上田秀人を模倣し「島原・天草の乱」を題材にした小説『暁の果断 ―島原乱記―』第七章

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第七章 沈黙の果て

 江戸の町は、再び立ち上がっていた。

 大地震によって崩れた家々も、数か月のうちに再建の槌音が響きはじめ、

 焼け跡には仮の茶屋が並び、職人の掛け声が往来を埋めていた。

 人は滅びても、町は生きる。

 そして、その町を動かすのは、信でも理でもなく、「生きよう」とする本能であった。

 松平信綱は、江戸城西の丸の一角にある執務の間で、

 大地震の復興に関する報告書を読んでいた。

 その筆致は冷静で、被害を数値に換算し、

 死者・倒壊・焼失・再建の進度までが一目で分かるようにまとめられていた。

 「理は数字に宿る」

 それが信綱の信条であった。

 しかし、この紙の上の数値が表すものの裏に、

 どれほどの祈りと絶望が渦巻いているか、彼は痛いほど理解していた。

 ――人は、恐れの前で信を呼び、痛みの後で理を求める。

 その揺れの中にこそ、人の真がある。


 ある日、信綱のもとに一通の文が届いた。

 差出人は、長崎奉行所の役人であった。

 《再び島原の地に、祈りを集める者あり。

  海辺に立つ古き十字架の下に、夜な夜な灯が揺れるという。》

 その報せに、信綱の眉が僅かに動いた。

 「……終わらぬか。」

 彼は、紙を丁寧に畳み、机の端に置いた。

 報告を握り潰すことも、処罰を命じることもできた。

 しかし、彼はどちらもしなかった。

 彼の中で、すでに“理による抑圧”は一つの限界を迎えていた。

 理は、秩序を作る。

 だが、人の心は秩序を越えて彷徨う。

 そのことを、島原の炎で彼は学んだ。


 その夜、信綱は庭に出て月を見上げた。

 庭石に映る月影が揺れ、池面にさざ波が立つ。

 かつて天草四郎が、同じように月を見上げて祈っていた光景が思い浮かんだ。

 「信とは、理の果てにあるものなのか。

  それとも、理を越えた闇の中にあるものなのか。」

 その問いの答えを、彼はまだ持たなかった。

 ただ、己の中に生まれた“沈黙”が、かつての確信を覆していくのを感じていた。


 数日後、幕閣の評定が開かれた。

 議題は、天草の再開発――つまり、あの戦場を農地として再生する計画であった。

 老中・阿部忠秋が言う。

 「民の記憶を封じるためにも、あの地を新たな田畑とし、祈りの跡を消すべし。」

 他の者たちも賛同した。

 「その通り。過去は忘れさせねばならぬ。」

 信綱は黙って聞いていた。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

 「忘れさせることが、治めることではございませぬ。」

 一同がざわめいた。

 家光の側近が問う。

 「では、どうするというのだ? 祈りを放置すれば、再び乱が起こるぞ。」

 信綱は静かに答えた。

 「人は忘れても、土地は覚えております。

  血を流した地は、理では鎮まらぬ。

  ならば、記すがよい。あの地を“理によって滅ぼされた信の地”として記すのです。」

 その発言は、議場の空気を変えた。

 「記す……とは?」

 「記憶を封じるのではなく、語り継がせる。

  その記録がある限り、人は理と信の両方を忘れぬ。」

 沈黙が落ちた。

 そして家光が口を開いた。

 「面白い。では信綱、そなたの理で、信を記せ。」

 信綱は深く頭を下げた。

 その瞬間、彼の胸に一つの覚悟が芽生えた。

 “滅ぼすための理”ではなく、“伝えるための理”を作ると。


 その後、信綱は命じて「島原乱記」を編纂させた。

 それは、戦の経緯を記録する文書でありながら、

 同時に人々の祈りや嘆きをも丁寧に書き留めた異色の記録だった。

 役人たちは不思議そうに尋ねた。

 「殿、なにゆえ反乱者どもの声まで書き留めるのですか。」

 信綱は答えた。

 「彼らもまた、この国の理を照らす影である。

  影を知らずして、光は見えぬ。」

 編纂は二年をかけて行われた。

 信綱は自ら文を校閲し、誤字の一つすら見逃さなかった。

 その筆の跡には、戦場で感じた熱と煙の匂いが、今も染みついていた。


 冬のある日、信綱は家光のもとへその書を献上した。

 将軍は巻物を手に取り、静かに読んだ。

 やがて目を上げ、言った。

 「この書は、理の書ではないな。……人の書だ。」

 信綱は答えた。

 「理は人のためにあり、人は理のために生きませぬ。

  ゆえに、この書は“理と信の交わる場所”として残すべきものにございます。」

 家光は微笑んだ。

 「おぬしも丸くなったな、信綱。」

 「いいえ、殿。私はただ、沈黙の声を聞くことを学びました。」


 夜、信綱は屋敷で巻物を見つめていた。

 蝋燭の火が揺れ、その炎が書面の文字を照らす。

 ふと、彼の耳に風の音がした。

 遠く島原の海を渡ってくるような音――。

 その風に混じって、どこからか祈りの声が聞こえる気がした。

 天草四郎の声なのか、それとも、理に滅ぼされた人々の声なのか。

 「……沈黙とは、神が語る方法である。」

 信綱はそう呟き、筆を取って最後の一文を書き加えた。

 ――“理の果てに沈黙があり、沈黙の果てに人がいる。”


 春が巡り、桜が咲いた。

 江戸の町では、人々が花見を楽しみ、笑い声が溢れていた。

 信綱は馬に乗り、上野の山を通りかかった。

 その丘の上に、彼は小さな祠を見つけた。

 粗末な木札に、墨でこう書かれていた。

 「天草の魂をここに鎮む」

 風が吹き、花びらがその札を包んだ。

 信綱は馬上から降り、静かに手を合わせた。

 祈るわけではない。

 ただ、己の理を、この地の静けさに重ねた。

 「理も信も、いずれは沈黙に帰す。

  だが、沈黙こそが、真の声を宿すのだ。」

 その言葉は風に溶け、どこまでも遠くへ流れていった。

 やがて、空の向こうに朝日が昇る。

 暁の光が、灰の大地を照らした。

 それは、滅びの後に訪れる“再生の理”の光であった。


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