
口に出せば、戻れなくなる気がしたから。
恋は、人を支えもすれば壊しもする。
池の底に沈んだあの白い影――
あれは、恋の果ての象徴なのだろうか。
お玉は、湯飲みを手に取りながら震える指を隠した。
恋をしてから、凍えるような寒さと、熱に浮かされたような感覚が交互に襲ってくる。
母はそんな娘を見守っていた。
「身体を冷やしたらいけないよ」と言いながら、娘の背を軽く撫でる。
娘が何に心を奪われているのか、母は薄々気づいている。
だがその芯を折るようなことはしない。
恋に痛む心を、どうして止められよう。
*
一方、源海は住職から厳しい戒めを受け続けていた。
「一度の情が、生涯を狂わせることがある」
その言葉は、刃のように胸へ刺さる。
しかし、胸に宿ってしまった炎が、容易に消えるはずもない。
池へ引かれるお玉を見たときの、あの恐怖。
彼女を失うかもしれぬという焦り。
僧である前に、人である自分を思い知らされた夜だった。
「私は……どうすべきなのだ」
源海は冷たい鐘楼の縁に腰を下ろし、月に問うた。
月は何も答えない。
ただ、池を照らし、お玉を照らし、源海の迷いを照らす。
*
ある日、町に武家の一行がやってきた。
旗に描かれた家紋は、江戸の城下を所管する大身の家。
何やら寺の僧を呼び出し、祈祷を依頼している様子。
源海が顔を伏せると、その中に見覚えのある武士を見つけた。
かつて源海を人の道から僧の道へ導いた、恩人とも言える人物――
名を、藤木清之助。
源海がかつて仕えていた小身武士の子であり、兄のような存在だった。
「源海、久しいな」
清之助は優しく笑った。
源海は、胸の奥が痛むのを覚えた。
武で身を立てる清之助と、仏門の道を選んだ自分。
どちらが正しかったのかなど、答えはない。
だが、清之助は言った。
「迷いがあるなら、捨てよ。
背負えば、命を落とすこともある」
その言葉に、源海は強く言い返したかった。
だが、できなかった。
――迷いの中心には、確かにお玉がいるから。
*
その頃、お玉は池のほとりを歩いていた。
冬の風に乗って、何かが語りかけてくる。
「嫉妬に苦しんでいるのだろう」
「想い続けても報われぬ」
「だったら、沈めば楽になれる」
お玉は耳を塞いだ。
だが、池の声は耳からではなく、心に直接響いてくる。
「やめて……もう私を揺さぶらないで」
強い意志で言い返したつもりでも、声は震えていた。
その時――
雪が、一片だけ舞い降りた。
白は、希望か、絶望か。
池の水面に落ちた雪は、瞬く間に溶けた。
まるで、恋が触れたとたん融けてしまうように。
*
夜になり、源海は境内の掃除を終え、お玉の家へ向かった。
理由などない。ただ、歩かずにはいられなかった。
池の前にさしかかると、お玉が立っていた。
両手を胸の前に組み、じっと水面を見つめている。
「お玉殿」
源海の声に、お玉は振り返った。
その表情には、安堵と哀しみが混じっていた。
「源海様……わたし、怖いのです。
この池が……わたしを呼んでいる気がして」
源海は強い声で言った。
「呼ばれてはなりません。
池が呼ぶのは、弱った心です」
お玉は唇を噛んだ。
「弱っているのかもしれません。
あなたのことばかり考えて……
嫉妬して……
苦しくて……
どうしたら良いのか……」
ついに、胸の内を吐き出した。
源海の手が、お玉の肩へ伸びかけた。
だが、彼は僧である。
その先へ踏み出すことができない。
しかし――その寸前。
お玉は、涙を落とした。
「もう、沈んでしまいたい」
源海は即座に、お玉の手を掴んだ。
「駄目だ!
あなたは沈ませません!」
戒律が砕ける音が、確かに聞こえた。
*
池がざわめいた。
水面が大きく揺れ、波が立つ。
月が雲に隠れ、風が唸り始める。
まるで池そのものが怒り狂っているかのように。
獲物を奪われた獣の咆哮のように。
源海はお玉を抱くようにして引き寄せた。
「ここから離れましょう!」
震える娘を腕の中に守り、池から遠ざかる。
その途中、源海は気づいた。
池の水面に浮かぶ白い影が――
お玉を、睨んでいた。
*
お玉の家へ送り届けると、母が深く頭を下げた。
源海はただ、「無事でよかった」と言い残し寺へ戻る。
娘は布団に入り、静かに涙を流した。
――どうして、恋はこんなにも怖いのだろう。
恋は命を救う。
恋は命を奪う。
池の水底から、冷たいさざめきが聞こえる。
それは囁きか。
それとも呪いか。
この恋は、果たしてどちらに向かうのか。
月も、風も、池の闇も――まだ答えを持っていない。
──第六章 了──
(第七章につづく)

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