第九章 記者の祈り
夜明け前の東京は、静寂の中に不安を孕んでいた。
冷たい風が高層ビルの谷間を抜け、街路樹を震わせる。
杉本は、新聞社の屋上に立っていた。
眼下にはまだ灯りの点る編集部。
彼が書いた記事――〈信仰と金の影を追って〉は、いままさに全国に配信されようとしていた。
背後でドアが軋む音がした。
北見デスクだった。
「おい、また屋上か。風邪ひくぞ」
杉本は振り返らずに笑った。
「風邪より、こっちの方が冷たいですよ」
「……世間の反応か?」
「はい。信者からも一般読者からも、“何様のつもりだ”と罵られています」
「だが、お前の記事で何人もの被害者が声を上げた。それで十分だ」
杉本は小さく息を吐いた。
「――十分、ですかね」
北見は黙った。
彼の目には、記者としての苦悩と人間としての無力が交錯していた。
「お前、神なんてものを信じるか?」
「わかりません。ただ、沈黙の中で誰かが見ている気がするんです」
北見は肩をすくめて笑い、「それならまだ救われてる」とだけ言い残して去った。
*
翌日。
杉本は、取材である女性に会うため、郊外の古い団地を訪れた。
女性の名は、坂井恵。
教団の元信者であり、かつて「献金指導」の現場にいた人物だった。
「あなたが杉本さん?」
玄関を開けた坂井は、やつれた顔に微笑みを浮かべた。
部屋にはカーテン越しに弱い冬の光が差し込んでいた。
壁には、まだ外せずにいる宗教のシンボルが貼られている。
「ここに来るのは勇気がいりました」
杉本が言うと、坂井は静かに頷いた。
「私も、話す決心をするまでに十年かかりました」
二人はちゃぶ台を挟んで向かい合った。
テーブルの上には、古い通帳と数枚の献金記録書。
そこには手書きで、金額と教会名、そして「神のために」という文字が繰り返し書かれていた。
「この字、夫のものです」坂井はかすかに震える指で文字をなぞった。
「彼は“神の愛を証明するため”と言って、すべてを捧げました。家も、貯金も、子どもの学費も。
気づいたときには、何も残っていませんでした。……でも、一番つらかったのは――」
彼女の目から涙が落ちた。
「信じていた“神”が、誰も助けてくれなかったことです」
杉本は言葉を失った。
彼はノートを閉じ、ただ黙ってその沈黙に寄り添った。
*
帰り道、電車の窓から夕暮れの街を眺めていた。
空は鉛色で、ビルの向こうにわずかな光が残っている。
杉本は思った。
――この国は、なぜこれほどまで“救い”を求めるのか。
高度経済成長が終わり、バブルが崩壊してから、
人々の心はどこかに「拠り所」を探し続けている。
宗教であれ、金であれ、思想であれ。
人間は“信じたいもの”がなければ生きられないのかもしれない。
しかし、その信じたいという欲求こそ、誰かに利用されている。
祈りはいつしか商業化され、救いは取引の対象となった。
杉本の胸に重くのしかかるのは、そうした「信仰の歪み」だった。
*
夜。
彼は、以前通っていた教会を再び訪れた。
扉を押し開けると、聖堂の中には誰もいなかった。
十字架の前に、一本の蝋燭が灯っている。
その光だけが、闇の中で静かに揺れていた。
彼は膝をつき、胸の奥から言葉を絞り出した。
「神よ、あなたはなぜ黙っているのですか。
人々が苦しみ、信仰を利用されているのに、
なぜ沈黙を続けるのですか」
返事はなかった。
ただ、蝋燭の炎が小さく揺れた。
しかしその揺れの中に、微かな温もりを感じた。
“神の沈黙は、拒絶ではなく、見守りなのかもしれない”――
ふと、そんな思いが胸をよぎった。
*
数日後、杉本は社に呼び出された。
副編集長の部屋に入ると、机の上には一枚の書類が置かれていた。
「君の原稿、今朝削除された。上層部の判断だ」
「……どうしてですか?」
「“政治的配慮”だそうだ。例の献金問題、与党に近いスポンサーが絡んでいる」
杉本の拳が震えた。
「真実を書いて何が悪いんですか」
副編集長は眉をひそめた。
「理想だけで新聞は出せない。……分かるだろ?」
その言葉は、銃弾のように胸を撃った。
報道の使命とは何か。
信仰と同じく、それもまた“沈黙”の中で試されているのではないか――。
*
夜、杉本はノートパソコンの前に座った。
社では載せられない記事を、自らの手で書き上げるためだ。
タイトルを入力する。
『沈黙の祈祷 ―人はなぜ神に縋るのか』
指が動き出した。
坂井恵の言葉、高梨の死、牧師・永井の静かな眼差し――。
それらすべてを、祈りのように記していった。
「信仰とは、人が闇の中で自ら灯す小さな光である」
「神の沈黙は、人の叫びを聴くための“空白”である」
書きながら、涙が滲んだ。
これは報道ではなく、もはや懺悔文だった。
記者である前に、人間として書かなければならない。
沈黙を恐れず、沈黙に寄り添う文章を――。
*
明け方。
彼は屋上に出た。
東の空が白み始めている。
街の灯りが少しずつ消えていき、かわりに朝の光が街を染めていく。
風が頬を撫でた。
その冷たさが、奇妙に優しく感じられた。
彼は目を閉じ、両手を合わせた。
「神よ、もしあなたが沈黙の中におられるなら、
どうかこの声を聞いてください。
私はあなたに問う者ではなく、
あなたの沈黙の中で、生きる者でありたい」
その瞬間、遠くで教会の鐘が鳴った。
低く、深く、冬の空に響く音だった。
杉本はゆっくりと息を吐いた。
沈黙は消えなかった。
だが、その沈黙の中に、確かに“答え”があった。
*
――人は沈黙の中でしか、真実に触れることができない。
神もまた、人の沈黙の中でしか、語らないのだ。
夜が明ける。
白い光が街を包み、遠くのビルの屋上に新しい一日が始まる。
杉本はゆっくりと立ち上がり、
まだ濡れた屋上の床に、小さな足跡を残して歩き出した。
その姿は、どこか祈る者のように見えた。
第十章 光の方へ
その朝、東京の空は重たく曇っていた。
冷たい風が街を抜け、新聞配達のバイクの音が遠くに響く。
杉本は、編集部の屋上から空を見上げていた。
灰色の雲の向こうに、かすかな光が差している。
――夜明けは、沈黙の果てにやってくる。
そう呟きながら、彼はポケットの中のUSBメモリを握りしめた。
そこには、削除された記事の完全原稿と、坂井恵から託された新たな資料が保存されている。
その中には、教団と政治家の癒着を示す具体的な金の流れが記されていた。
彼は、もはや迷っていなかった。
報道の使命とは、誰かのために真実を差し出すことではない。
“真実そのものを、誰もが見られる場所に置くこと”――それが、祈りに似た行為であると悟っていた。
階段を降り、編集部の自席に戻ると、北見デスクが目を丸くして言った。
「おい、まだ来てたのか。お前、昨日辞表出したんじゃなかったのか?」
杉本は笑った。
「辞めるのは“組織”です。仕事は、やめません」
そう言って、自分のノートパソコンを開く。
キーボードを叩く音が、夜明けの静寂を破った。
送信先は、国内外の複数の独立メディア、報道NGO、そして匿名掲示板の調査チャンネル。
数年前まで、そんな手段は卑劣な“内部告発”と呼ばれていた。
だが、今は違う。
大手が沈黙するなら、沈黙を破るのは、無名の声たちだ。
「神は沈黙しても、人間は書ける」
杉本は小さく呟いた。
Enterキーを押すと、送信完了の音が鳴った。
画面に映るのは、無機質な「データ転送完了」の文字。
だがそれは、祈りの鐘のようにも聞こえた。
*
午後、杉本は品川の喫茶店「ルミエール」にいた。
窓際の席で、坂井恵と向き合っている。
彼女の表情は穏やかで、以前のような怯えはなかった。
「あなた、書いたんですね」
「ええ。もう誰も止められない場所に、すべてを置きました」
「怖くないですか?」
「怖いですよ。でも、もう“沈黙の側”にいたくないんです」
坂井は小さく笑った。
「私も、少しだけ救われました。
あの頃、神の沈黙を恨んでいました。でも今は、
“神は人を通して語る”んだと、あなたの記事を読んで思いました」
店の外では、雪が舞い始めていた。
都会の喧騒が遠くに聞こえ、窓ガラス越しに街路樹の影が揺れる。
杉本はコーヒーをひと口飲み、深く息を吐いた。
「沈黙は、神が人に“考える時間”を与えるための余白かもしれませんね」
坂井は頷き、マフラーを巻き直して立ち上がった。
「これから実家に帰ります。母の墓に報告を」
「きっと喜びますよ」
坂井は微笑んで去っていった。
その背中を見送りながら、杉本は窓の外の雪を見つめた。
白い静寂が街を包んでいく。
*
翌日。
ニュースサイトには、杉本の書いた告発記事が掲載されていた。
タイトルは――
「沈黙の祈祷――信仰の裏で流れた金」。
公開から数時間でアクセスが集中し、SNSでは瞬く間に拡散された。
政府関係者、教団代表、広告代理店――誰もコメントを出さなかった。
だが、沈黙の裏で、世論は静かに動き始めていた。
「……あなたの記事、読んだよ」
北見からの電話だった。
「上はカンカンだ。だがな、若い記者たちは“本物の報道だ”って泣いてたぞ」
杉本は笑った。
「それで十分です」
受話器を置いたとき、彼の目から一筋の涙が落ちた。
それは悔しさでも、後悔でもなかった。
人間の中にまだ“声”があることへの、安堵の涙だった。
*
その夜。
杉本は再び、あの古い教会を訪れた。
雪は止み、空には満月が浮かんでいた。
教会の扉を開けると、蝋燭が一つだけ灯っている。
祭壇の前には誰もいない。
だが、不思議なほどに“誰かがいる”気配がした。
彼は静かに歩み寄り、ベンチに膝をついた。
両手を組み、目を閉じる。
「神よ、私はあなたの声を聞いたことがありません。
けれど、あなたの沈黙の中に、確かに“人の声”を聞きました。
それが祈りなら、私は今日、書くことで祈りました」
しばらくの間、静寂だけがあった。
やがて、蝋燭の炎が小さく揺れ、彼の影が長く伸びた。
外から風が吹き込み、木の扉がわずかに軋む。
――その音は、まるで応えるようだった。
*
翌朝。
新聞各紙の一面に、こう書かれていた。
> 「旧宗教団体と政治家の資金関係、捜査当局が本格調査へ」
杉本は自宅のテーブルに新聞を置き、しばらく見つめた。
記事には自分の名前はなかった。
だが、それでよかった。
報道とは、“真実が世に出ること”そのものが目的だ。
名誉も報酬もいらない。
ただ、沈黙の闇を少しでも照らせたなら、それでいい。
コーヒーを飲み干し、コートを羽織る。
部屋を出ると、朝の光が街を黄金色に染めていた。
人々が歩き出し、車のエンジン音が響く。
世界は、何事もなかったかのように動いている。
だが、確かに“何か”が変わり始めていた。
杉本は立ち止まり、東の空を見上げた。
雲の隙間から差し込む光が、街をゆっくりと照らしていく。
その光の中に、彼は亡き母の微笑みを見た気がした。
――「神は、あなたを赦してくださるでしょう」
幼い頃、母が残したノートの一節が脳裏に浮かぶ。
あの日読んだ言葉が、今ようやく意味を持つ。
赦しとは、他者から与えられるものではない。
それは、自分が“沈黙の中で受け入れる”ものだ。
杉本は深く息を吸い、歩き出した。
冷たい風が頬を撫でたが、不思議と心は温かかった。
遠くで、教会の鐘が鳴った。
その音は、もはや哀しみではなかった。
祈りが、沈黙を超えて届いた証だった。
*
――沈黙とは、神が最後に残した言葉である。
それを聞く者だけが、光の方へ歩いていける。
杉本の背中に朝日が当たり、長い影が街の舗道に伸びていく。
彼は振り返らなかった。
ただ、前へ――光の方へ。
(第二部・暗影の果て 終)

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