第七章 報道という十字架
東京の冬の朝は、灰色の雲に覆われていた。
冷たい風がビルの谷間を抜け、人々は黙々と歩いていく。
新聞社の玄関に入ると、暖房の熱が一瞬だけ肌を包んだ。
だが、そのぬくもりの裏には、張り詰めた空気が漂っていた。
杉本の書いた記事《沈黙の神々》は、世間を大きく揺らしていた。
教団の献金システム、政治との結びつき、そして内部告発者・高梨の失踪――。
読者の反応は二つに分かれた。
一方は「よく書いてくれた」と称賛し、もう一方は「信仰を侮辱した」と糾弾した。
北見デスクが新聞を机に叩きつけた。
「見ろ、抗議のメールが一晩で千件だ」
「想定内です」
杉本は静かに答えた。
「想定内……か。だがな、あの記事で救われる人もいれば、絶望する人もいる」
「分かっています。でも、黙っていたら、もっと多くの人が苦しみ続けたはずです」
北見は煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
「お前、神に祈ったことあるか?」
「……あります」
「何を祈った?」
「“真実を曲げずに書けますように”と」
「まるで神を記事に使ってるようだな」
「ええ。神を利用しているのは、俺も同じです」
沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、二人の人間の信仰がぶつかり合っていた。
*
その日の午後。
杉本は再び大浦弁護士の事務所を訪れた。
窓の外では粉雪が舞っていた。
弁護士は資料を整理しながら言った。
「君の記事、すごい反響だ。信者たちの中でも“目が覚めた”という声が出ている。
……だが同時に、君を“裏切り者”と呼ぶ者もいる」
杉本はゆっくり頷いた。
「覚悟はしています」
「覚悟なんて言葉、簡単に使うな。真実を書くということは、人を裁くことにもなる。
それを背負えるのか?」
「俺は、神の代わりに裁くつもりはありません」
杉本は目を伏せた。
「ただ、沈黙の中に置き去りにされた声を拾いたいだけなんです」
大浦はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……それは報道じゃない。“贖罪”だな」
「かもしれません」
「だがな、贖罪には必ず“代償”がある。
神は沈黙していても、人間は黙っていない。覚えておけ」
*
その夜、杉本は記者クラブの片隅で一人原稿を打っていた。
窓の外では雪が街灯に照らされ、ゆっくりと舞っていた。
パソコンの光に照らされたノートの端には、母の筆跡があった。
〈神は沈黙する。だが、その沈黙の中で、人は自分の声を見つける〉
指が止まった。
――母さん。
あなたは、この沈黙の意味をどこまで知っていたのか。
信仰とは、神にすがることではなく、神が語らぬときに“人間として生きる”ことなのか。
杉本は深く息を吸い、再びキーを叩き始めた。
*
三日後。
週刊誌の一面に、杉本の記事を引用した特集が載った。
「旧統一教会、政治献金の実態」「報道記者の執念」。
しかし、その裏面には匿名の投稿があった。
〈杉本祐介――信者を利用して名を売る男〉
職場ではざわめきが起きた。
後輩たちは目を合わせようとしなかった。
北見が怒鳴るように言った。
「お前、敵を作りすぎだ!」
「覚悟の上です」
「覚悟で済むか! お前は人を信じすぎる。
神の沈黙を聞こうとして、自分の声を失ってるんだよ!」
その言葉が胸に突き刺さった。
自分は、母を救いたかった。
信仰を歪めた者たちに、光を当てたかった。
だが――いつの間にか、自分も“裁く側”になっていたのではないか。
*
夜遅く、杉本は帰り道の公園に立ち寄った。
雪の積もったベンチに腰を下ろし、両手を組む。
空は鉛色で、街の灯が淡く反射していた。
遠くのチャペルから、聖歌の練習が聞こえてくる。
〈アヴェ・マリア〉
その旋律が、胸の奥の罪をやさしく撫でていくようだった。
「神よ、俺は何を信じているんだろう」
呟くと、吐く息が白く溶けた。
答えは、やはり返ってこない。
だが、沈黙はもはや怖くなかった。
それは、彼の中に“神がまだ生きている”証のように思えた。
*
翌朝。
出勤すると、デスクの上に一通の封筒が置かれていた。
差出人は書かれていない。
中には一枚の手紙。
〈あなたの記事を読みました。
夫は信者でした。
あなたが“沈黙の神々”と書いてくれて、初めて泣けました。
ありがとう。〉
手紙を握りしめたまま、杉本は目を閉じた。
報道とは、人を救うためのものではない。
だが――誰かの涙に寄り添うことはできる。
その瞬間、報道は“祈り”になるのかもしれない。
*
その日の午後、北見が呼んだ。
「お前の記事、続報にするぞ。政治家リスト、公開する」
「本当にいいんですか?」
「ああ。沈黙を破るときが来た。お前が書け」
杉本は頷いた。
ペンを握る指が震える。
〈沈黙は、時に罪を生む。
だが、それを破る勇気もまた、罪である〉
彼はそう書き出した。
*
夕刻、杉本は屋上に出た。
ビルの向こうで夕陽が沈み、街が金色に染まっている。
遠くで教会の鐘が鳴り、風が頬を打った。
ふと、誰かの気配を感じて振り向くと、明子が立っていた。
彼女は小さな十字架を胸に下げていた。
「あなたの記事、読んで……やっと、父を許せる気がしました」
「彼は、信仰に迷っただけです」
「でも、あの人を救ったのは、あなたの言葉でした」
杉本は首を振った。
「俺の言葉じゃない。
ただ、神の沈黙の中で聞こえた“誰かの声”です」
明子は涙をこらえ、微笑んだ。
「……沈黙にも、意味があるんですね」
「はい。沈黙は、終わりじゃない。始まりです」
二人の背後で、街の灯りがひとつ、またひとつと灯っていった。
夜が訪れる。
だが、その夜の闇の中には、確かに“光”があった。
*
その夜、杉本は原稿を最後まで書き上げた。
〈神の沈黙は、報道の沈黙に似ている。
語らぬことで、人は何を守り、何を失うのか。
私たちは問われている。
沈黙を恐れるな。沈黙の中に、真実がある。〉
送信ボタンを押すと、静かな達成感が胸を満たした。
遠くで雪がまた降り始めた。
音もなく降るその白は、まるで世界のすべてを赦すようだった。
杉本は窓の外を見つめ、呟いた。
「報道とは、神の沈黙に耳を澄ますことだ」
そして、深く息を吸い込んだ。
――それが、彼の祈りだった。
第八章 沈黙の証明
雪は、夜の街をすべて包み込んでいた。
東京の灯りさえ、白い静寂の中に沈んでいく。
杉本は会社を出たあと、まっすぐに足を動かす気にはなれなかった。
記事の掲載から三日。
その間に、国会は混乱し、教団関係者が次々に逮捕された。
だが――その光の裏で、闇はさらに深くなっていた。
社に届いた脅迫状。
「信仰を冒涜する者には天罰が下る」
記者仲間のSNSには、誹謗中傷が飛び交った。
そして、昨日。
高梨の遺体が発見された。
山中の工場跡地。
身元確認の報を聞いたとき、杉本は椅子から立ち上がれなかった。
彼が告白した罪、語った恐れ――そのすべてが“沈黙”とともに終わったのだ。
*
夜、杉本は高梨の通夜に向かった。
葬儀場の灯りは淡く、冬の風が線香の煙を揺らしていた。
参列者は十人にも満たない。
信者仲間も、家族も、誰一人姿を見せなかった。
祭壇の上に置かれた遺影は、穏やかな笑みをたたえていた。
だが、その笑みの奥には、深い疲労と諦念があった。
杉本は花を供え、手を合わせた。
――あなたの沈黙は、誰のためだったのか。
神のためか、人のためか。
それとも、もう誰のためでもなかったのか。
祈りながら、彼は胸の奥に疼く痛みを感じた。
報道は真実を明らかにした。
しかしその真実が、ひとりの人間の命を奪った。
それは、神の沈黙を破った代償のように思えた。
*
翌朝。
杉本は編集部に出勤した。
廊下の向こうから、北見デスクが険しい顔で歩いてきた。
「警察から連絡があった。高梨の死について、君の名前が出てる」
「俺が関係あると?」
「“報道が彼を追い詰めた”と一部が言い始めている。
上は、この件で一時的に君を外すと言っている」
杉本は一瞬、言葉を失った。
「……外す?」
「今は“嵐をやり過ごせ”ってことだ」
沈黙。
編集部の時計の針が、やけに大きな音を立てていた。
杉本はただ頷いた。
“沈黙を破った者”が、いま再び沈黙を強いられる。
それは皮肉でもあり、運命のようでもあった。
*
夜。
彼は神楽坂の坂道を登っていた。
雪は止み、路地の灯りが石畳を照らしている。
その先に、小さな教会があった。
数日前まで訪れていた、あの古びた聖堂だ。
扉を開けると、牧師・永井が蝋燭の灯をともしていた。
「また来ましたね、杉本さん」
「……信仰というものを、少し知りたくなったんです」
「信仰とは、知るものではなく、“受け入れる”ものですよ」
二人は長椅子に並んで座った。
教会の中は寒く、息が白く漂った。
「高梨さんが亡くなりました」
永井は小さく頷いた。
「ええ。報道で見ました。……痛ましいことです」
「俺は、彼を救えたでしょうか」
「救いとは、誰かが誰かを“救う”ことではありません。
神は人を救うのではなく、ただ“沈黙”という自由を与えるだけです。」
杉本は顔を上げた。
「沈黙が、自由……?」
「はい。
沈黙は、人間を孤独にする。
だが、孤独こそが“真の祈り”を生むのです。
あなたもまた、その沈黙の中で書いているのでしょう?」
杉本はしばらく言葉を失っていた。
確かに、自分の文章は祈りに似ていた。
赦しを求めるようであり、告解にも似ていた。
「牧師さん……俺は、神を信じられるでしょうか」
「神を信じる必要はありません」
永井は穏やかに笑った。
「神があなたを信じていますから」
*
外に出ると、夜風が冷たく頬を撫でた。
空には雪の名残が漂い、月がぼんやりと霞んでいた。
杉本はポケットから母のノートを取り出し、最後のページを開いた。
〈神は人を罰しない。ただ、人が自分を裁くのを見守っている〉
その言葉が、今になって胸に沁みた。
高梨もまた、自分を裁いたのだろう。
罪のためではなく、“信じたものが偽りだった”という絶望のために。
*
翌日、杉本は一通のメールを受け取った。
件名は「感謝」。
差出人は、高梨の娘・由香だった。
〈父が生前、あなたと話した夜のことを嬉しそうに語っていました。
“あの記者は、俺の沈黙をわかってくれた”と。
報道は父を追い詰めたかもしれません。でも、同時に救ったのだと思います。〉
杉本の手が震えた。
画面の文字が涙で滲んでいく。
「救い」――その言葉は、どこか現実離れして聞こえた。
だが、それでも救いは存在した。
たとえ誰かの死を代償としても、真実を伝えることが意味を持つなら――。
*
その夜、杉本は記者ノートを開いた。
〈沈黙を破ることは、神への冒涜かもしれない。
だが、人の沈黙を放置することは、罪である。〉
ペンが止まる。
窓の外では再び雪が降り始めていた。
その白い世界の中に、音は一切なかった。
けれど、その沈黙の中に“確かな気配”があった。
杉本はペンを握り直し、最後にこう書いた。
〈沈黙とは、神が人に与えた最も深い問いである〉
*
翌朝。
編集部に戻ると、北見が新しい号のゲラを手にしていた。
「お前の続報、載せたぞ」
「……ありがとうございます」
「ただし、見出しは変えた。“沈黙の果てに”。どうだ、似合うだろ?」
杉本は笑った。
「ええ、ぴったりです」
窓の外には、雪に覆われた街が広がっていた。
人々が歩き、息を吐き、また歩く。
彼らの中にもまた、さまざまな“沈黙”がある。
その沈黙の一つひとつに、誰かの祈りが宿っている。
杉本は心の中で呟いた。
――高梨さん、あなたの沈黙は、無駄ではなかった。
あなたの祈りは、言葉になって届いている。
*
夜、帰り道。
教会の鐘が鳴った。
それは、まるで誰かの魂を慰めるように、ゆっくりと響いた。
杉本は足を止め、空を仰いだ。
雪が舞い、街灯の光を受けて淡く光る。
「神よ、あなたの沈黙は、もう恐ろしくありません」
彼の声は、夜に溶けた。
その言葉は誰に届くこともなかった。
だが、確かに神の沈黙の中で、彼自身が“語り始めていた”。
*
――人は沈黙を恐れる。
だが、沈黙の中にこそ、真実は潜んでいる。
報道も、信仰も、祈りも。
すべては、沈黙という名の十字架を背負っているのだ。
雪の降る街を、杉本はゆっくりと歩いた。
足跡はすぐに白に消えた。
だがその白さこそ、赦しの色に思えた。
(第九章につづく)

コメント