第三章 沈黙の策謀
有馬の風は、まだ冬の冷たさを残していた。
その風を切るように、一人の若き男が丘の上に立っている。
天草四郎――名を益田時貞という。年は十六。
だが、その瞳には年齢を超えた深い憂いと、神に選ばれた者の静かな確信があった。
眼下には原城の石垣が、海風に晒されながらもなお堅牢に聳え立っている。
島原・天草の一揆勢、総勢三万余。
女も子供も含めたその群れの多くは、飢えと寒さに耐え、祈りと信仰を糧に生きていた。
彼らにとって四郎は、神と人との間をつなぐ“光”であった。
しかし――その光の向こうで、幕府は静かに“影”を伸ばしていた。
松平信綱。老中にして、この乱を鎮める責を負う。
江戸では「知恵伊豆」と呼ばれる切れ者であった。
彼は単なる武断ではない。戦を数で制するより、心を読み、信を断つことで勝ちを掴む。
その夜、信綱は島原半島の陣中にて、幕僚を前にこう語った。
「この乱、ただの宗門騒動にあらず。
信仰に火を灯された者の心は、刀では斬れぬ。
――ならば、信を断ち、疑を植えねばならぬ。」
幕臣たちは顔を見合わせた。
信綱の言葉はいつも静かであるが、そこに含まれる理は鋭い。
“殺す”のではなく、“折る”のである。
「四郎を神と仰ぐならば、神の沈黙を疑わせよ。
食を絶ち、援けを絶ち、祈っても天が応えぬ現を見せるのだ。」
その指示の下、幕府軍は徐々に包囲を狭め、補給路を断ち始めた。
戦わずして心を壊す――信綱の戦法は、冷徹にして緻密であった。
一方、原城では、飢餓が徐々に牙を剥き始めていた。
貯えた米は底を尽き、干した芋もすでに黒ずみ、
母親たちは泣く子の口に麦の籾殻を含ませていた。
それでも、四郎の前で誰一人、不満を口にする者はいなかった。
彼の声を聞くだけで、皆が再び祈りを思い出すからだ。
夜ごと、四郎はろうそくの火の前で祈っていた。
「主よ、この身に御業(みわざ)を示し給え。
民の苦しみを、光に変え給え。」
その祈りの姿は、まだ少年のものだった。
だが、少年の祈りが“神の声”として人々の心を支配していく――
そこに、この戦の悲劇が潜んでいた。
信綱は、密偵を何人も城内に放っていた。
中には、一揆勢の信者に成りすました者もいる。
彼らは飢えた城内の者に、静かに囁いた。
「神は何故、黙しておられるのか?」
「天草様が祈っても、なぜ食も雨も与えられぬのか?」
その囁きは、火の粉のように小さくとも、乾いた心には燃え移る。
四郎はそれを察していた。
「信の乱れこそ、滅びの兆し」――彼はそれを理解していた。
ある晩、家臣の一人が進言した。
「四郎様、いっそ夜襲を仕掛けて道を開くべきかと。」
四郎は首を振った。
「それは神の御心にあらず。今は試練の時。
人の策ではなく、主の御意に従うべし。」
家臣は下を向いた。
だが、四郎のその言葉には、どこか人間らしい“恐れ”が混じっていた。
――彼もまた、神の沈黙に怯えていたのである。
信綱は、捕らえた農民を尋問し、四郎の行動を分析していた。
「彼は信仰に生き、理では動かぬ。ならば――理を以て、信を崩す。」
幕府の陣には、一人の宣教師崩れの男が呼び出された。
かつて日本に潜入し、棄教した異国人――“元信徒”である。
信綱は彼に命じた。
「四郎の前で“神は汝を見放した”と告げよ。
神の声を模して、神の信徒を惑わせるのだ。」
男は震えながら頷いた。
「……ですが、もし彼が本当に“選ばれし者”であれば?」
信綱は冷ややかに答えた。
「ならば、神が我らを討つであろう。
だが、私は“人の理”を信ずる。」
その一言に、信綱の冷徹な信念があった。
彼は宗教を否定してはいない。ただ、“理と秩序”を第一としたのだ。
原城では、夜ごとに呻きと祈りの声が交錯していた。
餓死者が出はじめ、埋葬の暇もなく、寒風に晒された遺体が並ぶ。
それでも民は、四郎の名を呼び、天を見上げる。
「天草様、どうか奇跡を……」
その声が夜空に消えていくたび、四郎の心は少しずつ軋んでいた。
神は沈黙している。
その沈黙の意味を、誰よりも問いたかったのは――四郎自身だった。
彼はひとり、教会跡の小さな十字架の前に立ち、
「主よ、もし我らが罪人なら、何ゆえにこの命を与えたのですか」と呟いた。
涙が頬を伝い、指先でそれを拭うと、冷たい風が頬を刺した。
その背に、老僧が静かに近づいていた。
彼は天草一揆の中でもっとも古参の信者で、
若き四郎を「聖者」と信じてやまぬ者だった。
「時貞様、迷いは罪ではありませぬ。
迷いの果てに、信は磨かれるもの。
神は、沈黙のうちに答えをお持ちです。」
四郎はその言葉にうなずいた。
だが、胸の奥に残ったのは――“恐れ”であった。
もし神が沈黙したままなら、この祈りは誰に届くのだろう。
その頃、信綱は最後の包囲網を完成させていた。
城を囲む堤には火薬樽が仕掛けられ、
夜陰に乗じて、城内に向けて檄文を放った。
『神は黙した。されど人は裁く。
降伏すれば命を助けよう。』
その文は、血のような赤い墨で書かれていた。
それを拾った農民の女は、震える手で四郎に差し出した。
「時貞様……神は、本当に我らを見ておられるのですか?」
四郎は答えられなかった。
ただ、唇を噛み、夜空に向かって祈った。
だが、その夜、天はやはり沈黙していた。
――信と理がぶつかり合う、静かな地獄の幕が上がろうとしていた。
第四章 火の雨

天草の空は、燃えていた。
それは、神が地上を裁く炎なのか――それとも、人が神を試す業火なのか。
原城の上空を覆う黒煙は、海風に煽られながら立ち昇り、
遠く島原半島の山々まで赤く染め上げていた。
松平信綱は、丘の上の本陣に立ってその光景を眺めていた。
「火をもって信を試す。……これもまた、神の御業であろうな。」
彼の声は静かだった。
しかし、その瞳には人間の理による確信が宿っていた。
幕府軍は、原城を三重に包囲していた。
前線には譜代の諸藩、背後には鉄砲隊、さらに海上からは長崎奉行の船団が控える。
天草四郎ら一揆勢を封じ込め、いまや逃げ場はない。
だが、戦は単なる包囲戦ではなかった。
信綱は“理”をもって“信仰”を滅ぼそうとしていた。
「戦とは、人の心を折ることから始まる」――それが彼の戦法であった。
原城の中では、餓えと寒さが頂点に達していた。
米は尽き、塩も底を突いた。
人々は干し草を煮て腹を満たし、子の死体を埋める力さえ失いつつあった。
しかし、天草四郎だけは、なお穏やかな声で祈りを続けていた。
「主よ、我らを試みにあわせ給うな。
けれども、もしこれが御心なら、どうか耐える力をお与えください。」
彼の姿は、もはや人ではなく、信仰そのものに見えた。
城内の民は、その姿に縋るように膝をつき、手を合わせた。
「天草様がいる限り、我らは滅びぬ」
その声が、凍てつく夜風にかすかに溶けていく。
だが、四郎の胸中は、静かな葛藤で満ちていた。
――神は沈黙している。
祈っても、何の兆しもない。
それでも信じることが“救い”なのか。
それとも、“盲信”なのか。
四郎は焚火の前で膝を抱え、ただひとり空を見上げた。
その眼差しには、少年の脆さと聖者の強さが共存していた。
一方、幕府軍では、総攻撃の準備が進められていた。
松平信綱は、陣帳の前で筆を執り、作戦命をしたためた。
「夜明けとともに火矢を放て。
火は神の象徴でもある。彼らの信じる神を、火によって浄化せよ。」
その筆致は冷静そのものだった。
幕臣が問うた。
「殿、女子供までも巻き添えになりますぞ。」
信綱は筆を止め、短く答えた。
「戦に理を問うな。理を欠いた慈悲は、乱を招く。」
その一言に、幕臣は息を呑んだ。
人間らしい情を捨てることこそ、為政の義である――
それが、信綱の信念であった。
夜が明けた。
海からの風が冷たく、霜が草を白く染めていた。
原城の外郭に並ぶ幕府軍の鉄砲隊が一斉に火縄を構える。
次の瞬間、轟音が響き、火の粉が空に散った。
続いて火矢が放たれる。
炎は、乾いた城壁の板を舐め、瞬く間に燃え広がる。
黒煙が立ち上がり、女たちの悲鳴が空を裂いた。
天草四郎はその炎を背に、十字架の前に立った。
「主よ……どうか、我らの魂をお受けください。」
彼の声は、炎の轟きにもかき消されぬほど強かった。
彼の横で、老僧・玄心が涙を流していた。
「四郎様、奇跡は……もう起こらぬのですか?」
四郎は微笑んだ。
「奇跡とは、神が人を救うことではない。
人が神を信じ続けることこそ、奇跡なのです。」
その言葉に、玄心は嗚咽を堪え、静かにうなずいた。
炎の中でなお祈るその姿は、まるで光の化身のように見えた。
幕府軍の陣から見える原城は、炎の渦に包まれていた。
黒煙の向こうに、白い装束をまとった群れが見える。
それは逃げ惑う者ではなかった。
十字を切りながら、火に包まれたまま立ち尽くす信徒たちの姿だった。
「……彼らは、死を恐れぬか。」
幕臣の一人が思わず呟いた。
信綱は静かに答えた。
「恐れぬのではない。信じるからだ。
だが、信じる者ほど脆い。
――神が黙した瞬間、人は己を見失う。」
信綱の言葉には、冷たさと哀れみが混じっていた。
彼もまた、信じるものを持たぬ孤独な男であったのかもしれない。
炎の中で、四郎は神の像を見つめていた。
「主よ……我らは、滅ぶのでしょうか?」
誰も答えなかった。
炎の轟音と共に、十字架の影が崩れ落ちていく。
四郎はゆっくりと立ち上がり、天を仰いだ。
「それでも――我らは信じます。」
その声が風に乗って、遠く海を越えて響いた。
敵陣の兵の中には、思わず膝をつき、合掌する者もいた。
それほどまでに、その声には静かな力があった。
日が沈むころ、原城はほぼ陥落していた。
生き残った者たちは捕らえられ、天草四郎もついに幕府軍の前に引き出された。
信綱は彼を見下ろし、言葉をかけた。
「汝の信は、理に勝つと思ったか。」
四郎は弱々しく微笑んだ。
「理もまた、主の与えしもの。
ですが、人の理は魂を救えぬ。」
信綱は沈黙した。
そしてゆっくりと背を向けた。
「……この少年に手をかけるな。彼の死は、もはや神の手に委ねよ。」
その命により、四郎は斬首されることなく処刑されたという。
彼の最期を見た兵士は後に語った。
「火の中に立ち、天を見上げて笑っていた。まるで、光を見たようだった。」
戦が終わり、海風が煙を吹き払うころ、松平信綱は陣を立った。
原城の跡には、焼け焦げた十字架と、黒く焦げた祈祷書が転がっていた。
それを拾い上げ、彼は小さく呟いた。
「信とは、滅びても残るものか……。」
その問いの答えは、誰にもわからなかった。
ただ、海鳴りの向こうから、かすかに祈りの声が聞こえた気がした。
それは、天草四郎の声だったのか――
あるいは、沈黙の中に宿る“神”の声だったのか。
(第五章につづく)

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