第一章 水面に揺れる影
江戸の町がまだ若く、町人も侍も、明日という言葉を少し頼りなげに口にしていた頃のことである。神田と日本橋の境近くに、それほど大きくもない池があった。水は澄み、周囲の柳が風にささやけば、波紋は静かな音も立てず、ただ広がってゆく。人はその池を、ある者は親しみを込め、またある者は少しばかりの畏れを忍ばせて「お玉が池」と呼んだ。
いまでは、その名の由来を知る者は少ない。だが、そこに暮らす人々は、ときおり池の水面に映る影を見ながら、言いようのない寂しさを感じるという。名が土地に残るとき、その奥には必ず、人の情が沈んでいる。池はそれを抱え込んだまま、今日も黙って光りを飲み込んでいた。
*
お玉という娘がいた。年の頃は十八、父は小間物商を営み、母は針仕事で家計を支えている。暮らしはつつましやかだが、貧しさに背を丸めるほどではない。娘の着物は地味だが綻びはなく、髪も丁寧に結われ、身のこなしから母の几帳面さが窺える。
けれど、娘の瞳の奥には、家業や日々の用事では埋まらぬ「欠け」があった。
「これでよい」と言われれば微笑むが、本心では「本当にこれでよいのか」と問い返したくなる。
人は誰しも、心のどこかにそんな隙間を持って生きている。だが、お玉のそれは、他の娘よりも少しだけ広く、少しだけ深い。
お玉は夕方になると、よく池のほとりに立った。風が吹けば水面に小さな波が立ち、薄桃色の花びらがひとひら、ふたひらと浮かぶ。池を囲む町のざわめきは、遠くの潮騒のように淡く、彼女にひとときの静けさを与えた。
「明日は、何をするのだろう」
そんな問いを、声に出さず水面に投げかける。答えが返ってくるわけではない。だが、答えがなくても、人は生きていける。お玉はそう思っていた。
*
その池のそばには、小さな寺がある。立派な寺ではないが、住職は質素を尊び、掃き清められた境内には凛とした清潔さが漂っていた。寺には若い僧が一人いた。名を源海という。まだ頭を丸めて日も浅い。だが、朝には水を汲み、昼に経を読み、夕には鐘を撞く。その姿は、修行というよりも祈りに近い真摯さを帯びていた。
お玉は、ある日、初めて源海を見た。
彼は桶から水を掬い、境内の石畳に静かに流していた。
陽に透ける水しぶきが、彼の頬にわずかに飛ぶ。
僧はそれを拭いもせず、そのまま手を合わせた。
お玉は立ち止まった。
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
彼女はその気配に戸惑い、すぐに歩みを進めようとしたが、足が言うことをきかない。
風が吹き、柳の葉が揺れる。
源海がふと顔を上げ、お玉の存在を察した。
視線が絡むわけではない。
ただ、同じ風に同じ瞬間、肌を撫でられた。
それだけで、十分だった。
娘は、胸の内がざわめくのを感じた。
それが何かを、まだ知らない。
ただ、今までにない温度が、自分の中に宿ったことを、確かに知った。
*
家に帰ると、お玉はいつも通り母の手伝いをした。
夕餉の支度をし、店先を片付け、夜具を出して並べる。
手は動いても、心は動かなかった。
池の水面に浮かぶ影だけが、瞼の裏に留まっている。
「お玉、針山どこへやったんだい」
母の声に、はっとして振り返る。
針山はいつもの場所に置いたはずなのに、どこにも見当たらない。
お玉は慌てて探し回り、ようやく棚の隅で見つける。
母は苦笑しながら言った。
「今日はどうしたんだい。浮ついて見えるよ」
お玉は首を横に振る。
だが母は、娘の頬がわずかに赤いことに気づいていた。
女が女を育てるとは、そういうささやかな変化を見逃さぬことでもある。
*
翌朝、源海は寺の裏庭で薪を割っていた。
冬が近い。火の支度は欠かせない。
僧とはいえ、寺の仕事は山のようにある。
そこへ、お玉が母の使いで訪れた。
手には、仏前に供える菓子の包み。
足早に済ませて帰るつもりだった。
「ごめんくださいませ」
声をかけると、源海が斧を置いて近づいてくる。
その動きは不器用だが、誠意が覚えやすい。
娘は菓子を差し出し、源海は両手で受け取った。
その瞬間――
指先が触れた。
とても短い、かすかな触れ合いだった。
だが、お玉にはそれだけで十分だった。
胸の奥を、何かが高く打った。
源海は僧としての作法を崩さず、静かに礼を述べた。
「ご供養いたします」
その声は、池に落ちる花びらほど柔らかい。
お玉は返事をしようとして、言葉が出なかった。
ただ、深く頭を下げて足早に去る。
僧は、去っていく娘の背を見ていた。
そこには、春先の蕾に似た、慎ましやかな気配があった。
名も知らぬ情が、人の心に芽吹くとき、
風は必ずそばにいる。
*
夜、お玉はなかなか寝つけなかった。
源海の姿、声、触れた指先。
何度振り払っても、また脳裏に返ってくる。
「どうして」
呟いた声は、夜闇に吸い込まれて消えた。
恋と呼ぶにはまだ早い。
だが、恋ではないと言い切るには、あまりにも熱があった。
娘は唇を噛んだ。
じっとしていれば、心が騒ぐ。
動けば動くほど、心は乱れる。
池の水面と同じで、静けさは揺らぎの前触れなのだ。
*
数日後、突然、店に近所の老婆が訪れた。
「お玉、お前さん、最近よく寺へ行くそうだね」
老婆の笑い皺に隠れた視線が、何もかも見透かしているような気がする。
お玉は耐えきれず、
「お使いで参るだけです」と、ぎこちなく笑った。
老婆はうむ、と頷き、少しばかり声を落とした。
「昔な、あの池には別のお玉という娘がいてね。
恋に破れて、池に身を沈めたんだとさ」
お玉の心臓が跳ねた。
自分と同じ名、その結末。
老婆はさらに続けた。
「名に縋ると、引っ張られることもある。
名は重いもんだよ」
言い終えて帰る老婆の背を、お玉は動けず目で追った。
池は、人の悲しみも受け止める。
その水面に映るものは、いつも優しい。
だが、水の底に沈んだものは、誰にも見えない。
*
その夜、池のほとりで立ち尽くしていた。
風が強く、雲が流れ、月がときどき顔を出す。
「私は……どうなるのだろう」
お玉の声は、風の中に散った。
彼女の瞳は揺れ、
未来を覗き込むことを恐れているようだった。
背後で、かすかに足音がした。
振り向くと、源海が立っていた。
灯籠の明かりに照らされた横顔には、安らぎと陰りが同居していた。
「何か、お困りですか」
その問いかけは、優しさと戒めの両方を含んでいるように聞こえた。
お玉は答えられず、ただ首を横に振る。
僧は少し躊躇してから言った。
「どんな心も、神仏は見守ってくださいます」
お玉は目を閉じた。
涙が、熱を帯びてこぼれる。
僧は言葉を探しながら、何も言えずに立っていた。
恋は言葉と沈黙の狭間で始まる。
その夜、お玉はそれを知った。
*
翌日、池に薄い雨が降った。
雨粒は水面に円を描き、広がり、重なり、やがて消えた。
お玉は傘もささず、しばらくそれを見ていた。
人の心も、雨と同じだ。
浮かんでは沈み、沈んではまた浮かぶ。
どこへ消えたかと探せば、もう形を変えて戻ってくる。
水底では、ゆっくりと何かが動き始めていた。
静かな池の水は、すでに、
ひとりの娘の運命を飲み込み始めていた。
第二章 月影の誓い

秋祭りまで、あと三日という頃だった。江戸の町は、どこか落ち着かぬ空気に満ちていた。誰もが浮き足立ち、町人も武家も、普段の理屈を少し横へと置き、祭りという名の高揚に身を委ねていた。神田明神の周りでは早くも提灯が吊られ、太鼓の音が遠くに響き始めている。
お玉は、夕暮れ時、いつものように池のほとりへ向かった。風が変わり始めている。夏の名残はまだあるが、夜になると冷えが身に刺さる。季節はいつも、人より先に歩みを進める。
池の水面には、薄い雲の切れ間から月が覗いていた。揺れる光が波紋に歪み、まるで夜の底に別の世界が沈んでいるようだった。お玉は袖を握り、静かに息を吐いた。
「――会いたい」
声にならぬ声が胸の奥で形を成すたび、息苦しくなる。
言葉にできないものほど、人の心を締めつけるものはない。
*
源海は、今日も寺の仕事に精を出していた。薪を割り、灯籠に油を足し、境内の掃除を怠らない。それでも――お玉の姿が視界に入った夜から、彼の心にもまた、小さなざわめきが忍び込んでいた。
「僧の身でありながら、何を迷うことがある」
そう己を叱咤するたびに、迷いは深くなる。人の心は常に逆を行く。
源海は、池のほとりに立つ娘を見かけるたび、その背に声をかけたい衝動を感じていた。だが、仏門に身を置く者にとって、それは越えてはならぬ一線に思えた。
――もし、ひとことでも言葉を交わせば。
その言葉が、どれほど心を揺さぶるのだろう。
僧は再び、己の胸を押さえた。
*
その夜、お玉は母に頼まれて、寺に線香を届けることになった。夕食を終えたあとではあったが、お玉はすぐに動き出した。母は気づかぬふりをしていたが、娘の頬がわずかに上気しているのを見逃してはいなかった。
「足元に気をつけなさいよ」
母は一言だけ添えた。
娘の心の行方を見守る――それもまた、母の務めなのだ。
寺の門前に立ったとき、境内はすでに暗くなっていた。灯籠の灯りが揺れ、風に吹かれて影が伸びたり縮んだりする。
お玉は手を合わせ、静かに声を掛けた。
「ごめんくださいませ」
すると、奥から源海が姿を現した。
燈火の向こうで、彼の目がわずかに驚きの色を宿す。
「お玉殿……」
その声を聞いた瞬間、娘の胸は熱を帯びた。
源海もまた、どこか不器用な手つきで受け取った線香の包みを大事そうに持っている。
「わざわざ、こんな遅くに」
「いえ……母が、明日の朝では遅いからと」
言い訳はたやすい。けれど、自分の胸のうちまで偽れるわけではない。
沈黙が、ふたりの間に落ちた。
やがて源海が口を開く。
「池には……よく来られているのですか」
お玉は目を伏せた。
「……はい。あの池を見ておりますと、心が落ち着きますから」
源海は頷いた。
「わかります。水は、祈りと似ています。深いところで、静かに動いている」
お玉の胸に、すっと光が射した。
この人は、自分の心を見てくれている――そんな錯覚にも近い喜びが湧く。
「もし……迷いがあれば、いつでも」
そこまで言いかけて、源海は言葉を飲み込んだ。
僧として、踏み込んではならぬ領域がある。
だが、お玉は微かに微笑んだ。
迷いがあることを、彼は気づいてくれている。
*
その後、お玉は少しの時間だけ境内に留まった。夜風が冷たいが、心には暖かさが宿っている。源海が灯籠の灯りを調える背中を見つめるだけで、自分の中に新しい色が増えていく。
ふいに、境内の隅から声がした。
「坊主の身で、何を笑ってる」
粗野な声だった。振り向くと、酔いどれの男がひとり、足元をふらつかせながら立っていた。
手には酒徳利。顔は朱に染まり、目が濁っている。
「町娘と馴れ合って、立派なもんだ」
男の声には、嫉妬とも嘲りともつかぬ感情が混じっていた。
源海は慌てて男に近づき、穏やかに諭す。
「お帰りください。ここは仏の御前です」
しかし男は聞く耳を持たぬ。
「仏だと?坊主のくせに女をたぶらかして……!」
そのとき、お玉の胸に鋭い痛みが走った。
自分が原因で、源海が咎められている――それが耐えられなかった。
「やめてください!」
娘は思わず声をあげた。
その声に、酔いどれは目を丸くし、一瞬怯む。
その隙に、寺男が駆けつけ、男を外へ押し出した。
騒ぎは、あっけなく終わった。
だが、お玉の胸は震えていた。
源海もまた、言葉を失い、ただ娘を見つめている。
「……申し訳ありません」
その深い謝罪の響きに、お玉は首を振った。
「悪いのは、私です」
違った。
本当は、誰が悪いわけでもない。
ただ――ふたりが向き合ってしまっただけだ。
*
その夜、お玉は眠れなかった。
布団に入っても、瞳を閉じても、源海の声が耳に残る。
「迷いがあれば、いつでも……」
あの言葉の続きは、なんだったのだろう。
言えなかった言葉ほど、人を縛るものはない。
娘は、胸に手を置いた。
自分の鼓動が、はっきりと聞こえる。
恋というものが、これほど体に近い場所にあるということを、初めて知った。
*
一方、寺では源海が灯りも落とせぬまま座していた。
僧の道とはなにか。
迷う心は罪なのか。
求める心は咎なのか。
ただひとつ確かなのは――
彼の心は、かすかに、しかし確かに、お玉へ向かい始めていた。
「祈りは、心を澄ませるためのものだ。
だが、心そのものが揺らぐなら、どう祈ればいい――」
答えは、闇の中に沈んでいった。
*
翌日、池の周りが騒がしかった。
近所の子供たちが何やら騒ぎながら走り回っている。
お玉が近づくと、老婆が一人、池を指差した。
「見なさいよ、お玉。池が濁っているんだよ」
確かに、水はいつもの澄みを失っていた。
深いところで、何かが蠢いているように見える。
「……雨でも降りましたか」
「いや、空は晴れだ。
だが、池は人の心と同じでね、何かが起こればすぐに顔に出るものさ」
老婆の視線が、お玉へ向けられた。
どこか、知っているような目つきだった。
お玉は思わず足元を見つめた。
池の水面は、彼女の影を歪めて映した。
その歪みこそ、今の自分の心だと知りながら。
*
秋祭りの前夜、月は丸かった。
町には、太鼓の余韻と笑い声が漂っている。
お玉は、どうしても静かに池を見たくて、母に断って外へ出た。
池のほとりに立つと、夜風が髪を揺らした。
静けさがどこか切なく、愛おしい。
――すると、背後から静かな足音がした。
振り向くと、源海が立っていた。
「お玉殿……」
声は震えていた。
僧は迷っていた。
だが、その迷いこそが、ふたりを近づけていた。
言葉がなくてもよかった。
池はすべてを見ていた。
月はすべてを照らしていた。
源海が、小さく囁いた。
「あなたが無事なら、それだけでよい」
その言葉は、お玉の胸に深く落ちた。
涙が頬を伝い、彼女はただ頷いた。
池の水面が、ふたりの影をひとつに結ぶ。
それは、祈りとも誓いともつかぬ、静かで確かな結びつきだった。
月が雲に隠れたとき、
ふたりの距離は、
もう元には戻らなかった。
──第二章 了──

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